この瞬間の現実に永遠の相をみること

量としての時間。奨学金を完済するまで、唐辛子の種が発芽するまで、洗濯物が乾くまで、お茶が抽出されるまで、あるいは死ぬまでの待ち時間。これらを多く手にかければかけるほど鈍くなっていくもの。そこからの離脱。緑や、虫や、命。時間の中で見るという罠に陥らないように観ること。やっと発芽したねとか、まだもうすこし時間がかかりそうだね、とかではなく、種が発芽するという事態、そのものへの喜び。発芽する種のなかに永遠を観ること。

量としての時間を測ってみるのも面白い。近い未来に魚の漬け焼きを食べるため、あらかじめ魚を生姜醤油につけておくことや、近所で切り倒された桜を挿し技にするため、根が出るまで植木鉢に挿しておくことや、日々ぬか床の面倒をみることや、庭にブルーベリーを植えること。生活のなかで、一人の人間が携えている「時間」を全て書き出してみたらどれほどの量になるか。多かれ少なかれ、アメーバのように過去や未来に手を伸ばしながら生きている。僕は少ない方だと思うけど、それでも奨学金の返済、冷蔵庫の牛乳の賞味期限、淹れたコーヒーが冷めるまでの時間、読みかけの本、描きかけの絵、財布にある現金の残り、前回帰ったのが二ヶ月前だから、次は来月くらいまでには実家に顔を見せに行きたいな、と思うこと、書きかけの文、返事を待たせているメール。数えればキリがない。いくつもの時間をまたにかけている。今が、未来にも過去にもある。あるいは過去から未来にまたがる、複数の自分がいる。そういうものにまみれつつも、一つのことをやっているときは、他のことは忘れながら生活している。自分がいま手をかけている時間、全てを書き出してみることはできるか。何人かでやってみたい。一人の時間を合計したら何千時間になるのか計算してみたい。

Posted by satoshimurakami