自分のためか、相手のためかは、行為によっては決まらない/7月3日

内田さんの友人Tさんが絵画教室を開業するということで、テナントの壁のペンキ塗りと床にクッションフロアを敷く施工の仕事を、アトリエメンバーの田原さんを入れた三人で引き受けた。
二日目の夜。全ての作業が終わり、掃除をしてゴミをまとめ、さっぱりと綺麗になった部屋をみんなでチェックして回っているさい、敷いたばかりのクッションフロアが壁との境界付近で一部欠けているのを発見した。壁と床の境界の隙間に分厚いクッションフロアを差し込むように貼るのは、すこし難しいのだ。傷としては数ミリ単位の小さなものだが、茶色いクッションフロアと壁とのあいだにできた影に浮かぶ白い切れ込みのようなそれは、目立った。
僕は床に道具を広げて座り込み、クッションフロアの余った切れ端を傷の形に合わせてハサミで切り、ボンドで貼って修復する作業を始めた。ちょうどそのタイミングで、工事の完了を確認するために施主であるTさんがやってきた。Tさんはまさにこれから自分の絵画教室の舞台となるテナントに、初めて対面するのである。その喜ばしい瞬間を、我々は完璧な施行で迎えたい。このちいさな傷がTさんの心にささくれを残すような事態は避けたい。
我々は暗黙のうちに団結した。内田さんは、このテナントに上がる階段の下でTさんにゴミの処理についての説明をし、時間を稼いだ。田原さんは部屋にゴミが落ちていないかを再三チェックしつつ、窓から下の様子をうかがって、「そろそろ上がってきそう」と僕に伝えた。僕はギリギリまで修復作業を行った。そして「終わりました」と僕が口にした瞬間、田原さんは僕のまわりに散らばっていた道具や材料を素早く回収し、床をまっさらな状態に戻した。それとほぼ同時にTさんがドアを開けて入ってきた。Tさんは大変感動して、頼んでよかったと言ってくれた。
そこで不思議なことに気がついた。我々は、Tさんが気持ちよく絵画教室を始められるようにという、ただその一心で傷を隠す作業を行なっていた。しかし仮にこれと同じことを時給で働いているだけのバイト先でやったとしたら、それは自分のミスを隠すための利己的な行為になっていただろう。同じことをやっても、その相手が友人であれば「気持ちよく自分の店を始めてもらいたいから」という、優しさに基づいた利他的な行為に変わる。同じ行為が対象によって反対の意味になるのだ。

自分のためか、相手のためかという境目は、あのときどこに浮かんでいたんだろう。はたから見れば、それがどちらのためだろうとやっていることは同じだし、なんなら相手にとっても(この場合はTさんにとっても)、その隠された傷を発見しない限りは利他だろうが利己だろうが見えている景色は変わらない。その境界線は我々のなかにあった。特に話し合ったわけではないけど、あのときの我々は「相手のため」という思いで間違いなく一致していた。

Posted by satoshimurakami