201506231636
福島県いわき市の勿来町まで来た。雨が降ってきたのでお風呂にでも入ろうと思って、去年も入った関の湯という大きな温泉施設に来た。駐車場に立ってた従業員らしきおじさんに、僕がお風呂に入ってるあいだ家を駐車場に置かせてくれと頼んだら
「かまいませんが貴重品だけは気をつけてくださいね。あとここは普通の銭湯とは違って、どちらかといえば滞在型の施設なので高いですよ。2000円します。」
と言われた。僕の事情をすこし説明したら割引してくれた。偉い人だったらしい。
去年はいくら払って入ったのか覚えてない。
いまはラウンジにいる。畳の大広間で、大きな窓があって海が見える。空は曇っていて、水平線がぼやけている。太陽の光で海が白く光ってる。
去年この町でしりあったおばあちゃんに電話したら
「明日でかけるからね、いまパーマかけてるのよ!パーマ終わったら連絡するから」
と言われた。
2015/6/22
今日の敷地は茨城県常陸太田市大中町にある有機栽培の農家の納屋のなかを借りた。ここのご主人は元々東京の人で、親戚も誰もいないこの町に、完全に新規就農で農家を始めた。畑は借地が多い。もう20年くらいやってる。農協を通して市場に作物を出荷するのではなく、地元や首都圏の消費者と直接契約をして、ダンボールに詰めた十数種類の野菜を消費者に定期的に送るというスタイルを取ってる。「家庭菜園の請負業」のような感じらしい。
野菜は商品である前に食べ物であり、もともと日本の農業はここのようにいくつもの種類の少しずつ野菜を育てるというものだったはずで、一つの農家が一つの野菜を大量に育てて出荷するっていう方向性に変わったのは戦後の話で、それは結局あまりうまくいかなかった。今はその影響もあって農業の就労人口が減っていると考えてる。
ご主人の話
「自分の畑に他の畑の土を入れると、作物が元気になってブワーッと育つとうことがある。土のなかって微生物がたくさんいて、微生物の多様性分析をしている人がいて、その人に聞いた話なんだけど。
土がそれを耕す人の手癖とか性格とかに合った微生物に向いたものにだんだん特化していっちゃうんだって。だからたまにガラッとやり方変えると、微生物が「なんだなんだ!」って混乱して、違う種類のが急に増えたりして、そうなると作物がガーっと良くなったりするから。方法論を同じことで固定していっちゃうと、作物がそれなりにしかできなくなる。
基本的に土の中には色々な微生物がいた方がいい。お互いに鑑賞しあって、病原菌だけがブワッと大繁殖したりしないから。
あとは、そこで育ててた種を急によそで育てて、それで戻したりすると良い」
201506221530 おまわりさんとの会話
おまわり「これで寝てるのか。」
僕「これで寝てます。敷地を借りて、マットを敷いて、寝袋で。」
おまわり「ああ。公園とか、道の駅とか、テント貼ったりしてな、知らない人が寝てるっていう苦情がくるもんだから、そうやって寝てないか聞いてみたんだ」
2015/6/21 常陸に住んでる美術ファンの人の話
「ファッションの仕事を辞めようって思ったのは、ちょうどその当時、ユニクロとか、ファストファッションが台頭してきて、日本ではインターネットが普及しはじめる直前の頃だった。すでに会社にはMacが導入されてたりして。そんな中、自分で勝手に想像したファッション業界の十年後は
『自称作家がわんさか出てきて、インターネットを使って自分で好きなように作って売る時代。もうファッションの世界はなんだかよくわからないカオスな状況になっちゃうんじゃないかなぁ。』
漠然と思ってた。
その当時、体調崩すほどがんばって仕事してて、土日も疲れて一日中寝てしまうか、マーケットリサーチに費やして。そんな状況で、10年後、もっともっとこの業界は酷いことになってるんじゃないか、そう考えたら、もうこの仕事にこだわる理由ってあるのかな?離れてしまってもいいんじゃないかな?って気持ちが強くなってきて。
で、悩んだ結果
『10年後、さっき言ったみたいな状況になってしまうと思うんだよね。何度考えても。』って友人たちに訥々と語って、ファッションの世界から身を引いた。
結局モノを本気で作りたかったら、いろんな制約の中じゃなくて、自由に作れる時代が来ちゃう。そのとき、すでにこんな大量消費生産のなかで、(今でこそこんなに苦しいのに)作ることも消費することも、どんどん加速して行ったら、きっと、なんとなくつまらなくなるんだろうなぁ。つまらないところにいても仕方ないし、それより、自分が一番やりたい事は何だろう?って考えた。
デザインよりもアートが好き。真っ先に心に浮かんできて。
苦しみながらデザインの仕事をすることよりも、まっさらな気持ちで芸術を観ることのほうが自分のなかで大事な事だって気づいた。
それで、生活も気持ちも安定した状態で、たくさんの作品を観る機会をもっとつくりたい。今までみたいに疲れて土日寝ちゃうとか、そういう仕事との向き合いかたをしたくないって思った。そもそも、クリエィティブな仕事というのは、ものをつくることだけじゃない、ってずっと思っていて。
例えば、工夫してより簡潔に、誰がみてもわかりやすい書類のフォーマットを作ることだって、クリエィティブなことであって。いつもそう思って働いてきたから、どんな職種でもそれなりに楽しんでこなしてきたと思う。本当にいろんな仕事を経験したんだけど。
ファッションの仕事を辞めて10年後、自称作家という人たちは、予想通り増え続けて、インターネットでのショッピングは日常の事になった。当然だけど、どのジャンルもマーケットはある意味良くも悪くも活性化されたと思う。本当に、良くも悪くも。
今でも、あの頃、友だちと話していたことを思い出す。
『アンダーグラウンドなカルチャーも、そのうちきっと全部オーバーグラウンドになっちゃうんだろうね。もうすでにその気配がじわじわきてる。この怖さってなんだろうね。経験してないからよくわからない。でも、もしかしたら、それはものすごくつまらない状況かもしれないね。』
今がつまらない状況かと聞かれたら、やっぱり答えはわからない。
でも、今はっきりと言えるのは、好きなことを大事に続けてこれたことは、自分にとっては良い選択だったな、ということ。鑑賞を通してしか得られないことがある、と確信を持って言える自分になれたこと」
2015/6/14
2015/6/13
今日の敷地は茨城県水戸市五軒町にある芸術館の駐輪場の隅っこを借りた。
道端で、大阪から来たというフリーのアナウンサーの人に知り合った。アナウンサー業の他に、人に教える仕事をしている。発声や、大学生が面接をする際の儀礼作法の指導(顔をあげろとか、声を出せとか)なんかをしてる。水戸には演劇を観にきた。
今日の風呂場は極楽湯というスーパー銭湯。駐車場がやたら広くて、しかもほとんど埋まっている。中にはお風呂の他にレストランと、あと膨大な量の漫画が揃っている。家族連れはみかけない。大学生くらいの若いグループが9割くらい。
露天風呂でテレビが見られるようになっていて、そこで「結婚式で流される歌ランキング」という番組をやっていた。1位まで発表されたあとで、それを見ていた茶色い髪の毛のお兄さんが、連れの黒髪のお兄さんに向かって
「俺は、結婚式は自分で歌う」
と話しかけていた。
翌日、芸術館の広場で結婚式が行われてた。入場曲はOasisの「Whatever」。
新郎新婦はドレスにタキシードでリングの贈呈などをしているので、洋式のようだけど、牧師らしき人はいない。司会の人は「神前式」と言う。
立会人の拍手でもって、結婚成立を宣言してた。
「立会人の皆様、お二人が夫婦となること、ご承認いただけますでしょうか。ご承認いただける方は大きな拍手をお願いいたします。…ありがとうございます。今の拍手をもちまして、お二人のご結婚が成立したことをここに宣言いたします」
みんなとても嬉しそうに笑ってる。
2015/6/12
今日の敷地は一昨日の日記にも書いた猫の家の軒先を借りた。
猫は3匹住んでる。ご主人が大阪で一匹もらってきて、他の人からもう一匹もらったら、その二匹が子供を産んで3匹になった。
夜、串焼き屋に連れて行ってもらった。
そこのオーナーの話。
「家庭で子育てしないで地域で子育てしてたよね。よその子でも悪いことすれば怒ったもんね。いま下手に怒ったら訴えられるよ。
そこにガソリンスタンドやってる社長がいて、二人乗りしてた中学生がいたんで
「二人乗りしちゃダメだぞおまえたち」
って言ってそれで帰ったら次の日警察から電話かかってきて
「『胸ぐらつかまれて脅かされた』って言ってる」
って。その中学生が親に訴えちゃったんだな。相手二人でこっち一人でしょ。他に見てる人もいないから。
じゃあどう対応したのかっていうと、警察が
「このままじゃどうにもなんないから、とりあえず認めて下さい」
って言うんだよ。やらないことを認めるわけにいかないよねえ。最後までやってないって突っぱねたんだ。
「認めた方が問題の解決は早いですよ」
って言われたんだけど。そんな馬鹿らしいことないよね」
その後、隠れ家的なバーを紹介してもらったので行ってきた。そこでボンベイサファイアをロックで頼んだら、マスターに
「ジン好きなんですか?」
と聞かれた。
「ボンベイサファイアしか飲んだことないです」
と言ったらマスターのスイッチが入ったみたいで、話がとまらなくなった。
「ジンはカクテルの一材料っていう風にみんな思っちゃってるから、ストレートで飲む人はあんまりいないんだよ。飲んでみればいいのに。例えばジントニックって注文入った時に、うちはトニックウォーターだけで3種類あるし、ジンもたくさんある。そんでトニックウォーターとジンの比率は2対1か3対1かでも違うし。
だからお店行ったら「おすすめのジンをください」って注文してみるといいよ。ジンはそんなに高くないからさ。うちのおすすめはヴィクトリアン・バット・ジンとか。これはボンベイサファイアよりもスパイシー。香りが楽しめる。スコットランドとかの店行くと、飲み終わったグラスを下げないんだよ。香りが残ってるから。テーブルに5つくらい空のグラスが残ってて、飲み終わった後も香りを楽しんでたりする。お酒はもう、飲んで酔っ払うだけの時代じゃなくて、香りをずっと嗅げるんだから、それを楽しむ。」
2015/6/11
今日は、つくば市に住んでいる元映画看板職人の家の車庫を敷地に借りた。
車庫にも「タイタニック」や「無法松の一生」なんかの看板が置いてあったけど、家の中にも色々な看板や俳優のポートレイトが飾ってあった。最近の映画のものもある。静物画のような絵もある。
「これは水性塗料です。水彩絵の具とも違う。看板の塗料ってのは一番安いんですよ。こういうものってのは、今はもうやってる職人はいないですよ。紙はザラ紙。新聞紙とおんなじ紙ですよ。真っ白に印刷してない新聞紙。それをベニヤに貼り付けて、結局は後から後から上に貼り付けていくから。糊と紙がベニヤみたいに厚くなっちゃう感じ。だからね、もう今はもうとてもじゃないけど覚えるまで辛抱できる人はいないし、その必要もないし、今の時代はね。何もかもコンピューターでパパッとやっちゃうから修行もなにもないですよ。
まあでもね、展示会なんかやるとみんな珍しいなって言ってくれるんですけど。今は映画のサークルやってて、昔の名画鑑賞会なんかやるんですよ。そういうときはそのためにポスター描いたりするんです。一日しかやんないですけど。
昔だったら1枚描くのに1日でやっちゃったけど。僕ら芸術家とか絵描きじゃないですから。職人ですから。パパっとやっちゃう。モタモタしてると映画終わっちゃうから。映画は2週間しかやらないですから。
そのかわりインパクトのあるような要領っていうか、遠くから見てもこれは高倉健だ美空ひばりだジョンウェインだってわかるように。早いっていうか要領がいい。芸術家じゃないから。
今は水彩画のクラブで、みんなと一緒に公民館の講座なんかでやってます。絵は好きですから。基本的に絵には変わりないんですけど、絵では食べていけないっていうのがあるから。昔は食べられたんですよ。映画の看板で。だけど今は映画館がないんだから。まあシネコンはありますけど。みんなポスター大きくしたものを印刷してて。だから描こうとしても映画館はないしお金にならないから。
看板屋は50年前までやってました。辞めてからは文字とか、デザイン関係のものに関わってやってきたんですけどね。だから文字も表彰状の文字からゴシック明朝全部やって。他に何もできないからそれで食べてきました。
賞状を書く仕事もやってました。ホームセンターで表彰状をつくる仕事。賞状の文字ってのは独特なんですよ。書道をやってる人の文字じゃダメなんですよ。書体は書道の文字とは別なんですよ。ホームセンターではペットコーナーの看板で犬とか猫とかグッピーを描いたりも。今はパソコンでやってるみたいです。
僕は月謝払って勉強したものはないです。絵も字も全部独学です。真っ白いチラシの裏が真っ黒くなるほど夜中までやった。ものすごい夢中になって、食べるために勉強したから。人に見せたり公募展の会員になるために勉強したわけじゃない。
僕はこれで食べてきた。一応扶養家族も養ってきた。ちょっと文字が人より上手だなくらいじゃダメなんです。お客さんに気に入られないと家族まで飢え死にしちゃう。看板の絵もそうです。夢中になってやった。生活かかってるってのはやっぱり凄い。とことんやった。今はもうやってないですけど。
映画の看板は15歳から30歳までやった。好きだから高校行かないでやった。映画の看板はマニュアルもねいし芸大みたいなカリキュラムもないから。自己流で始まって、東京へいって東京で描いてる先輩と一緒に働きながらね。30で辞めたころは映画はテレビに押されてた。映画のピークってのは昭和35年です。そのころにテレビがバーっと普及した。それから映画は映画館じゃなくてテレビでみるというふうになって衰退してきたんで、このまま映画にかじりついててもだめだと思って。一緒に看板描いてた人はイラストレーターになったり、そういう人はいますけど、映写技師では自殺した人もいる。当時としては花形の仕事だったんだけど。映画がなくなっちゃったから。映画館の支配人なんかやってたのに。今は映画館のオーナー館っていうのはほとんどないですからね。シネコンはあるけど。
僕らは文字やなんかやってたから、あの当時東京の晴海の展示場でいろんな展示会やってたんですよ。今の幕張メッセのところ。あそこへ行っていろんな看板描いたり文字書いたりして。
だから文字と絵だけで生きてきた。一応男だからね、扶養義務というか責任感があるじゃないですか。好きな女性とかわいい子供を飢えさせたり路頭に迷わせたりっていうことはできないですもんね。だから僕は自分でも、夜も寝ないで勉強もしたし。
ゴシック明朝は早かったんですけど、表彰状の文字はね、ものすごい練習して。筆も筆屋に行って一番いい筆を買ってきてね。やっぱり弘法筆を選ばずっていうけど、僕は筆は選ぶ。いい筆といい腕といい紙、全部揃わないと良い仕事はできないから。
人にはね、芸大の教授とかにみてもらうんでない、一般の人が良いと思う絵をかきなさいって言うんですよ。誰が見てもパッと見て綺麗だなっていうものを描いたほうがいいと言ってる。そしてね、絵なんか目くじら立てて勉強しない方がいいよ、って。奥が深いからね。」
2015/6/10
車に轢かれた蛇の死体を三回もみた。
今日の敷地は茨城県つくばみらい市にある建設会社の社員寮の正面玄関の前を借りた。去年社長夫婦にこのあたりの路上でたまたま知り合い、そのままつくば市玉取にある家に泊めてもらったことがある。その家は普段はあまり寝泊まりするのには使ってないらしいけど猫が3匹いて、その猫にご飯をあげるために通ったり、たまに泊まったりしているらしい。ほぼ猫の家になってる。
この社員寮はとても大きいのだけど、いま住んでる人は少ない。
昔はたくさんの人が住んでいて寮母さんのような人がいて泊まっている人のためにご飯を作ったりするくらいだったけど、みんな自分の家を建てたりして寮をでていった。でも建物は災害時の拠点として機能したり、研修の会場に使っていたり、バーベキューやったりなど色々活躍しているとのこと。
「建設業は年度末に工事が集中するから、寒い時期にピークがくるの。遠くから職人さんを呼んで現場に入ってもらうから、そういう時に寮があるだけで職人さんが『じゃあ行けるよ』って言ってくれるの。旅館手配したりなんなりっていうのは大変だからね」
今度長野の善光寺に社員旅行に行くらしい。
「善光寺に行ったら蕎麦食べなくっちゃねえ」
と言ってた。