0527
僕はここには感じたことをなるべく正直に書こうとしている。なんで日記を公開するのかって言われたこともある。自分の精神状態をしずめるためにこれを書いているんだけど、それを公開する必要はあるのか。自分でもなんでかよくわからないけど、ひとつは自分が「移住を生活する」という生活そのものを含めた作品をつくっている以上、公と私の境界線があってはいけないという強迫観念に近いものがあるからだと思う。
ここに書くのは誰かに嫌な思いをさせるかもしれないような内容のこともあるし、あとで「あいつあのときこんなこと考えてたのか」って驚かれるようなこともある。でもほとんどの場合、それはそのときに思ってたことじゃない。それは「あのときこう思った。それをいま思い出しながら書く」という作業ではなくて、あとでこうやって文章を書きながらそのときのことを思い出して「あのときに感じたことはこういうことだろう」というように後から付け足されるものを言葉にしていくという作業に近い。簡単に言っちゃえば「あのときこんなふうに思ったことにしよう」というもの。
僕はそんな風にしてしか自分のなかで出来事を完結させることができない。こんな風に「あのときこう思ったことにしよう」を書いておかないと、自分の中でいつまでも出来事が終わってくれなくて気持ちが悪い。だからこの場所は「あの時こう思ってたけど言えなかったことをここで書く」というような愚痴の場では断じてない。なんでそんなようなことをわざわざ書くのか。僕は何もないところから「これをつくりたい」とは思えない人間だし「美術史に自分をのっけて新しいものを打ち出していく」というようなこともできないことも最近よくわかってきた。日々過ごす中で感じた違和感とか誰かの言葉とかに対して、自分を過敏に反応させて考えをめぐらしてアイデアを落としていくような作業のなかからでしか作品をつくることができない。そしてそれは言葉にされなくてはいけないし、公開されてなくてはいけない。だから「こんなこと書いたら嫌がられるかな」とどこかでは思いつつ、作家である以上こんなふうに書くことしかできない。
また「受け取る」ということは能動的なことだと思う。言葉を受けたり、誰かの作品を見てなにか思ったなら、それがその言葉や作品の意図だし、それが意味だ。それこそがその言葉や作品の存在価値だ。話し手や作り手の意図を第一とするのは良くないと思う。
昨晩からずっと雨が降っている。そういえばこの家で雨の中寝たのは初めてかも。ごくたまにどこから漏れてるのかわからない水滴が顔に落ちてくる以外水漏れはなかった。ただ底のぬれた靴の置き場に困るな。
新座でしりあった銅版画作家の田谷さんからメールがきた。いわき市のこのあたりに知り合いが住んでて、連絡したら僕に会いたいといってるらしい。自分の現在地を伝えたら、その人が親子で訪ねてきた。そして車で山奥の美味しいカフェまで連れていってくれた。その人の家は僕の家があるところから数キロ北にあって「うち来てください」と言ってくれたので明日はそこに家を置かせてもらうことにする。こんなのんびりペースで大丈夫なのか不安だけど。
その人は山をみながら「奇麗なところなんですよ。線量さえなければ」といっていた。ここは原発から60キロくらい。近くの海水浴場は去年から海開きをしていて、泳いでいるひともたくさんいるらしい。 カフェからの帰り道、突然車がパンクした。道路の脇に車をとめて、迎えが来るのを待つ。それまで僕たちを運んでいた車はパンクしたとたんに荷物になった。道の真ん中で立ち往生したときに不思議な感覚があった。普段は通り過ぎるだけの道に突如落とされて、動くこともできなくて、仕方なく道に生えてる花とか虫とかを観察してみたりして。
今夜は昨日知り合ったおばちゃんがやってる民宿に家をおかせてもらう。今日は客もいないから部屋に泊まっていいよ。サービスしてやっから、と言ってくれた。ありがたい。おばちゃんに「旦那はアルツハイマーだから、気にすんな」と言われた。
民宿に入ると旦那さんが大声で迎えてくれた。
「ほんと立派なもんだ。いまの社会ってもんは悪徳業者ばっかりでしっちゃかめっちゃかだからな。あんたみたいな人がこれから社会を支えていくんだからな。俺はもう頭がダメになっちまった」
と言ってた。おばちゃんはまた
「アルツハイマーだから」
って言っている。
いまこれを自分の部屋で書いてるんだけど、ときどき旦那さんが怒鳴る声が聞こえる。おばちゃん大変そうだな。
05261840
いま福島県いわき市の「勿来温泉 関の湯」という大型浴場のラウンジにいる。まわりには退職したばかりくらいの年齢の夫婦連れや親子連れがご飯を食べたりビールを飲んだりしている。月曜日なので、働きざかりの年代の人たちは見当たらない。5,6人のおばちゃんのグループが2グループあってそれぞれ盛り上がっている。家の前に救急車が止まった話やどっかのサンドイッチが美味しいという話が聞こえる。だいたい2,3人が同時に話しているんだけどそれで会話が成り立ってるんだか成り立ってないんだかわからない感じ豪快なテンポのまま話が続いていく。ブレインストーミングしてるみたいだ。すごいな。そういえば常陸太田のアーティスト二人の家にはテレビがなかった。それが良かった。テレビをつけながら会話をすると、話題が表面をすべる。
隣の隣で座布団を敷いて寝ていた男性がどこかが痛くて動けないらしく、スタッフやら家族やらがばたばたと集まってきた。周りの人たちもちらちらと見て気にしている。そんななかでマックブックをひらいてこれを書いている。
今日常陸太田市里川町から北茨城市の大津港までトラックで家を運んでもらい、少し歩いて福島県に入った。いよいよ福島県。ほんと特別な名前になったな。県境を超えたけどなんてことない。それまでの景色と特に何か変わったところは見当たらない。iPhoneの現在地の表示は「茨城県北茨城市」から「福島県いわき市」になってた。でも目の前には同じように右側に海が、左側に山がある道路が続いてるだけだ。海沿いを歩いてるんだけどトンネルもある。ここらあたりから関東平野じゃなくなり、山と海がとても近い。
「家の絵を描かなきゃ」ってこれまで以上に強く思った。今までは自分の家の置き場が見つかる前に絵を描き始める気にならなかったけど描かずにはいられなくなって、家をおろして家の絵を描き始めた。まだトラックでおろされた場所から5キロくらいしか歩いてない。
勿来町関田西という所で描きはじめたらバイクに乗ったおばちゃんに話しかけられる。このあたりに来ると方言が強くて聞き取れないことがあるな。
おばちゃんに事情を説明したら「とんでもねえ長男だな」と笑いながら、今日僕の家を置く敷地を貸してくれた。
その敷地というのが2011年の地震と津波(床下浸水ですんだらしい)でダメになった家を解体した後の更地らしい。
さらに近くで民宿をやっているおばちゃんの友達のおばちゃんと道ではちあって、そのおばちゃんも面白がって「うちも使っていい」と言ってくれた。
バイクのおばちゃんは
「そしたらわざわざ更地で寝なくたって、この民宿に置かせてもらえばええ」
と言う。でも僕は「あの震災でダメになった家の跡地で寝てみたい」と思ってた。だから民宿には明日置かせてもらうことに。海が見える民宿だった。
民宿のおばちゃんは「明日好きなときにきたらええ」と言ってくれた。
以前あるプロジェクトの期間中に岩手県の大船渡で津波にさらわれた敷地に寝たことがあった。
あのとき、知らない人がたくさん目の前を通り過ぎながら僕を睨みつけてくるというひどい悪夢をみて、もう寝るのやめようと思ったのだった。でも今はなんとなく大丈夫な気がする。
そんでバイクのおばちゃんが、この温泉の無料券をプレゼントしてくれて今に至る。太平洋が一望できる素敵な温泉だった。
さっきラウンジで絵を描いていたら、隣に座っていた男性に話しかけられた。その男性はいわき市に住んでいて「~の実家が原発で帰れなくなった。双葉町ってとこなんだけど」という話がさらっとでてきた。「北上するなら郡山を目指した方がいい。6号線は原発で通行止めになってる」とアドバイスをくれた。僕は自分の説明をするのが面倒で、適当に「スケッチ旅行している画家です」という説明をした。
これからおばちゃんの更地においてある家に帰る。あんな小さな軽い家でも、帰る場所があると思うだけでここがすこしホームのように感じられてほっとするのだ。
倒れていた男性のところにとうとう救急隊員がきた。でもちゃんと話はできているみたい。大丈夫かな。
5月25日
常陸太田市里川町にいる。標高600メートル。星がとても綺麗。もうあと数キロ北上したら福島県に入る。昨日までいた松平町よりもすこし気温が低い感じがする。この街に家は65軒くらいあるけど、時々人が帰ってくるだけの空き家状態のところも多いらしい。今日はここで酪農をやっている家に家を置かせてもらう。僕を呼んでくれた人とその奥さんと、お母さまお父さまが住んでいる。ここはそのお父さんが始めた牧場で、それまでは野菜やお米をつくる段々畑がある農家だったところを、一大決心してブルドーザで土をならし牧場に変えたらしい。最初二頭の牛を仕入れてやり始め、今では60頭くらいになっている。ここまで規模の大きな牧場は当時なかったためまわりの人に反対されたという。それをエネルギーに変えて見事に成功させた。眼鏡がとても似合う聡明そうなお父さんと、それを継いでいる人と、また新たに生まれる命もある。すごい。
ここから福島第一原発まで120キロくらい。原発事故が起きてから数ヶ月は線量検査にひっかかったため毎日毎日絞った牛乳を捨てていた。何トンも。当時は牛が心配で、家ではなくて牛舎により近い小さな事務所に寝泊まりしていた。
牛舎のなかで牛のそばを通ると必ず顔をあげてこっちの目を見てくる。目がうるうるしていて顔が大きくて重そうで、舌が長い。草をやるとそれが無くなるまで一秒も休まずに食べ続ける。一頭あたり一日30キロの乳を出す。牛が乳を出すためには子供が生まれないといけない。だからほとんどの牛はいつも妊している。生まれてから一ヶ月経ってない子牛もいた。牛乳の値段はどんどん下がっている。買い取られる牛乳の脂肪分に制限が設けられてから、なかなか基準をクリアできず牛をやめてしまう人が全国的に多くいたらしい。
今日人に前髪を切ってもらった。この生活をするにあたってなるべく「旅人」っぽくなりたくない。ごく普通に家で生活をしているような印象を保ちたい。髭も髪も伸びてない方がいいし毎日お風呂に入った方がいいし肌は白い方がいい。ながく旅をしている人ってどんどん仙人みたいな見た目になっていって、本人もそれでよしとしちゃってるイメージだけど、僕は旅人ではなくて家と一緒に移動しているだけの人なのでそういう見た目にはなっちゃだめだ。
田んぼが近くに無いので、昨日までみたいにカエルの合唱は聞こえない。かわりに時々牛がおしっこをしているジョロロという豪快な音やおならの音やもぞもぞと動く音や、すこしの虫の鳴き声と、そいつらが電灯にぶつかる音が聞こえてくる。外はとても静かで暗い。
そこに近づいていると思うと気が引き締まってくる。この制作の発端になっている事故が起こった現場。明日か明後日にはもう福島県に入るはず。とてもとても重要な現場に入る。
「あなたがんばって」よりも「わたしがんばる」の方が応援になることもある。誰かが何かやっているのを見たり聞いたりするのが応援に感じられることもある。
5月24日
菊地さんの家にツバメの巣があった。ツバメは毎年同じところに巣をつくる。震災の前年、やたら丈夫な巣をつくっているツバメをみて菊地さんは「こいつ巣の作り方を知らないんじゃないか」と思ったけど、観察しているうちに「なんか大きな地震とかあるんじゃないか」と思ったらしい。
菊地さんの家をお昼前に出発して、林たちの家に戻ってくる。いろいろあって明日までここにいさせてもらうことにした。明日里川町というところに住んでいる人が「ぜひうちにもきてほしい」ということで、トラックで家ごと迎えにきてくれることになってる。林たちとは帰ってこないので会えない。ちゃんと別れたので、また会ってしまったらなんかまぬけだ。
お昼ごろに、19日の日記にも登場したよしざわさんが2歳の息子さんを連れて遊びにきた。
こいつがなかなかくせのある面白い男の子だった。まず僕が「こんにちは」と言ったら「ばいばい」と言う。
そして、僕の家に興味がありそうな感じでドアをぱかぱかあけるんだけど、絶対に中に入らない。
「入りなよ」と言っても入らない。
で、別れ際に僕が「バイバイ」と言ったら「ブッ」と言われた。その「ブッ」を覚えておく。
夕方散歩してたら畑作業をしているおばちゃんをみつける。ひとつの葉のまわりの土を何分かかけて整えて、おわったらまた次の葉へ。手間がかかる作業だ。毎日そこに通わないといけない。畑をやるには家が毎日近くに無いといけないのだ。手間をかけて育てても動物にやられたり天候のせいでダメになったりすることもあるだろう。いまはみんな一緒に地面から生えてるけど、収穫したら自分で食べる分と人に分ける分と売る分とにわかれていくんだろう。
5月23日
林たちの家を出る。林は朝早く家を出て行った。今日明日と東京に帰るらしい。4日間もいるとさすがに名残惜しい。ここで自分の根が生え始めているのがわかる。あんまり長く居ると、別れがつらくなるな。根を引き抜くのが痛くなる。林はすごい。日記を書こうとして今日なにがあったかをふり返るときに、林のことを見過ごしてしまうくらい、違和感無く今まで一緒に生活していた。あまりに自然にいろんなことに気を回すので、こちらはそれに気がつかない。こんなことできる人がいるのか。毎晩飲みながら話をした。話したりスケッチブックを見せてもらったりして、根っからの絵描きだなと思った。日々の思考とか講演をきいたときのメモとかみせてもらうと、絵と言葉の区別がまるで無いかのように自由に描かれていて、彼女の思考の中ではそれらがとけあってるようだった。
今日は水戸芸で出会って、翌日野菜ジュースを届けてくれた菊地さんの家に行く。東連地町というところで、林たちの家から歩いて20分くらい。すごく近い。
菊地さんはここで建築設計と大工をやっている。父親の仕事を継ぐかたちみたい。
お昼ご飯にと、水戸のおいしいお店を予約してくれていたみたいで、着いてすぐに車で水戸まで行った。
菊地さんはまだ20代で、お店にいく服装も車もお洒落でサングラスも似合ってた。でも家と事務所にしているところは360度田んぼと畑に囲まれているようなところだ。仕事は忙しいらしい。生まれたところで咲いている花みたいだ。かっこいい。
水戸のカフェで、みなみさんという人と合流して一緒にごはんをたべた。菊地さんとみなみは水戸芸術館の「高校生ウィーク」というコミュニティで知り合ったらしい。話をきいてると、年齢層も様々な人が集まって町を探検したりなんか作ったりカフェの店員をやったりしているみたいでとっても楽しそうだった。この前の下市交流会といい、水戸はこんな自由なコミュニティがたくさんあるのかな。
05241510
時間が経つのが本当に早い。拷問を受けてるみたい。思考も思い出の整理も追いついてない。悲しみや喜びを感じる気持ちも追いついてない。全ての出来事が次から次へと始まって、何かを感じる暇を与えずに終わっていく。すごいスピードで過ぎていくあらゆる物事から、目にとまった物事をひとつひろいあげて、それをながめているうちにあまりにもたくさんのことが流れ去って、もう手に取ることもできなくなってしまう。散らかしては片付けて、また散らかしては片付けてを繰り返しているだけだ。そこで遊ぶために散らかすのに、遊びはじめたら片付けの時間が来る。小さいころブロックで遊んだ時もこんな気持ちだった。そのうちちゃんと片付けられなくなってくるだろう。散らかしながら、片付けなくちゃと思いながらもまた新しく散らかしてしまうことになるだろう。そんなんでいいのか。
5月22日
昼に読売新聞の茨城タウンニュースという地域向け情報紙の記者の取材を受ける。
そこで
この活動に「自分探し」のような意味はあるか?
というようなことを聞かれた。ぽかんとしてしまった。あまりにも予想外だったのでうまく答えられなかった。そんなふうにみえることもあるのか。
むしろ自分を見捨てるのに必死なのに
5月20日
ミヤタと林を含む常陸太田の人たちが市内を案内してくれるというので、軽トラに家を積んで、もう1台の車に5人乗って夕方まで市内をぐるぐるした。鯨が丘や西山荘や里美地区やら。
アーティストがまちおこし事業の一環として町に雇われている、という状態について考えて悶々とする。どうやらこの常陸太田のレジデンスは市のまちおこし事業の一環として行われているようだった。最近は本当に国内あちこちで「アート」と「まちおこし」の単語がセットになって語られているのを聞くな。
美術の制作は基本的に個人の内的な衝動からおこる活動でしかあり得ないと思うから「まちおこし」という公共をつくりだす動きと相性が良い気はする。パブリックな動きをつくりだすためには、まず最初に個人の内的な衝動による働きかけが不可欠だと思うから。「一人の閉じた個人の活動」があるからそのまわりに「公共」が展開する、というようなことを前にも書いた。でもつくづく感じるのは役所の、特に「〜市役所〜支所〜課」みたいに、より町に近い人たちが動くときにはまず「上からおりてくる公の予算」が先にあって、それをどう使うかっていう頭になりがちで、予算の割当先が決まるまでが重要で、そこから先はもうよくわからない知らない、みたいなことになりやすいな。そこの順番が美術活動とは全然逆なので、協働したときに変なことになりかねない。
例えば公用車をだすためには「アーティストが子供と交流しているところを撮った写真」とか「まちの人と歓談しているところの写真」が必要になるんだろう。
それは「交流しているところを写真にとるための交流」が行われてしまうという変な事態になりえるし、あちこちでそういう事態になっているんだろうなと思う。そうやって使われるお金たちはさぞ無念だろうな。
5月19日
重力が思考を阻害する邪魔なものに感じられる。肩が痛くなるのも歩くのが疲れるのも、人が土地に括り付けられるのも重力のせいだ。住所と重力の語感も似てる。
朝10時半頃にBelly Buttonを出発。
常陸太田市のアーティストインレジデンスに滞在中のアーティスト林友深とミヤタユキの家に向けて出発。
27キロくらい。荷物が減ったのでだいぶ違う。2時間半くらいは休まずに歩けた。
歩きながらミンティアと1000円のカンパをもらう。
常陸太田市。信号に変な像が立っていた。なんだこれは。
歩いていたら昨日水戸芸で知り合った常陸太田在住の菊池さんからメールがくる
「約束の野菜ジュースを渡したいんですが、いまどこにいますか?」
なんと本当に野菜ジュースを届けてくれた。すごい。冗談に受け取ってしまったことを反省する。
菊池さんは僕が今向かっている松平町というところのすぐ近所にすんでいるらしい。そこにも遊びにいくことを約束した。これは冗談じゃない。
林が壁画を描いているという公園まで歩いていって、そこからよしざわさんという人がトラックで林の家まで家を運んでくれた。トラックに乗せたのは初めて。ワープと呼ぶことにする。
夜、林と宴会になる。ミヤタと林が高速道路でひどい事故にあったときいていたので、事故について話を聞いた。
夜。林とミヤタが運転する車が高速道路上にランプもつけずに停車していた車にぶつかりそうになったのを避けてスピンしたところを、後続の車何台かに衝突された。窓をあけて「助けてください!」と叫んだけど、全く意味なく、窓からiPhoneが投げ出されていった。「ああ、死ぬな」と思った。車の中から警察に電話して「いまどこにいるかわからないんですけど、もう一回衝突されたら死にます」と話した。
しかし幸い二人とも死ななかった。全身打撲と骨折をしたものの、いま林もミヤタも元気でやっている。良かった。死なないで本当に良かった。ほんと、一歩間違えたら、例えばドアから飛び出したり、車を避けきれずに正面衝突していたり、もう1台多く車が走っていたりしたら、死んでいたかも。あるいは体が使い物にならなくなっていたかもしれないのだ。二人は生き残った。
あとでミヤタから聞いたのだけど、停車していた車を避けるのに、全身の全エネルギーをつかったので、スピンして停車した直後、記憶が一瞬飛んだという。そのあと、頭の中にふせんが6つ浮かんできてそのうち2つに「ともみ」と「高知」と書かれていて、あとの4つには何も書かれていなかったという。
もう本当に限界を超えた直後、人の頭は単語を6つまで覚えられる状態になるということだ。あと4つには何も書かれていなかった、というところがリアルだ。
5月18日
4時くらいまで絵を描いたり日記を書いたりする。
それと荷物をいくつか実家に送った。上着と文庫本と、描き終わった絵を70枚くらい。
元気をもらえると思ってニーチェのツァラトゥストラ下巻を持ち歩いていたけど、読む時間はほとんど無く、ただ重いだけのものになっていた。
元気を手に入れるためには、本とか持ち歩くより何より、とにかく1グラムでも荷物を減らした方がいいことがよくわかった。体への負担が全然違う。
今日は水戸芸術館のファッション展の最終日ということもあって、東京から友達が4人(2人+2人の別グループ)水戸に遊びにくるという連絡を受けたので、鈴木君の家を家と一緒に出て水戸芸術館に向かった。5キロくらいの移動。
水戸芸で常陸太田市に住んでいるという人と新しく知り合った。
「明日常陸太田に行くんですよ」
「そこ地元ですよ!差し入れ持っていきます」
「本当ですか?野菜ジュースが嬉しいです」
という会話をするなど。
そのあと、昨日の交流会で隣に座っていた山田さんがやっているBelly Buttonという雑貨屋に遊びにいく。今日はここに家を置かせてもらう予定になっていた。
しかも
「来月からチャーシューを売ろうと思っていて、今チャーシューを研究して作ってるんです。よかったら晩ご飯友達も一緒に晩ご飯食べに」
ということなので、東京から来た友達4人(デザイナーの飯田君と藝大建築院生の下岡さんと編物関係のお仕事をしている吉沢さんと法政大建築学生の川田君)と鈴木君も一緒に店をのぞかせてもらった。
商品が一癖も二癖もある物ばっかりだった。上の写真は山田さん曰く「カトラリーにしか興味がない人が作ったカトラリー」らしい。
これはそのうちの1つで、コーヒーに砂糖を溶かすためのスプーン(右利き用)。用途が限定されすぎている。飯田君は「カトラリーにしか興味が無い人がカトラリー作るとこうなるのか」と言っていた。
上のやつはまた別の作家の「七味唐辛子入れ」らしい。すごいな。
これは売れないだろうなあと思った。とても面白いお店だった。
そのあとお店の駐車場にブルーシートを広げて、みんなで買い出しにいく。山田さんがチャーシュー丼、その息子さんがタンドリーチキンを作ってもってきてくれた。どっちもおいしい。
みんな東京に帰っていった。
5月17日
朝、水戸芸の森山さんから電話がかかってくる。水戸にはぴょんた文庫というスペースがあって、そこで今日の夕方に下市交流会という会合があるらしい。よかったらきてください、と言われる。よくわからないけど行くことにする。
水戸の次に行く予定の常陸太田市に滞在中のアーティスト林友深に電話したら暇だというので、鈴木君の車で常陸太田に遊びにいった。家は昨日の駐輪場に置いたまま外出。
車は速い。速くてなめらかで、しかも風の影響を受けにくい。ただ車に乗っていると外がどれだけ風が強いのかがわかりにくい。30キロがあっという間で、道を8キロ行き過ぎたんだけど戻るのもすぐだ。すごい発明だ。歩いていると車に腹が立ってしかたがないけど、のってみると快適だから複雑。
林さんと合流して常陸太田の竜神大吊橋という観光スポットに行く。大きな吊り橋と、たくさんの鯉のぼり。
この吊り橋は、渡ってもどこにも続かない。変だ。橋ってどこかに行きたいけどその途中に谷があったり川があったりするときにつくるものだと思ってた。現在地と目的地を結ぶためのもの。ニーチェだって「人間は克服されるべきものだ」という意味で「人間は橋だ」というようなことを言ってた。なのにこの橋は渡っても何もない。強いて言えば100円入れたら音が鳴る鐘がある。そこには「恋人と手をつないで鐘を鳴らせば、二人の愛が深まるかも?」と書かれていた。どういうことだ。この橋は橋のための橋だった。展望台としての橋。橋から風景を、そして橋そのものを眺めるための橋だった。つくるのにすごいお金がかかってるはずで、橋に入るのに310円かかるんだけどこれで採算とれてるのか。そもそもよく作る気になったな、と思った。でも橋からの眺めはとってもきれいだった。
林さんが
「木を上から見ることってないよね。新鮮だね」
と言ってた。
あとバンジージャンプも最近始まったらしく、何人も橋から飛び降りていた。一回14000円かかる。高いな。
やりたくはないけど、飛ぶ人を見るのは面白い。ただバンジーのせいで気が散って、鯉のぼりをじっくり見られない。展望台としての橋とたくさんの鯉のぼりとバンジージャンプ。一貫性がなくてごちゃごちゃしてて、でも人はやたらたくさんいて(主に家族連れとカップル)、ちゃんと観光地っぽくなっている。みんなそれぞれの休日をここで過ごすことに決めたんだな。それをいま楽しんでいるのだ。悪く言うことなんてできない。良い観光地だな。
夕方、林さんと別れて水戸に戻り、鈴木君と二人で「下市交流会」に出席する。20人ちかい人が来てた。
水戸の駅より南側の一部のエリアを下市といって、そこをより良くするためにどうすればいいかを役所の人やら菓子屋さんやら雑貨屋さんやらとにかくいろんな人で集まって話し合ったりお互いの近況報告をしたりする会。ということみたい。森山さんが僕のことを「(家の)中の人」と紹介してくれて、そしたらほぼ全員が「歩く家」のことを知っていた。写真を求められたりもした。どういうことだ。
みんなちゃんとお互いの話を聞きながら、まちのことを話し合っていて良い場所だなとおもった。月一回でやってて、固定メンバーっぽい人はいるみたいだけど、参加しなくてもいいし、そもそもお互いにすごく気の知れた仲ばかりでもない、初対面どうしの人もたくさんいるような場所。
交流会が解散したあと森山さんに連れられて「カルマ」というインド料理屋さんに行く。カレーがおいしい。
そこのお店の人ふたりは「下市交流会」と聞いて「なにソレ」と言っていた。今日のオチがついた。良いな。
5月16日
水戸芸術館の中庭で警視庁の吹奏楽団がコンサートしてた。それを聴いてる人たち。土曜日の昼下がりって感じだ。ときどき手拍子もおこる。良いな。
朝6時半頃、よし君が家を訪ねてくる。えらく気に入られたみたい。
しらばくしてひろくんを見送り、その後よしくんとそのお母さんを見送った。よしくんは保育園の最年長クラスで、今日は歴史館に親子遠足らしい。よし君は別れるのが嫌みたいで、半分泣いてた。
昨日の移動が体に響いているのがわかる。昨日は家を担いで33キロくらい歩いて、家をおろしてからも5キロくらい歩いた。1日で40キロ近く歩いたのははじめてだった。そのせいか、朝起きてからずっと調子が悪い。
お昼前に川俣&堀口家を出発して、まず水戸芸術館に行った。家を駐輪場に置いて「拡張するファッション展」を観る。面白かったけど、元気だったらもっと得るものがあったかも。ファッションと聞くと、すぐさま「消費」とか「流行」と結びつけて考えてしまってたけど、それは人間生活のもっと根源的なものをつかさどっていて、ファッションについて考えだした時の射程範囲の広さを見せつけられた。コズミックワンダーの公園でのファッションショーの映像がよかった。
水戸をすこしふらふらして、駐輪場に家を取りに戻ってごそごそやってたら、水戸芸の森山さんという人に話しかけられる。この活動について話すと面白がってくれた。
「みんなから、あれなんですか?って聞かれたんですよー。アーティストさんのかなーとは思ってましたが」
そんで近くにあるキワマリ荘というところに案内してくれた。
大学時代の友達の鈴木君の家が水戸にあって、良かったら来てと言われていたのでそこに向かう。水戸芸から5キロくらい。駐輪場に家を置く。