1月17日

11時34分

「新宿三丁目東」信号機に書かれた地名は、地図上に示される情報としての地点と、現実の空間としての場所が交差する。

 

23時45分/服従について

ミルグラムの服従の心理という本を読み始めたのだけど、冒頭で、服従は日常にありふれているので研究の対象にはなりにくいかもしれないと前置きしたあとで、服従の本質は「自分の手で遂行した物事の責任が自分ではないものにあると思うこと」と書いてある。自分はやってくれと言われたからやっただけで、その責任は自分にはない、命令してきたものにあると、いわば楽なほうへ逃げる形だ。
「この責任は自分にはない」と思うことは心地がよい。幼いときに算数を習う。この計算さえ解いていれば、自分という存在を肯定してくれる人がいる。だから従っていればよい。とても気持ちがよいことだ。
算数ならなんの問題もないが、人に痛みを与えることを強いられたり、わかりやすく目に見える「痛み」がここになくても、どこかで誰かが痛みを被っているんじゃないかと疑える物事をやれと命令されたとき、はたして権威に反抗できるだろうか。服従は日常にありふれている。どこか遠い国で不等な賃金で働かされている子供の存在を感じながら、安い服を買ってしまうこと。これを買うのは自分の責任ではない。みんな買っているし、安く売っているのだから、悪いのは私ではなく、売っている側である、と思うこと。また、違和感を感じつつも、自分が務めている会社の命令に従うこともそうだろう。抗うのは難しい。服従に従わないことは、自分が関係を持っている権威との決別を意味する。服を買うとき、会社で仕事をしているとき、あらゆる場面で、反抗と服従が天秤にかけられ、ほとんどの場合僕たちは服従を選ぶ。反抗することは一人になることなので、仲間と別れることになるかもしれないし、その責任もすべて自分にのしかかる。であれば、多少良心を曲げても服従を選ぶというのは、関係性のなかで生きている以上は仕方のないことだ。
やっぱりランシエールが思い出される。服従とは不平等を受け入れることである。僕たちは、自分たちのことを、平等ではないと考えるほうが楽なのだ。責任を回避できるし、なにかあっても言い訳できる。自分の意志ではないと。

Posted by satoshimurakami