被災者とは誰で、被災者ではない人とは誰なのか。よくわからないし決められない。被災者ではないが、被災者ではないともいえない。そのくらいの曖昧な自我で生きていると思う。僕の他にもそういう人はいると思う。でも行政はその区分を考えなければまわらない。

 

2019.04.29

・同じく3月に創元社より刊行される「あの日からの或る日の絵とことば 3.11と子どもの本の作家たち」という本に参加しています。編集者の筒井大介さんにお声がけいただき、すごいメンバーのなかに混ぜてもらいました….。荒井良二さんの装画が最高です!特に裏が好きです。

現代ビジネスに記事を書きました

・アーツカウンシル東京が行なっているプロジェクトART SUPPORT TOHOKU-TOKYOのなかで、仙台の荒浜地区を訪ねて、その津波で流されたこの町の2018年6月20日時点の様子をドローイングにしました。セルフビルドの漁師小屋やスケーターパークが野原のなかに点在していて、松林が作られようとしていたり、誰かがたてた鳥居があったり、でも行政による復興計画があったりそれが進んでいなかったり、時間のポケットみたいな場所でした。PDFで全文読めます。

murmur magazine for men 4号にコラムを書きました。

・3月に福音館書店から単行本「家をせおって歩く かんぜん版」が出ます。それにあたって「本を一緒につくっている人たちに会いにいく」という連載をやっています。

3331アートフェアに出品します。金沢21世紀美術館の黒澤浩美さんが嬉しい推薦コメントを書いてくれました。僕は昨年京都のARTISTS’ FAIR KYOTOというアートフェアに出させてもらったんですがいつものドローイングなどをだしたら一点も売れなかったのが残念でしたので、今回は「アートフェア」という場と僕の活動の接点を考えて制作した「住所に生えている木」(仮)という新作を出品してみます。

I will participate the exhibition"3331 ART FAIR". Hiromi Kurosawa(Chief curator of 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa) recommended me for this art fair. And she wrote a great recommendation comment. I’ve thought about the point of contact between “art fair" and my project, and then I have made a new work “A tree grew in address".

自分の友人が言っているところを想像して一番きついのは「Tポイントカードお持ちですか?」だ。

友人のそういう場面をみたくない。モザとかが一番見たくない・・。

組織的隠蔽がなかったという報告を正当化する話、ギャグかと思ったけどマジメにそういう話をしている。まず隠蔽という言葉の定義をして、隠蔽には当たらないという論法。定義なんて誰も聞いてないし本来どうでもいいのだけどマジメにそんな話をしている。言葉も不正使用しているというか。人は中身のやりとりをするために言葉という入れ物を使っているに過ぎないことを、忘れたフリをしているというか。メタ言葉のようなものまで作らないといけないのか。そのうち2+2=5とも言えるわけです。とか言いそうでこわいけどこれは何か作品のアイデアにもなるかもしれない。

調布市のゴミ袋には、日本語中国語英語韓国語に加えて、ポルトガル語。

三鷹市のゴミ袋には、日本語中国語英語韓国語に加えて、タガログ語が併記されている。

現代ビジネスの少し前の記事で、福島から東京に母子で避難したお母さんが自殺してしまったという青木美希さんの記事を読み、復興庁は「避難者」の定義をしていないと書いてあってびっくりした。復興庁が各都道府県から避難者の数を聞いてその数を毎月ウェブで公開しているのだけど、参議院の議事録で吉田忠智さんという議員が首相に対して「復興庁が二〇一四年八月二十九日に公表した「全国の避難者等の数」には、「埼玉県については、今月から公的主体が提供している住宅に避難されている避難者以外も調査対象としたため、人数が大幅に増加しています。」との「なお書き」が付記されている。これは埼玉県においてのみ、避難者の定義が他の都道府県と相違していたという意味か?という質問をしていて、最近の統計の適当さはやっぱり以前からあったのかと思ったりしたのだけど、ルポを書いたり、避難者を救済するために動いている人たちのことを知ると、しかし自分はこんなことしてる場合なのか?自分は自分が面白い人になりたいだけなんじゃないか?

COCKROACHを久々に聞いて、高校生のころ、この歌を通していろいろな話をしたような気がしていたけど、コックローチなんて聞いてたのは僕だけだった。でも、たしかに濃密なコミュニケーションをしたような感じが記憶として残っている。音楽を通して、彼らとたくさんのことを話した、というか彼らを通して自分と話をしていたんだと思う。話し相手だったというか。自分の死後のことを歌うとは、なんてことを考えるんだとか、「純真の目」とか「孤独に輝く石」とか「食人欲求者の謝肉祭」とか、こんなことを言ってくれる人は彼らしかいなかった。ほんとうに不思議だ。ぼくは彼らと会ったこともなければ、ライブに行ったこともない。でも本当に彼らと話をたくさんしたような記憶として残っている。

日韓関係がうまくいってないという幻想を生きている人たちに対して、どう切り出せば波風を立てずにこちらの話をするかというところはほとんど永遠のテーマみたいに考えていかないといけないと思うのだけど、ビデオニュースで吉澤文寿さんの話を聞いて考えたのは「僕は韓国との関係うまくいってますよ」こう言えばいいんだ。最初の切り出し方としては。「だから僕と韓国の関係に水をさすようなことをいう政治家たちは、日本人でも韓国人でも、嫌だなと思います。」。じっさい観光客も文化交流もめっちゃあるわけで、なんか政府同士が上の方で勝手にやりあっているというのは事実だ。

僕はテニスや卓球などラケットを使うスポーツが好きだけど、インパクトや丸ノコなどの道具を使うことも好きだ。両者は似ている。どちらも、道具を介してすこしからだが延長する感じがする。僕の清掃員のプロジェクトも、移住を生活するプロジェクトも、これまでにやってきたほとんどのプロジェクトも同じだ。体の動きを「道具」を介して世界にすこしおしひろげる感じだ。

何を作っているのか。一体何を作っているのか。一瞬だけ使われるものを、作っていると言えるのか。あれを続けるのはきつい。ものづくり、とかではない。あの時間は一体・・

やはりバイトはきつい。時間を無駄にしているような気がする。とりあえず体を動かして死ぬのを待っているような気がする。しかしこの場所で30年以上も同じメンバーで、同じような仕事をやりつづけている人たちがいる。最中はただ面倒だけど労働の最中でない時にこの現場のことを考えると不思議と感動する。本当にすごい。

ここのところ、テレビ中継されるサッカーの試合で両サイドのゴールのそばの芝生の上に置かれて、テレビで見ると立ち上がってみえる絨毯ような広告をつくるバイトをやっているのだけど、毎日同じの会社の広告ばっかりつくっていて、これがサッカーの試合のさなかでテレビにうつると広告になるのにここで見るぶんには全然広告にならないどころか、毎日同じ生命保険会社の広告ばっかり作らされて、この会社の保険には絶対に入らんと思ってさえいる。広告には広告である時間とそうでない時間がある。広告はいつ広告なのかを考えるといいかもしれない。広告物という物体が、全く広告になっていない時間帯がある。広告が広告になる条件とは。お金を出して楽しませてもらっているという背景が透けて見えないと、広告は広告にならないのか?

「なおみちゃんのお姉さん、…..だっけ?」というふうに、社長が突然話し出すのを受けて、他の人が「…..ですよ」と受けていて、誰か知り合いの姉妹の話をしているのだろうなと思って聞いていたら、プロテニス選手の大阪なおみさんの話題だった。こうやってテレビでしか見たことをない人を、知り合いの親戚か近所の人のように突然話し始めるのをよく聞くのだけどそのたびにとても驚いてしまう。テレビを全然みないからなのか、違和感さえある。この感覚はわからない。

ハンストは本当にすごい。パフォーマンスだ。誰かを阻むとかするわけではなく、ただ自分が食べない、ということが、強いメッセージになる。

SPAの「ヤレる女子大生ランキング」なる記事が女性軽視だという署名活動があって、そんなに騒ぐことかというか、くだらないなと思って賛同できずにいて、それを人と話すうちに、署名には賛同できないが「ヤレる」という言葉遣いは違和感があるというか、女性をモノとして見る空気があるのは問題だろうと思っていたのだけど、昨日のデイキャッチで宮台真司がこのことについてツイッターのフェミニストの人の発言を援用しながらわかりやすく解説していて、「SPAの記事には基本的には問題はない、これを問題にするならヤリチン大学ランキングとか、ナンパされたくない学校ランキングとか、寝たい男ランキングとか、出世する大学ランキングとか、東大合格者ランキングとかカテゴリーでランク付けしている全てのランキングを問題にするべきで、そんな息苦しい社会あってたまるか」というものだった。さらに「ヤリマンは悪い」もっというと「ヤリマンは侮辱だ」というのがさもみんなの共通前提であるかのように話す署名を集めている側こそが、フェミニズムの歴史からいくと女性差別であると。「ただスパの記事には別の問題があって、それはヤリマンを尊敬する感じに書かれていないことだ。女性をモノ化することを助長する感じに書かれているのは問題であると。でもヤリマンであることは問題ではない。」議論がふたつに分けられた。この話題は色々な人と話してみたい。

白田一馬さんが生きていることが確認されたという話を阿部君から聞いて、昨日hpgrpギャラリーに白田さんの個展のオープニングを見に行った。3年ぶり?に展示をしたらしいが、前回吉原で見た時以上に呪縛から解き放たれていて、生涯ベスト級に最高だった。ストリートと絵画が同時に迫ってくる。バスキアよりも切実なバスキア感がある。絵の他に、ギャラリーの中央にモニターやパソコンが積まれていて、白田さんがベトナムとか中国とかの建設中の超高層ビルのてっぺんまで登って撮影した自撮り映像が流れているのだけどそれがすごすぎて笑うしかなかった。あんな映像は見たことない。。そしてその映像がその展示空間にあることに全く違和感がない。あの映像と絵は完璧にリンクしているのを感じる。それが不思議だ・・。hpgrpの坂井君も言ってたけど、彼の絵には事件性があるというか、なんというか事故現場っぽい。事件現場というか、事故現場というか、そういう場所で撮影された現場写真のようで、その事件現場の絵と、文字通り事件現場(彼はビルに登る過程でいろんな国でなんども捕まって留置所にも入れられている。その話も最高だった)だった超高層ビル自撮り映像が同じ空間にあるのは違和感がないはずだ。白田さんが別れ際にハグしてくれたのも嬉しかった。

左足の大腿筋を痛めてしまって身動きが取れなくなったり、左肩がすこし違和感があるなと思って医者に行ったら軽い四十肩になっているという診断を受けたり、風邪を引いてその咳が10日間以上続いてしまったりしていた年末年始を乗り越えた。あと去年10月に久々に歯医者に行ったら虫歯が三つ見つかったりもした。2ヶ月半かけて全て治療した。体調の記録として。

こまばアゴラ劇場で「これは演劇ではない」というフェスティバルをやっていてそのなかの新聞家の「遺影」という作品を見てきた。新聞家は「塒出」以来2回目。役者二人が椅子に座ってそれぞれ一回ずつ、すこし長い文章を話す(彼の作品は役者が「文章を話している」という感じがする)だけのストイックなものだったのだけど、役者の二人の話し方に不思議な緩急があったり語と語のあいだがあいたりしていて(話をしようとしているのではなく、文章を話そうとしている)、その余白の感じから荒川修作のICCのインタビューを思い出した。二人の役者があの感じで「あー、、」と、次の語を探すようなフィラーが入ると、もう荒川さんの話し方になる。

http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/arakawa

荒川さんに限らずインタビューに答えてる人の挙動と、今回の遺影の二人の役者の振る舞いには共通点がある気がする。インタビューに答える人は、自分が発話したものが文字起こしされて文章になってしまうということを考えながら話したりするので、話しながら言葉を選んだりする時に生まれる一瞬の合間とかが、普通にその人が友人と話したりするときとは違う「その人の見え方」をつくる。その点今回の役者二人は、覚えた文章をたどたどしく(なにか演出家からの指示があるのか?)再生していたことが、言葉を選ぶ仕草に似た時間をつくっているというか、インタビューに答える人とは逆のことをやっているのに、似た仕草として現れているというか、それが面白かった。

その構造と、二人の台本を覚えている「プロンプター」が変装して客席にいたことによって、役者二人はそのプロンプターを探すような目の動きをしていたわけだけど、人を探すっていう、演技でもなんでもないごく自然な仕草を舞台上の人がしていて、二人の役者は舞台上にいるのにある種客側にもまわってしまっている構造が似ている。今回の上演でプロンプターとしての人を発見できたのは村社君にとって大きな収穫だったんじゃないか。

あと日常生活のなかで、誰もが持っているであろう「テッパン」の話を人にするときのことも考えた。以前誰かに話した同じ話を、別の人に話す時に人は言葉を話す主体というよりは、言葉によって動かされる客体側にまわる。

塒出のときもそうだけど、新聞家の作品からは台本のテキストを役者に読んでもらっているのに、テキストと役者を引き剥がそうとする力を感じる。

すごいものを見てしまった。駐輪場の監視のおじちゃんが駐輪場内でジョギングしていた。

aokidのクリスマスパーティーのダンスバトルに出た時に、「ナイスアイデア!」というコメントをもらった。彼はそれを自然に言っていたけど、僕としては新鮮だった。「体の動かし方」がアイデアであるという、言われてみれば当たり前の発見をした。そしてすぐにその言葉がでてくるところに、彼のキャリアを感じた。

家族旅行でグアムに行ってきたのだけど、グアムの市街地の海沿いは、ほとんどホテルによって占拠されていてホテルの中とかを通らないとビーチに行けないようになっていた。何か間違っている。

恋人岬はその名前と、恋愛成就の願い事をする観光地になっているという事実に反して、ダークツーリズムの場所だった。

アーティストのaokid主催のクリスマスパーティーでダンボールなどを手早く縫えたりなどする道具を作って空間を立ち上げたり何かを色々縫い付けて商品を作って売ったりしようと思っています。台湾でのワークショップを踏まえて考えているアイデアです。よろしくおねがいします。@The CAVE(関内)18:30~

 

SNSが人に与えた影響として文体の変更(特に主語の置き方)があると思うのだけど、それを考える時に思い出すのは昔mixiで高校の先輩が毎日長文の日記をアップしていて、それは独白のようなものだったり日々の自分や周りの人間の振る舞いへの言及だったりして、読み物としてとても面白くて僕はよく読んでいたし「この人はすごい人だな」と思って尊敬していたんだけど、コメントなどは一切ついていなかった。なぜコメントがつかないのか、これが人気の投稿にならないのかよくわからなかった。それはmixiには適していない文体だったからだと思う。僕の日記をそのままfacebookに転載しても、読まれるものにならないだろう。それと同じように。僕は多分今やってみても、フェイスブックやツイッターやインスタグラムへの投稿のさい、文体をどうしていいのか困るだろうと思う。今ではそこからさらにfacebookやツイッターやインスタグラムへの投稿に慣れた上で、そこに「ブログを更新しました」というリンクを貼ってブログに飛ぶようになってきている。そういう人たちの一部が書く文章には味わい深いものがある。

Today, I was able to concentrate on my work for the first time in 3 weeks. I had wrote text of 3000 words for a media. But it is not only for it, also for practice for my own novel. Until now I wrote text that the subject word is “I” as my diary, but I recently wanna try to write a text without using “I” as the subject word of text itself. I think the subject word should be things like ghosts unless the sentences are made by some independent text like a exchange of letters between some people. I think it is better way more than just a diary in order to express my experience and the story that I heard from people I met in my “Living Migration” project. By the way I chose the Piers Cafe opposite the station as my work office and had stayed over 5 hours with only 1 small cup of coffee and 1 cinnamon toast. I might have been the longest stay person in the cafe today. But any waiter seemed not to care about me.