2013年7月18日23時53分

2013年7月18日23時53分

 

ガーデンの方のバイトはこちらのシフトを申告することができるから、まだマシなのだけど、清掃のバイトの方は、僕の体調、予定、精神状態、天候に関わらず、必ず平日の毎朝に行かなくてはいけない。このストレス、精神的負担は尋常じゃない。この社会を動かしている歯車。人間の為につくられたものなのに、人間の身体を無視して設計された大きなシステムに、体の一部を奪われてしまった感覚。

どこかの企業に就職したら、こんな感じの生活になってしまうんだろう。そんなのどうかしてる。なんでみんな平気なんだ。どうでもいい。真剣に議論するに値する事なんて、滅多にない。どうでもいいことばかり。それをみんなで必死に話し合っている。トイレ清掃の時間短縮とか、日々の売り上げ獲得についてとか、バケツの排水のし忘れは連帯責任だ!とかなんとかかんとか。ほんとどうかしている。

 

目は、澄んできている。感覚は鋭くなっていると思う。中途半端につくられたもの、ごまかしがあるものがわかるようになってきた気がする。このバイト生活は、それ以前のぼくの作家生活を相対化してくれている。いまのバイト生活のほうが、彼女との関係がよくなったり、「応援しているよ」と言ってくれる人が増えたような気がしないでもない。増えた、というかその声がよく聞こえるようになってきた。みんな、自分より弱い者が立ち上がるのを待っているのだ。みんな驚きたいのだ。特に、自分より弱い者が立ち上がる事に驚きたいのだ。この時期に、何者でもない僕の事を応援してくれる人達のことを、一生大切にしていきたいと思う。

 

僕は理想主義者なのかもしれない。建築は人が使うものをつくる仕事だ。そこに自分の思想をのせて何かを表現しようとする人達。自分の傲慢を他人におしつける建築家たちと、それをもてはやしてスターに祭り上げる建築界の雰囲気が許せなかった。そこに入っていく事ができなかった。

現代美術家として活動してみて、ただ生きることを繰り返す日々から逃れるためにやりはじめたのに、それがまたするにルーティンワークになっていくことに気がついた。自分をコンテンツ化する作業。生産と消費の追いかけっこをする覚悟が足りなくて、自分の制作へのモチベーション維持に危機感を覚えた。自分で自分の作品を濁しているような感じがあった。作品の中に詰め込む「覚悟」が薄くなっていった。自分をおいつめるために、バイト生活をしてみようと思った。社会にまみれてみなければと思い、バイト生活を始めた。展示をいくつか断った。コンペや助成金などに応募するのをやめた。共同アトリエを出た。

ブコウスキーの詩にこんな感じの言葉があった

「俺は生きているけど働いていない

彼は働いているけど生きていない」

「働いているけど生きていない」という感覚。いまは、日々内圧が高まっているのを感じている。表現への欲求とか、有名になりたい気持ちとか、僕のことを笑っている、あきれてみている人達を見返してやりたいという欲求。

お金を稼がないと生きていけないということは知っていた。噂では聞いていた。

「目」は澄んでいった。何がヤバくて、何がヤバくないかを見極める目を磨く努力を怠ってはいけない。

 

最近読んだ本

遠藤周作「沈黙」「深い河」

ジャックケルアック「路上」

ジョンクラカワー「荒野へ」「空へ」

チャールズブコウスキー「ポストオフィス」「酔いどれ紀行」「尾が北向けば」「モノマネ鳥よ、俺の幸運を願え」

Posted by satoshimurakami