円盤に乗る派『仮想的な失調』/6月3日

円盤に乗る派の演劇作品を初めて拝見しました。

後半、幕の向こうに自動車が出現したときは笑ってしまいましたが、その後のドライブのシーンでゲストハウスのOWNERが突然「なんかへんだあ〜」というせりふを連発しながら両手を振り上げたあたりで、こちらまで「なにかがへんだ」という気持ちになり、心底こわくなってしまって鳥肌が立ちました。いま何か大変なことがほんとうにおこっているんじゃないかと、まわりをみまわしたりしてしまって、でも他に同じ反応をしている人はいなくて、どうやら自分は劇の一場面を見ているだけらしいということを思い出し、でもそれがわかったあともずっと胸がざわついていて、いったい何を見させられているのか、これはただのフィクションで、舞台上に役者と音楽と照明があるだけのはずなのに、それらと自分とのあいだでなにか得体のしれないプロセスが発動して、一瞬何がなんだかわからなくなり、あとになって、あー、演劇の力なのかもしれないなあと腑に落ちたのでした。これまでいくつか演劇を見てきて、役者が光を纏っているように見えたり、せりふが異常に耳に入ってきたりする神秘体験をすることはありましたが、あんなにこわくなったのは初めてでした。ぼくも作品をつくる人間なのですが、あのような魔術を扱える演劇というジャンル、羨ましいなあと思えました。
OWNERは両手を上げただけでなく、ドアを開けて外に出て「なんかへんだあ〜」といいながら地面をごろごろと転がっていましたが、ああ、すごい雨ってこういう感じだよねえとも。
観劇直後はなんというか、魂の抜けた肉体たちがへんてこな振り付けでスカを踊っている国に放り出されたような気持ちになり、これは咀嚼が必要だなと思ったのですが、あとからあとからじわじわと、例えばムサシ丸が話すときの不思議なイントネーション、語尾の「よお〜」の感じには、古典芸能に通じるものがあるなあとか、『船弁慶』のなかでは女性だからという理由で帰らせられる「静ちゃん」が、より人間以下の存在である犬として登場し、しかもそれが一番まともな話しかたをしているなんて皮肉が効いているなあとか、そういえば義経伝説に置き去りにされた犬の話もあったなとか、いろいろなことについて人と話したくなる作品でした。犬だからという理由で置き去りにされた静ちゃんを演じた畠山さんが、終盤平家の亡霊「ヒラオカくん」として9太郎に復讐するというところが、今回ベースになった古典と現代をつなげるパイプだったように思います。
僕も男なのですが、男性の肉体を持つことを選択した「記憶」はないけど、同性の先祖(劇中では「兄」でしたが)たちが行ってきた加害の歴史は背負っている(ワイツゼッカーの「罪はないが責任はある」という演説と通じるものがありますね)し、その被害を受けた亡霊の復讐を喰らうことはあるよなと。(亡霊は自分なのではないか、とも思いましたが)
終盤、静ちゃんだかヒラオカくんだかわからない存在が、亡霊に襲われてベッドに寝ている9太郎の傍で筋トレしながらプロテイン飲んだりソファをコロコロで掃除したりしているのも素晴らしかったです。
また9太郎もムサシ丸もロボットっぽいのですが、しかし断じてロボットではなく、なんだか肉体をもっていることの悲しみのようなものがイントネーションや振り付けから感じられて、劇の全体に、魂のない肉体が踊ってる雰囲気が通底しているようにも思えました。それは能を観たときに感じるものにも近いです。ムサシ丸がなとりさんだったときはロボットっぽいなど思ったんですが、劇が進むにつれて役者の橋本さんがどんどん役に入り込んでいったのか、ムサシ丸になってしばらくしたころには、もうただの肉塊が蓄音器みたいに話してるなと、役者ってすごいなあと思いました。とりとめのないことを長々書いてしまいました。とにかくほんとうに観れてよかったです。ありがとうございました。

Posted by satoshimurakami