①すみません終了後の報告になってしまいましたが、9月27日「超絶縁体iiii」に出園しました。

②今月の福音館書店の新刊「母の友」特選童話集『こどもに聞かせる一日一話』に僕の「あくびをしてはいけない国」が収録されています。うれしい!短くておもしろい話が30こ収録されて1,650円。1話50円。ほぼタダ!

③3331 ART FAIRに出展します。新作をつくっています。

村上慧

よろしくお願いします。

制作だ制作。今宵も書いて消して書いて消して貼ってはがして塗ったり燃やしたり作品にならなくても発表できなくても誰の目に触れなくても誰にも気づかれなくてもこれをこうしたりああしてみたりちょっとなおしたりやめてみたりあっちからもってきたそれを加えてみたりして制作するすべてのものたちに幸あれ

朝、外宮にお参りしたとき、正宮にて、中年の半袖短パンで手ぶらの男性が一人、頭を下げて、ぐっと両手を握りしめて目をつぶって、ほんとうに祈っているようだった。「祈り」というのは、こうやってやるのかと。ほんとうの祈りというものを初めて見たかもしれないと思った。
その男性は他の人たちが次々参拝しては去っていく中、一人で、5分以上はその姿勢のままでかたまっていた。目を奪われたし、胸に来るものがある。ほんとうに祈っている人というのは、傍目にもすぐにわかる。あんなにきれいなもの。

伊勢の「みたすの湯」露天風呂にて、大学生くらいの男が3人、謎かけをしあっている。お題は雨。
一番声のでかいやつが「ととのいました!」と、露天風呂にいる全員に聞こえそうな声で叫んだ。
「雨とかけまして、メンヘラとときます」
「その心は?」
「いずれやむでしょう」
「おー」
「すごい」
「いやあ、これ自信あったからでかい声出した」

「病む」を「止む」とかける。正反対の意味。それがいい。救いがある。ちょっと恥ずかしくなったけど。

風呂を出たら猛烈な雨が降っていた。

最高のアイデアが最悪のタイミングでやってきた。神よ…と思った。心から、自然に「神よ」という言葉が出てきた。神よ、なぜ昨日ではなく、今日なのですか?

人との関係ほど不可逆なものはないのかもしれないな。一度崩れたらエントロピーは増大する一方であり、考えてしまうのは過去に自分が発した言葉、態度のことで、あのときにああしておけばなにか変わっただろうかとか。しかし、いくら考えても原因はわからない。というか相手のせいにも、自分のせいにもしたくない、するべきではない。世界はそういうものではない。スピノザならこう言うだろう。すべては必然的におこるのであって、他のありようなどはいっさい存在しないのだと。あなたがその状況に陥った原因などは、誰にもわからない。ものごとは、気の遠くなるような数の必然の連鎖でできているから、その原因をまるごと理解することなどできない。わたしたち人間はただ、「結果」を知らされるのみ。自分自身の感情の原因すらわからないのだから。相手も同様に、自分の感情の原因などわからない。そもそも、わたしたちがものごとを考えることができているのは、思考の解像度が荒いからである。それが起こった真なる原因などわからないからこそ、それにまつわることを考えることができる、できてしまう。だから自分がこうやってあれこれ考えてしまうのは、解像度が荒いからなのだと、自分に説明することで感情を癒すしかない。「説明する」ことで、能動性を取り戻すしかない。説明することで、自分も相手も赦すこと。これがあなたには足りなかった。だから破裂させてしまった。ゆるしなさい。はい、ゆるします。わたしは、すべてをゆるします。もうひとつ、素晴らしい過去のことを、負の感情とともに思いだすこと、そういう類の考え方をシモーヌ・ヴェイユはこう糾弾する。それは、その輝かしい過去すらも葬り去っていることになる、と。あなたの大学の恩師は「記憶は過去にはない。現在にあるのだ。過去を思いおこすとき、それは現在なのだから」と言っていた。この考え方は故人を懐かしんだり、遠く離れた恋人のことを思うときには、救いになる。だけど今回のあなたのような、誰かとの関係が壊れてしまったケースでは危険かもしれない。なぜなら過去のことを思い起こすのをやめたとき、つまり「現在のことを考えている現在」に戻ってきたときに、過去から呼びだした記憶と、現在との落差にがっかりすることになってしまうから。この落差が堪えがたいのなら、過去は現在に呼び起こすべきではない。ではどうすればいのか。過去の出来事を、過去のものとしてそのまま大事にすること、これしかない。ものごとは現在にしか存在しないという覚悟を決めること。覚悟を決めさない。けっして比べないこと。自分と他人、過去と現在を、けっして比べないこと。そして、あらゆる瞬間のものごとに、永遠の相をみること。

悲しみの手綱を握れ 人間が向き合える数は限られている

今日から伊勢に滞在するのだけど、その前に一晩立ち寄った名古屋にて、デニーズで本を読んでたら、「みなさんもご存知の通り、在日外国人は日本が好きな人ばかりではありません。日本に住んでいる外国人の中にも、日本が嫌いな人がいるのです。そういう人たちが警察官になり、先生になることがありえるのです。その危険について皆さんに考えてほしいのです」というスピーチを大音量で垂れ流しつづけている車が外にいる。さっきからこのあたりをぐるぐると走り回っており、どうしても耳に入ってきてさいあくである。日本は人じゃないんだから。こういう、ヘイトスピーチとまではいえないものの、明らかに人々の心を疑心暗鬼の沼にはめていく、悪い言葉を規制する「考え方」はないだろうか。

しかしこのデニーズはさいこう。ベテラン店員のおばちゃんが、店内のあちこちにいる常連客とちらちら話している。同じ人間が、この場では客と店員に分かれているだけ、ということを思い出させてくれる。

岡崎乾二郎が入口から登場し、みんなの前で床に氷で「器」と描く夢

例の、大きな桜の木が突然根こそぎ切られた敷地で工事が始まっていたので、何が建つのかと思って気にしていたが、なんとマクドナルドだった。工事柵に掲示されていた。
街のみんなの木を切りたおしそうなやつのなかでは最大の、悪の帝王みたいなボスが、一番話の通じなさそうなやつが来た感がすごい。オチとしては面白いが。

0時50分
いま住んでいるアパートのことを未来に思い出すとしたら、二階の共用廊下から見える外灯の下に停まっている赤い車の後頭部かもしれない

10時22分
朝に「クラッツ焼きとうもろこし味」と「エムアンドエムズチョコクリスピー」を食べたらお腹を壊すということを学んだ

14時21分
電車の広告にウンコについての本があり、キャッチコピーが「ウンコいってきまーす!と言えない君へ」だった。
そういえば小学生のころか、我々のあいだではウンコをするということが何故かご法度とされる文化があり、男子トイレの個室はいつみてもドアは開きっぱなしで、閉まっているのをみつけたときには、だれかうんこしてるーー!と全員で騒ぎ出す始末だった。理不尽が過ぎる話だけどあの拘束力は非常につよくて、一度うんこを我慢しすぎて行方不明になってしまった子まで現れた。みんなで探していると、下駄箱のある東屋のすのこのうえにぽとぽとと、茶色いそれが足跡のように続いているのを誰かが発見し、たいへんな騒ぎになったのだ。のちに見つかった彼のことを攻める人はいなかった。彼が逃げ場のない生理現象と意地にはさまれて追い詰められていたことは、誰もが想像できたから。
いまもそんな文字通りクソみたいな風習が小学校に残っていないといいけど、もし残っているならば、「ウンコいってきまーす!と言えない君へ」というキャッチコピーには問題がある。ウンコ行ってきまーす!と言えないのは、その子のせいではなく、空気のせいだからである。それを個人の問題にすり替えてしまうのはよくない。

23時43分
夜道。交差点のお地蔵さんに、ご苦労さまですと頭を下げてみた

オペラシティアートギャラリーでライアン・ガンダー展を観た。
制作意欲もりもりに沸くほど面白かった。ふふっと笑ってしまう軽やかさとイギリスのアーティストっぽいひょうひょうとした感じもありつつ、作品の中に意外なほど直球なエモいテキストがあり、ぐっときてしまった。
曰く「…そこで私はあなた方に別の乾杯を贈りたい。観客の皆さん、時間を惜しむことなく、知性に意欲的な観客の皆さんに。共犯関係になり、複雑でいてくれる鑑賞者の皆さん、5秒の情報や未成熟なもの、センセーションや表層的なものを求めるのではなく、もっとそれ以上の、なにか深みのあるもの。不可解でまだ知らないものを求める鑑賞者の皆さんに乾杯を。アーティストの仕事を信じ、それに時間を費やし、エネルギーと好奇心を注いでこの壮大な方程式を完成させてくれる鑑賞者の皆さんに…」

そのあと下のパブでギネスのハーフパイントをキメてから渋谷へ。Bunkamuraザ・ミュージアムの「かこさとし展」。「宇宙進化地球生命変遷放散総合図譜」が目当てだったのだけど、かこさとしの膨大な仕事量にまず圧倒される。好奇心と熱量。この宇宙、地球、命、社会、芸術もろもろ全ての世界をまるごと理屈で捉えて、絵本で紹介してやろうという熱量。気の遠くなる話だけど、やってのけている。
そして最後に「宇宙進化地球生命変遷放散総合図譜」を観た時は鳥肌が止まらず、目が潤んだ。スピノザの直観知や熊楠の曼荼羅のことを思った。ビッグバンから始まり、動物だけでなく植物までも網羅した進化の樹形図。その年表にはところどころに「太平洋戦争」や「明治維新」などの歴史上の出来事も書かれていて、しかしそれとは無関係に進化している膨大な数の生物のイラスト。人間という存在を惑星のスケールで描こうとしているよう。

彼女が上司と一緒に夢に出てきた。ふたりとも僕の車に乗り、海沿いの崖のようなところでUターンをした。場面は電車にうつり、知り合ったばかりの二人の若い人もいて、その二人とわかれたあとに、彼女のインスタグラムのフォロー数が二人増えている、という細かすぎる発見をしたところで目が覚めた。

桃うますぎ事件が勃発した

アトリエにて、外からアブラゼミの悲鳴(じーじーじじじじ…という、あの通常の鳴き方ではなく、鳥につかまったり、人間につかまったりしたときに出す、びびびびーーびびびーーという叫び声)がずーっと聞こえているので様子を見に行ったら、ぼくの部屋の窓格子でアブラゼミの二倍はありそうな体長のカマキリにまさに捕食されている最中だった。
カマキリはセミの羽の根元を両腕でぐっとつかんだまま、首元のあたりに噛み付いている。セミは時々びーびーーと叫びながら羽をばたばたさせているが、カマキリの上半身がすこしゆすられる程度で、逃げられそうにない。そんな生きたままのセミを、カマキリは首を動かして咀嚼している。
珍しいもんみたなあと嬉しくなって写真をとり、部屋に戻ってもしばらくはびーびーという蝉の断末魔がときどき聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなり、羽をばたつかせるぱたぱたという音だけになり、ついにさきほどその音も聞こえなくなった。

昼を食べに、アトリエを出て駅の方まで行ってみたけど、歩いてる人たちの表情や歩き方から、いまがお盆休みであることがびんびん伝わってきて、こちらにも何かが感染ってきそうだった。帰省中の人ってのは、歩き方でわかるものだ。
目当てのパン屋さんがお盆休みでしまっていたので、スーパーで何か買おうと野菜売り場をうろうろしていると、「198円!」という男の声。ベビーカーを押している女に向かって、人参がたくさん入っている袋を見せている。
女は「そんなにたくさん、いらないよ」と笑ったあとで、「安いの?」と値段を聞いた。男はもう一度「198円!」とさっきと同じ調子で答えた。女はコンマ数秒考えてから、「ラペつくっても食べないよね?」と言った。
この女の機転のきかせかた、男のちょっと馬鹿っぽいかんじ、そして、過去にラペに関して何かイベントがあったんだろうという二人の歴史が想像できて、ぐっときつつも、ぼくはなんとなくぎょっとしてしまった。自分の妻からこの台詞を言われたら、ちょっと傷ついてしまうかもしれないと思った。僕はラペは好きだから、まったくおなじ台詞は言われないと思うけど、なんらかの「好き好んで食べるわけではない料理」の名前のあとに、「つくっても食べないよね?」と言われたら、あまのじゃくなので、「いや、食べるし!」と思ってしまうのと同時に、そのセリフに潜んでいるなんらかの攻撃性を勝手に察知してしまって、ぐさっときてしまうかもしれない。
でもこれを言われた男はまったくもって平気そうにしている。夫婦の日常会話のひとつという感じ。とうぜん女の方も嫌がらせをしたくて言ったわけではないということは、その言い方でわかりすぎるほどにわかる。男は「つくってもたべないよね」という質問には答えずに、「(にんじんが)たくさんとれたんだろうね」と、ちょっと面白いことを言った。

「珈琲タイムズ」でパソコン仕事をしてたら、見知らぬ青年から「すいません、今泉監督ですか?」と声をかけられた。なにか気の利いた返しをしたいところだったけれど、唐突すぎて反応できず、ふつうに「違います」と答えてしまった。青年は「あ、違いました…」と苦笑いで去っていった。「猫は逃げた、僕も観ましたよ」と話を広げてもよかったなあ。

荒川修作+マドリン・ギンズの『建築する身体』を久しぶりに開いてみて、昔はまったく読めなかったけど、いまはすこし読めるようになったなと、嬉しくなった。「『有機体-人間』を場所として考える」というフレーズとか、とても興味深い。この齢になったからそう思えるんだろう。いまでもまったく意味はわからないけど、すこしずつ近づいているような気がする。

荒川修作の「言葉」についての言及。言葉は「現実から1%も真実なんかない」という発言。ここから汲み取るべきもの。もし言葉に現実的な真実など1%もないのであれば、だからこそ言葉を使うことに意味があるという一歩が踏み出せるのではないか。

先日ボルタンスキーの「最後の教室」を見た経験が出汁のように、ずうっと体にしみわたっている。芸術を諦めない。一見頼りなくみえるこの力を信じる。

なりゆきで近所のイトーヨーカドーに10時開店と同時に飛び込み、サービスカウンターでタバコを買ったとき「ちなみに店内に喫煙所ってありますか?」と店員のおばちゃんに聞いたら「それがないんですよお、すいませんねえ、タバコ売ってるのにねえ、全部禁煙になっちゃって…」と申し訳なさそうに笑っていた。正しい…正しい感覚だ…そうだよね、そう考えるべきだよね、おれ間違ってないよねと、ぐっと握手したい気持ちに。

歩道にいる踏まれそう虫をつかんではこつこつと草むらに投げ入れる日々

最も重要で、制作論としても考えても面白い概念

●純粋経験
「風がざわざわいえばざわざわが直覚の事実である。風がということもない。事実には主語も客語もない」
風で木がざわざわしているのを見た時、そこにはただ「ざわざわ」だけがある。私が、とか、木が、とか、風が、とか、主体と客体の区別はなく「ざわざわ」だけがある。さらに言えば
「花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。」
このような経験の"後"に、主客がわかれるのである。経験の段階では、主客はわかれない。
これはデカルトへの批判でもある。「コギト」には「私」が他から切り離された存在であるという前提がある。ものが先行してある感じ。砕いて言えば「名詞族」である。対して西田はいわば「動詞族」で、これは「万物は流転する」「同じ川には入れない」などの言葉で知られる、イオニア自然哲学のからの影響がある。矛盾を孕んだ自然という全体を考えるという冒険。
・鴨長明も方丈記で似たようなことを言っていた。
・アリストテレスのカテゴリー論を参考にしつつ、「ものが存在するとはどういうことか」を考えていく。
「りんご(という特殊)」は「果物(という一般のなかにあるもの)」である。「果物」は「植物」である。「植物」は「生物」である、というふうに、何かは何かを包んでいるし、同時に何かにつつまれている。存在するとは、そのような、包み包まれる「場所がある」ということである。そのような場所がないものは、存在しない。
しかし、この「一般」という概念をどんどん遡っていった最後のものには、それを包む「一般」がない。例えば「生物は存在である」→「存在は〇〇である」の〇〇を考えるのは難しい。
しかし、先ほどは「場所がなければ存在しない」と言った。では、それは存在しないのか?そうではない。
「最高の一般概念は何処までも一般的なるものでなければならぬ。如何なる意味に於ても特殊なる内容を超えたものでなければならぬ。・・・。すべての特殊なる内容を超えた物は無に等しき有でなければならぬ。真に一般的なるものは有無を超越し而も之を内に包むもの、即ち自己自身の中に矛盾を含むものでなければならぬ。」
(この「無に等しき有」という概念を、荒川修作が「死なない」と言ったことに絡めて考えたら面白いのではないか?)

韓国で、やたらでかい段ボール箱に入っているものや、棚に並んでいるものたちが持っていかれないように監視するバイトをする夢。バイト仲間はほかにもたくさんいた。ぼくは、なぜこんな大事なものを野ざらしに置いておくのか、と人に聞いたが、理由はわからなかった。
そのうち中学の同級生の「山ちゃん」が出てきて、この春に結婚したんだという報告をしてくれた。僕は、今でも山ちゃんとサッカーをしている夢を年に一度くらい見るよ、と伝えた。ああ、見るよね。と山ちゃんは言ってくれた。山ちゃんの結婚相手もそこにいて、誰かがその二人にアップルパイかなにかの写真を見せたら、二人はなぜか泣き出した。

「iモード」の時代のころは、受信者側が受信ボタンを押さないとメールは届けられなかったのに、いつの間にか、送信者が送信したら、受信者側にすぐ通知がくるようになった。
つまり「送信者側の都合」に合わせるようになった。これはかなり大きな転換なのではないか?このことは人々の心に、後戻りできないほどの「傷」を与えてしまったのではないか?

「締切」は、あったほうがいい。締切がないというのは、愛ではないのではないか?