7月9日

加藤巧氏の展示を観にギャラリーαMに来たが、暑さのせいか、なんだが眠いし、気持ちも辛いし体もだるい。やはり夏は活動する季節ではない。昨日からのニュースも影響しているのか。身近なところから、遠くから、いろいろな情報、憶測、不安、記憶の直撃を受けすぎている。なんらかの精神疾患にかかりそう。なにか、笑い、が足りないのかもしれない…何も考えないで絵とか描いたほうがいい。このままではちょっと危ない。人と話をしよう。

<加藤巧・千葉真智子トークatギャラリーαM>

加藤氏「自分が発した動詞を自分で観察する。」
「チューブ絵の具ではなく、粉と卵で練った顔料をつかうことで、前提が遡られていく。例えばバーミリオンは重たい。観念的に「赤」とか言えなくなってしまう。赤を塗った過去の自分と、いまこのバーミリオンを置いている自分は、違う。」

「水彩でひゅひゅひゅと、紙にストロークする。モチーフを作る行為。それをみながら、顔料をおいていく。点描だったり線描だったり。自分が数秒で描いたものをあとで時間をかけて観察する。どこに絵の具がたまるかなど。そして、ストロークのときの手の動作の「感じ」も覚えているので、それも参考にする。しかし、顔料をおいているといろいろなことがカットインしてくる。この色は、モチーフのあの色とは少し違うけど、おいてみたらどうなるか、とか。なので、モチーフと、作品は、図は同じでも変わってくる」

考えたこと

・前提を遡っていくこと。最初にチューブ絵の具で描いたモチーフを、分解された絵画材料をつかってあとから追随する。そのときに”良い意味で”こぼれおちるもの)・例えば靴を買うときに、その場で100点の靴を探していたらいくら時間があっても足りない。気になる細かい点はあるが、とりあえずこれでいってみようという判断。いわば「判断の緩衝地帯」を作って、80点くらいを探す。さもなければ「選択の袋小路」に入ってしまう。とりあえず「この一足」に決めて、それを買って歩きはじめる。それで、あの靴の選択は妥当だったのか、ということをあとで吟味する。先程の自分の行為をあとから観察する。靴屋で履いた時の感じと、買ってから外で実際に履いているときの感じは、おなじ靴なんだけどどこかちがうような気がする。あのときの、歩く感じを体が覚えているので、比べることができる。そこを遊ぶ。これが加藤巧さんの態度。
そして「新しい靴をはいて歩いてみたら、店で選んでいたころの苦悩は吹っ飛び、ただ新しい靴をはいている気持ちの良さでいっぱいになる。それが高柳恵里さんの態度。いわく「解放」。

・いかに、自分だけの、自分に固有な「判断の尺度」がつくれるか。自分だけのルールに従い、自分だけの良し悪しを判断すること。土屋公雄が言った「村上、お前はスーパースターだ」を何度でも思い出す。こんなに元気の出るものはない。あの時の土屋さんの笑み、表情、声色、目つき、声から飛んできた波動を思い出せ。お前はスーパースターだ。土屋さんにとってはさして意味のない軽口の一つだったのかもしれない。しかしそれは問題ではない。

千葉氏「絵画にまとわりついてくる絵の見方みたいなものからどうしたら逃れられるか。絵画の平面性を考えて、図と地の関係とかレイヤー構造とか(これらは「観念的な赤」みたいなものを前提にしてる)。そこからどうやって逃れるかを考えた時、加藤さんの作品は気になる」

加藤氏「『動作』を組み合わせるときに、間にはいってくるのが『材料』。ミクストメディアとしての作品。それが平たいものなので絵画と呼ばれる」
「例えば地層に生き物が動いたあとが残っていて、それが化石と呼ばれ、人間以外の生き物が動いたあとを見ることで、時間を想像する」

加藤さんの作品の政治性とは?

「『毎日やること』『展覧会があってもなくても、日々のこととしてやること』それは態度表明。それを観察するときに、日々やって、いっこいっこ一緒のように見えるけど違うこと、それを大事にすること」

「モチーフを自分でつくること。自分の動作を自分で振り返ること。それで自分一人の責任をとりたい」

「自分で自立した状態でタブローを作り、鑑賞者が一対一でそれを見ること。」
「絵画技法の話。技法とは再現性であるが、それが正しすぎることがある。それが気になっている。正しすぎない技法を考える」

考えたこと
・モチーフを自分でつくること。自分の動作を自分で振り返ること。いわば「閉じること」。これは「芸術をやる者」の政治性である。そんな作品をみること、作者のルールや時間に触れること。それだけでなにか、魂が喜ぶ。最近暑さとニュースで非常に参っている自分には、「毎日やること」という言葉はそれだけで救いになる。それが芸術を見る側の政治性である。

Posted by satoshimurakami