敷地/宮城県登米市津山町柳津
 床下
小豆島→今井町の出張を終えて石巻にもどる。ながいこと家を置かせてもらっていたsomacoハウスの庭を出発して、登米市の柳津に向かう。北に23キロくらい。2週間ぶりに家を背負って歩いた。石巻を離れていた2週間のあいだに、だいぶ涼しくなったと思う。歩きやすい。

北上川を左手に見ながら歩く。歩道がない道があるのが腹立たしいけど、とても綺麗な景色。

登米市に入った頃、おじちゃんが道端で車をとめて、どこから来たんだと僕に話しかけてきた。もうやりはじめて二年目なので、答えにくいです。北に向かっています。と答えた。そしたら、おじさんは不審者を見るような顔つきに変わった。そうですか。がんばってください、と言って去っていった。
そのすぐあとに、今度は道端でおばさんが話しかけてきた。あなたのことをラジオで聞いたことがある。会えて嬉しい、と言った。

そこにパトカーが通りかかって、警官がおばさんに対してこう言った

大丈夫ですよ。大丈夫ですよ。芸術家の方ですよね。

僕は去年この町を通ったときに、職質を受けたのを思い出した。そしてその警官は、去年職質をしてきた警官と同じ人だったと思う。

僕は「大丈夫ですよ」の意味が最初わからなかったけど、おばさんが警官に対して「大丈夫って。。ラジオで聞いたんですよ〜」と言ったのを見て理解した。
5時過ぎには柳津に到着。家の置き場所は、去年もお世話になった柳津にある一軒家 のガレージを借りた。家のメンバーが去年よりも一人増えて賑やかになってた。
ガレージの二階に部屋があって、そこに寝かせてもらった。母屋からは離れているので、宴会の会場としてたまに使うらしい。トイレがついてる。自分の家で寝てないので間取りは描けない。

1600年前の交差点に残っている250年前の建物を見学して、400年前から街並みが変わっていない今井町に帰ってきた。歴史の動脈にいる。いまという時代と、未来への予感のようなものを感じる。奈良に住むってことは、この未来への予感のようなものと一緒に住むということかなと思った。
その交差点(藤原京の横大路と下ツ道の交差点)はかつて幅が30メートル以上はあったらしい。東にずっとまっすぐいくと伊勢に着く。江戸時代には札の辻と呼ばれ、旅人が絶えない交差点だった。現代では住宅地になっていて、車幅は3メートル程度で、車は一方通行。でもけっこう通行量が多い。いまでも多いのが笑える。

そして1975年に発行された「思想の科学」が、60年代のことを論じているのを読んでいる。今井町のNPOの人が思想の科学研究会のメンバーだったらしく、何冊か貸してくれた。

[高度成長は、人から尊厳をうばった。熟練がなんの役にも立たなくされた時代のことである。手に職をつけて働いていた人たちが、工場で単純な作業をひたすら繰り返す仕事をさせられる。自動車工場では、なんのために働いているかといえば、ただコンベアの動きに遅れないためにだけ、そしてコンベアが時間がきて止まる瞬間のためにだけ、必死に手足を動かしている。自分が働く姿を、妻や子供に見せたくないと誰もが思っている。]というようなことを、鎌田慧さんが書いている。

昨日は1400年前に建てられた世界最古の木造建築もみた。柱が太すぎるように感じた。この無骨さが1400年を生き延びた理由だと思った。放射能は1万年を生きる。樹齢1万年の木で築1万年の家を建てて、賞味期限が1万年の食べ物を食べないといけない。

石巻に家を置いたまま、制作のリサーチのために移動している。一昨日までは小豆島にいた。今は奈良県橿原市の今井町にいる。今井町は16世紀の町並みがそのままタイムカプセルみたいに残っている町。道路の幅が狭く、車ではすれ違えない。車に優しくない町で、そこが良い。橿原市はかつての藤原京のまち。歴史の動脈が流れている。小豆島ではせわしなく行動していたけど、ここではぐだぐだとしている。天井の模様が気になる。

今日は夕方に起きて出かけてみた。頭が重い。滞在している所が町家で、他の家が隣接しているのと、道路が狭くてあちこちで地元の人たちが立ち話してるので、でかけるのに気合がいる。町家で暮らすってのはこういうことなのか。僕はよそ者なのに手ぶらで歩いている上に路地が狭いので、人とすれ違うのに意識的になる。

川の方にいくと水場があって、水遊びしてる家族がいる。もっと歩いて大和八木駅のほうにいくと、イタリア料理屋さんとかスーパーとかチェーン店の居酒屋とかがあって、ひとがたくさん歩いている。今井町の街並みとは全然違う。ひととすれ違っても意識的にならない。

今井では一人で家のなかにいても町を感じる。小豆島ではどこにいても島を感じた。ここも島のような場所。川の中洲みたいな感じ。

   
 土地
 
床下
 

間取り
敷地は石巻市にあるsomacoハウスと呼ばれてるシェアハウスの庭。去年も来た。ここは活動的な若い人たち(特に震災後に東北に関わ始めた人たち)が集まってくる家。慣れてくると居心地が良い。

寝心地は良いけど、蚊がちょっと多い。蚊の対策にキンチョーの「1日1プッシュ!蚊がいなくなるスプレー」を使っていて、スプレーした直後は蚊が次々に落ちてくる。地面で弱々しい羽音を鳴らして、やがて動かなくなる。でも家の中の空気の流れが良いせいか、30分くらいで効果がなくなるので、結果的に一晩で数回プッシュすることになるのだけど、これが体にとても悪そう。新しい方法を考えたほうが良いかもしれない。

トイレやお風呂はsomacoハウスの中のものを借りた。洗濯機も。
   
   
石巻の市街地では、7月31日〜8月1日まで「川開き祭」というお祭りが開かれた。これもあって、いまsomacoハウスで泊まりこんでる人が多いらしい。僕が確認できただけで5人は居た。
  

  
31日、震災で亡くなった人の供養行事が川の前で行われていて、ちょうどその祭壇の真上に満月(ブルームーンというらしい)が浮かんでいた。僕もお焼香をあげさせてもらった。
   
   
1日にはsomacoハウスの人たちがやってる焼き鳥屋さんを手伝った。 たしか去年山形の遊佐のおまつりでも焼き鳥を手伝った気がする。

  
 

   
土地
 
床下

  
間取り

敷地は東松島市の矢本駅近くにある一軒家の軒下。

松島から東松島に向けて歩いているときに、ラジオの中継車と鉢合わせて数分間喋った。そのときに「東松島市で土地を貸してくれる人がいたら助かります」ということを言った。そのあとすぐに、路上で車に乗ったおばちゃんから

「いまラジオ聞いてたよ!私これから東松島に帰るから、うちの敷地使っていいよ!」

と言われた。中継車と別れて1分もしないうちにおばちゃんが現れたので笑ってしまった。そういう経緯で、そのおばちゃんの家の軒下に居を構えている。

ラジオには他にも「うちの庭使っていいですよ」という電話がかかってきたらしい。またラジオで僕は

「車が通り過ぎざまに、2回連続でクラクションを鳴らしてくることがあるけど、あれは応援するという意味なんでしょうか」

というようなことを話したせいか、その後2回連続でクラクションを鳴らされることがものすごく増えた。みんなラジオ聞いてるんだな。
そのラジオのフェイスブックに僕のことが書かれていたので、それに対するコメントを見てたら、

「車からしたら邪魔なので、正直迷惑です。」

みたいな感想があった。そちらがそう言うなら、僕からしたら車の方が邪魔で危なくて迷惑。僕に対して「迷惑だからやめろ」と言うんじゃなくて、車道しかない道に対して文句をつけるべき。
東松島市は去年も来た。ここから海までは4キロ以上あると思うけど、2011年の津波はここまで到達している。

僕の家の周辺には、良い感じの酒屋や、一軒家をあとから店舗に改装してオープンしたような中華料理屋があって、コンビニがあまりない。町の酒屋で発泡酒を買うのは、気分が良い。土地の生活空間に参加できたような気がして嬉しい。
  
敷地は、おばちゃんの嬉しいはからいで屋根があるところを貸してくれた。おばちゃんがとてもさばさばとしていて過ごしやすい。さらに家の中までコンセントを伸ばして、扇風機や懐中電灯も貸してくれた。史上最高に快適な環境。

家と倉庫のあいだにある狭い軒下空間で、草などが生えていないのでほんのりと土の匂いがする。この匂いは嫌いじゃない。
トイレや洗面台、デスクスペースなどはすべて徒歩10分のところにあるイオンタウンの中を使った。店舗は大体夜10時まで。公衆トイレはもう少し遅くまでやってるみたい。

ちなみに夜になると、イオンタウン上空が妖しく赤く光るので、遠くから見てもその位置がわかる。
歯を磨くためだけにイオンまで行くと、歯を磨くことの意味を考え直したりしてしまう。寝室から歯を磨く洗面台まで徒歩10分の距離があるという環境は面白い。
お風呂場は徒歩15分くらいのところにある健康増進センター「ゆぷと」。天然温泉がある。ただ800円かかるし、デスクスペースになりそうな休憩場所もない。
  
松島で紛失した靴下と、破けたズボンを新しく買うためにヨークベニマルに行った。
   
   
7月30日の夕方、海の方まで歩いてみた。すでに波は引いて、がれきなどはもう落ちてないけど、それでも地面からは多すぎるくらいの情報が伝わってくる。雑草が一面に生えている。あるラインを踏み越えたあたりで、突然重力が強くなった感覚がした。地面が近くに感じる。雑草は地面に這いつくばってて、空にいるカラスやトンビがとても羨ましく感じた。

空にはほとんど満月に近いものが浮かんでいて、地上の状態とは無関係にものすごく綺麗だった。そのうち重力の問題もやらなくちゃいけない。

   土地
 床下
 
間取り
敷地は宮城県宮城郡松島町にある一軒家の駐車場。ここも味噌醤油屋さんを紹介してくれた人が紹介してくれた。
床下は一部砂利だけど寝るのには全然気にならない。

トイレは道路を挟んで海側の公園にある。この道路が問題。
松島は観光地なので、平日でもけっこう多くの人で賑わっている。いまは時期的にも夏休みで家族連れが多い。

この町は、国道45号線によって「松島湾側」と「お店が並ぶ通り側」が分断されている。松島湾は素晴らしい眺めだし、店舗が並ぶ通りも良い雰囲気なんだけど、この国道45号線の車の通りがかなり激しくて、大型トラックとかダンプカーとかもばんばん通るので、穏やかではない。渡るのが面倒な気持ちになる。この道路さえなければ、公衆トイレもすぐ近くにあるし、海も近くにあって気持ちが良い間取りだったと思う。
お風呂場は歩いて20分くらいのところにある「天然温泉芭蕉の湯 いやしの館」。10時から20時までやっていて、大人500円。
トイレからほど近いところに藤棚らしきものが建てられていたので、物干し竿として使ったが、干して数時間後に取りに行ったら、靴下が二足無くなっていた。ゴミだと思われたらしい。靴下を買わなくてはいけない。
また、観光案内所が休憩所を兼ねていて空調が効いているし椅子が並んでいるのでデスクスペースとして使った。ただし机はない。ので自分の足を机にした。

   
土地
  床下
 
間取り
敷地は宮城県塩釜市にある創業170年の味噌・醤油醸造店の駐車場の片隅。人づてに紹介してもらった。

床下がアスファルトで、夜になっても熱を持っているのですこし寝苦しい暑さ。

トイレや洗面所は近くに公衆トイレもコンビニもあるので困らない。

お風呂場は太田家のお風呂を借りた。
駅の裏にイオンモールがあって、そこにあるサイゼリヤがデスクスペースに使える。

この駐車場は、夏休みの小学生のラジオ体操の会場になっていて、朝6時半には外からラジオ体操の音楽が聞こえてきた。

塩竈市の塩竈というのは藻塩をつくる釜のことで、近くには御釜神社という神社もある。

塩竈神社はたいへんに素晴らしい神社。建立年が不明らしい。何度でも行きたい。
  

太田屋さんの仙台みそジェラート

 
2万年前の旧石器時代のキャンプ跡を含む湿地帯の地層を、発掘した状態のまま公開している。

  
地下5メートルで2万年前の地層になる。

  
たき火の跡。2万年前のある日の夜に、旧石器人達がここに座って火を囲んでいた。

落ちている炭の量などから、数人が一晩程度のキャンプをしていたことがわかる。またここでうさぎくらいの小動物の解体をやった痕跡や、急ごしらえの石器を作っていた跡や、その石器を作る過程で落ちた石のかけらが落ちている分布などから、火の煙を避けて円形に座っている様子なども推測されていた。
  

  
   

仙台駅から西にまっすぐ行くと広瀬川にぶつかる。その対岸に川内追廻(おいまわし)地区と呼ばれるところがある。住宅が数軒建っているだけであとは草原と化している。異様な雰囲気。かつて空襲から逃れた人達のための仮設住宅街が建てられ、たくさんの人が住んでたらしい。その後住民側と市が立ち退きを巡ってずっともめていた。いまでは立ち退きが完了してるという記事をネットで見つけたけど、なぜか家が数軒残っている。
   
  

追廻地区側から広瀬川の対岸を見ると仙台中心部の建物群がこれでもかという感じで建ってる。こちら側には草原が広がっている。

 
土地

 
 
床下
  
間取り

マンションの一階にある庭付きの部屋のベランダが敷地。知り合いの紹介で置かせてもらった。部屋のオーナーから

「耳鳴りしなかった?」

と心配されるほど静かな住宅街。

べランダは庭から一段上がってるので虫がほとんど入ってこないし、見知らぬ人が近づいてくることもない。寝室から窓を隔ててすぐ隣にマンションのリビングがあり、奥に進むとお風呂場とトイレがある。

以前は東側にもベランダがあったけど、2011年の震災の際に地盤沈下が起きて取り壊された。

この家の次女(高校1年生)は、医療用のウィッグのために髪を寄付するヘアドネーションのことを調べて、自分もやることを決意し「人のものになる髪の毛だから」と言って痛まないように気をつけながら2年かけて髪の毛を伸ばし、最近バッサリと切って寄付を果たしたばかり。たいへん立派な人である。

建築の面白いところの一つは設計者がやりたい形を押し出して、施工者や施主が「いやいや、もうすこしこの辺はこうしてくださいよ」と押し返して、その押し合いのある一点で壁が立つところであって、そこで「自分は使わないから提案する権利はない」なんて言って押し出すのをやめてしまうのは、すごくもったいないことかもしれない。例えば面白いけどすごく住みにくそうな住宅のプランがあるとして、住みにくいからこれを人に押し付けることはできない、自分が使うわけじゃないし。なんて言うんじゃなくて、それでも提案する価値が絶対にあると思うのだったら、そこで施主と押し合いをしないと未来が開かれない。そうやって考えればいい。

   

小森瀬尾の展示を見た。

小森と瀬尾は震災後から岩手の津波被災地に引っ越して、ずっと制作を続けてる。それは長いあいだ同じところの取材をしつづけるようなことで、そんな風にひとところに居ながらにして、外部の人間であり続けるのは気力がいると思う。瀬尾はそれを「小森と2人だからできたと思う」と話してた。

彼女たちの事を見ていると「建てること」に対する感覚が研ぎ澄まされているのがわかる。小森と瀬尾の展示リーフレットに「そこに住むという旅」という言葉があった。住むというのは方法のことで、住宅とかのモノのことではない。そこに建てられている住宅にどれだけ立派なキッチンやお風呂やトイレがついていても、それは住む機能をもってはいない。住むという機能は住宅の側には宿らない。住むということはむしろほとんど旅に近い。とどまりながら旅をして、住みながらつくる小森瀬尾メソッド。方法をつくるための方法をつくっているというか。とにかく刺激的で、同時代的にエモーショナルでどきどきする。