6月10日2時18分の日記

・選択肢があることの不幸について
選択肢があるということが、かえって不幸を呼んでしまう例は身の回りにありふれているように思われるのだが、そのことを指摘する人がほとんどいない。選択肢というものはあるほどよいというのがほとんど社会通念みたいになってしまっているけど、しかし他人のことをうらやんだり妬んだり、自分を卑下したりする原因のほとんどは、選択肢があること、別の選択肢の可能性を考えてしまうことに起因するのでは

・自分が「良い」と思うことが、かならずしも人を気遣うことではないとき、どうすればいいのかわからない
金沢にて何人かで飲んでいて、後輩的立ち位置の子が終電を逃した。ぼくはその子のキャラクター的に、みんなから「終電逃しちゃったの!?どうすんの!タクシー?お金すこし出そうか!」みたいに過剰に気にされるのが嫌に感じるのではないかと思った。自分がその人だったら嫌だな、ではなく、「その人としての自分」は気にされたくない、と直観的に感じた。しかし当然ながら、みんなその子のことを心配した。大丈夫ですよ、とその子は言った。兄に迎えに来てもらいます、ということになり、店を出た。
そして店をでてからぼくは、少し迷ったけど、「終電を逃したことに関して、自分は全然悪いと思ってない」という意味のことをいった。あれは正しかったのか。たしかに権力勾配はあった。あまり褒められたせりふではないことはわかっている。わざわざ言わなくても、黙っていればよかった、黙っているのが無難だったかもしれない。でもたしかに、みんなから気にされるのは嫌だという直感があった

Posted by satoshimurakami