例えば箸入れ、コップ、タンスなど。これらの役割を「中間搾取」とよんでみる。

箸入れは、洗った箸を乾かしているカゴから直接取って食卓に持っていけば必要ない。コップは宮本浩次みたいに牛乳パックに口をつけて飲めば必要ない。着用→洗濯機→物干し竿→着用というふうに服を回していけばタンスも必要ない。企業と顧客の間に入ってお金をふんだくり、意味のわからないイルミネーションを広場に設置したりする広告代理店と同じで、本当は必要ないのにそれがないと生活が成り立たないかのようにアジテートしてくるプロパガンダ家具によって、この生活は中間搾取されていると考えてみる。しかし彼らの存在しない生活はあまりにも、なにかがまずい。これらをマジで中間搾取だと信じこみ、徹底的にそういうものを排除してしまうと、たぶん人間ではなくなってしまう。高橋ヨシキが言っていたように、人間には「象徴」がないと生きていけない。たとえ不必要に思えても、たんなる儀式に見えても、それがなくなってしまうと、たぶんぼくたちは人間としての生を生きられない。コンビニで買った惣菜でも、直接食べるのではなく、とにかく一旦皿に盛り付けて食べたほうがいい。そうに決まっている。しかしそんなことは百も承知で、中間搾取と呼んでみたい。そんな気持ち。(05181042)

Posted by satoshimurakami