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今まで大体15社くらいの新聞社からの取材をうけたけれど、僕は言う内容はほとんど変えていないのに書かれる記事の内容が微妙に違っている。新聞の記者って、取材した内容を速攻で記事にしないといけないから、それぞれの記者は「記事にする方法論」みたいな装置が頭の中にあって、取材したことをどんどんそれにかけて記事にしていくんだろうな。その装置が人によって違うんだろう。記事を本人に確認してから載せる、ということはしない。そんな暇はないんだろうな。新聞は毎日新しいものが発行されて、ニュースはどんどん更新されていく。記事の厳密な正確さとかを求めるよりもとにかく素早く紙面にしていく。ってのが新聞の役割なんだろうな。そして読む人も、例えば小説を読むように記事を読み込むということはあまりしない。そういえば新聞を「みる」とはいうけど「読む」とはあまり言わないな。そうやって書かれた微妙に違う内容の記事を見るのは面白い。

 

ハイロウズでマーシーが「誰かが予言してるほど良くも悪くもないのだ」って歌ってる。地球上の全員が完全に狂っている、思考回路がストンと落ちてしまっている可能性をいつも考えないといけない。

秋田県能代市の、とある家のベランダに洗濯物が干してある。たしか東京都杉並区の家のベランダにも洗濯物が干してあった。岩手県大船渡市の仮設住宅の窓にも洗濯物が干してあった。どこにいってもある。ほんとどこにでもあるから笑っちゃう。どこの家にも洗濯物は干してあるし、どこの家でも換気のためにあけた窓でカーテンが揺れてる。どんな山奥の家でも海沿いの家でも何十坪もある大きな家もワンルームの小さなアパートもおなじ。ぜーんぶ同じ。「生活」ってのは全てのものごとの下にまわりこむ。どこのお墓にも花は生けてあるし、草刈りをやってるし、飲み物を自動販売機で買う。どの街にも犬の散歩してる人はいるし、街角では挨拶が交わされている。そしてどこの道端にもクローバーやら黄色と白の小さな花やらが咲いていて、アリは行列をつくっている。このへんのアリはやたらデカイけど。洗濯するといえば洗濯機だし、移動といえば車、都会では電車とかバスとか。そんな土台の上で、みんな一生懸命仕事をしたり、一生懸命仕事をしなかったりしている。好きなことで忙しい人もいれば、そういう人に乗っかるのが好きな人もいる。特に好きじゃないことで忙しい人もいるだろう。実家のガソリンスタンドを継いで一生を終える覚悟を決めた人もいる。路上では雑草が勢力争いをしている。背の高いやつとか葉の大きなやつとか、それぞれ生き残るためにいろいろな戦略をとっている。眺めていたら風が吹いた。そのとき全ての草が、全体として揺れた。突然原っぱとしての、雑草としての「全体」があらわれた。いろんな形の葉をもった雑草が、同じように風に揺れているのを見て思った。俺は希望がつくりたいんだ。そういうことはいままで考えた事がなかった。でも「希望がつくりたい。そこまでは言える」と思った。世の中を明るくとか、希望とか夢とかそういう言葉はあんまり好きじゃない。友川カズキだって言ってる「言葉に意味はなくひとつの輪郭にすぎない。絆っていう字書かないと、そういう絆っていう感覚持てないの?」って。世のため人のためとかではなく、自分に向けて希望がつくりたい。そこまでは言っても大丈夫だ。たぶん。そしてそうやって歩いてると、考えたことがどんどん後ろに流れていく。一瞬一瞬がどんどん過ぎていく。前向きにならざるを得ない。音楽を聴きながら歩いていると、前向きにならざるを得ない。

 

今日は能代市を出て森岳温泉郷というところに行った。18キロくらい。能代市でもたくさんの人と出会った。ここもまた来たいな。平山さんの同級生の紹介で、森岳温泉の「ゆうぱる」っていう浴場の敷地に寝かせてもらえることになった。夕方に着いて温泉にいれてもらえた。とってもいい感じのお店。ここの温泉はすっごく透明でしょっぱい。この森岳温泉郷も、けっこうさびれてしまってる。かつて10軒以上あった旅館も今は2軒しかないらしい。ストリップ劇場もあったという。大きなホテルがつぶれてそのままになってる。旅館の跡地は老人ホームになってる。大湯温泉でも同じ事が起きてた。大湯温泉なんか、主要産業は老人ホームって言ってる人もいた。わかりやすいなあ。

「交通手段が発達すると、昔のようにどこかに寄って行こうという客がいなくなった」

って話を聞いた。そう目的地までいっぺんに行こうという意識になっちゃうんだ。目的地とか目的とか、つまんない言葉。

 

今夜はゆうぱるのオーナーの気遣いで、大広間みたいなところに寝かせてもらえることになった。ありがたい。

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Posted by satoshimurakami