移住を生活するを長くやっていたせいで、いつもなにかに追われているようなメンタリティが染み付いてしまった。

現状が最高!とか言うと怒られる風潮

金沢に夜行バス往復弾丸ツアーで、「オオニシ・ザ・ファイヤーパンク」のライブを観に行ってきた。八時間かけて行ったのだが、ライブは10分弱で終了した。その後学生たちが飲み会を設けてくれたのだけど、その時上原くんが話してくれた、いずれは参謀本部を作って壁に肖像画を掛けたり、文人を招きたいという夢、めちゃくちゃ良かった。この世界には「参謀本部」が足りないのではないかと思えた。僕も彼を倣って、自分のアトリエを参謀本部と呼ぶことにする。
金沢21世紀美術館にも行ってきた。観光客の女性たちはみんなベージュのコートを着ていた。全国各地のベージュのコートが21美に集結していた。

JTの人からもらった「ploomTECH +with」を時々吸っているのだけど、なかなかにアバンギャルドな商品だ。「IQOS」や「ploom X」は、紙タバコの「一本が終わるまで吸う」という吸い方を踏襲していた。これではまだ紙タバコという概念の亜種でしかなく、電子タバコであることにユニークではない。その点「ploomTECH +with」は、喫煙者の喫煙習慣そのものを根源的に変えようとしている。匂いが全くなく、同席している非喫煙者のストレスも、喫煙者側が感じる申し訳なさもない。一個のカートリッジをひと吸いで一旦中断し、15分後にまた少し吸ってもいいし、10分以上吸い続けることもできる。生活を変えるプロダクト。習慣は人間を変えるが、その習慣そのものを作りに来ている。CDが主流だったころにアルバム単位で聞いていた音楽を、サブスクで曲単位に聞くようになった感覚に近い。

1128
日曜日。金沢21美。コレクション展を観たのだけど、あの観客層の中で石田尚志の映像作品を見ると、ただの合成映像にみえてしまうという衝撃。

1308
鈴木大拙館も行った。受付のおじさんが若干高圧的で、ものすごく苦手な感じ。建築をまわったり館内で大拙の本を少し読んでみたりしたが、出る時もそのおじさんの前を通るので、その苦手な印象だけが残る。声が無理だ。

1429
インスタグラムは場所に、ツイッターは人に向いているかもしれない。

1710
もう何年も、リチャード・ディーコンだと思っていた金沢駅前のパブリック・アートの作者が全然知らない人だった。

久々に夜行バスに乗った。最初にスピーカーからの音声、しかも高音質でBGM付きで注意事項が説明される。なんか、スペクタクル。「遠慮いただきたい項目」の中に「他のお客様のシートを起こすこと」という今まで聞いたことがないものが含まれている。過去に同系列のバスでなにかあったのだろう。他のお客様のシートを起こすことはご遠慮ください。なんか、うける。マスクも、いつもしとけと言われる。放送終わったら、乗務員さんがマイクで「ご清聴ありがとうございます」と言ってくれる。

渾身の1500字を書き終えた。三日以上かかった。

「わしがイッチの唄」は何故か涙腺が刺激される

幼い頃、父親といっしょに風呂に入っているとき、頭は爪を立てて洗うんじゃないと言われた。頭を洗うたびによぎる記憶。今ではすっかり指の腹で洗えるようになったが、当時はそれをすると髪の毛との摩擦で指が痛くて、あまり長い時間ゴシゴシできなかった。父親は僕のそんな気持ちなどわからない様子で、ゴシゴシと洗っていて、大人ってすげえなと思った。きっと指が柔らかかったから、できなかったのだろう。そう教えてほしかったけど、でも教えられなかったからこそ、なぜ自分にはできず父にはできたのだろうという疑問が今の今まで残りつづけているのかもしれない

札幌で感じたロシアへの恐怖が影響しているのか、何か店のようなところで、緑色の水のような生物兵器を落とされ、それを被った。近くの人に聞いたら、緑色の水なら、短時間で死ぬ。もう洗っても遅いと言われたが、私は自販機を探して水を買い、顔を洗う夢。

書き手の切実さは読み手を黙らせる。どんなに拙い文であっても

吉祥寺シアター前で「ベンチのためのプレイリスト」を少し聞いてきた。犬飼勝哉さんのやつ(回、と書きそうになる。一般的な上演ならそれで問題ないが、これは電話なので少し違う気がする)笑った。慣れない黒電話のダイヤルを回して、一番最初に聞いたのがよかったのかもしれない。間違い電話したらどうしようという緊張感のなかで、受話器から「モシモシ」と低い男の声が聞こえて戦慄し、そのまま引き込まれた。

もしお前が、他人の存在を蔑ろにし、筋を通すことを忘るような人間に変わってしまったのなら、コロナ禍のうちに、あそこに行ってきたほうがいい。つまり「『あそこ』
に行って、忘れたものを思い出して帰ってきなさい」というようなニュアンスのことを、古い実家のベランダと、両親がだいだらぼっちを見た部屋にまたがって、おばさんに言われる夢。おばさんは人というよりも、なにか影のように黒い存在で、目元だけが白く、とても怖い言い方だった。

金沢のイヴ・クラインはなにがあっても、霊体になっても心で見に行きたい。イヴ・クラインのおかげで、死ぬ怖さが少し軽減される感じがある。

・末法思想。ブッダの教えの薄まりを表すもの。現在は末法時代。
・アートは、ウクライナで起こっているああいうものとは対局にあるものなのだ、と語気を強めていたので、具体的にどういうところがそうであると考えていますかというニュアンスの質問をしたところ、ベトナム戦争の反戦ポスターで最終的に選ばれたのは「No War」などのメッセージが描かれたものではなく、モネの睡蓮の絵だった、という話をしてくれた。
・フランスにある役場の壁に刻まれている言葉
「地獄がどんなところか知りたければ、アーティストに問いなさい。近くにアーティストがいないのなら、そこが地獄である」

現美の吉阪隆正展の内覧会にTOO MUCH MAGAZINEの辻村さんが誘ってくれ、行ってきた。吉阪が早稲田建築で教務補助の仕事についたのが1941年、松澤宥が早稲田建築を卒業したのが46年。昨日見たばかりの松澤との繋がりの可能性。おいおいまじか、と年表見ながら思ったが吉阪は42年に今和次郎の後を継いで日本女子大学住居学科の講師になったという記述があるので、被ってはいないか。
世界平和を実現するために、というニュアンスのテキストが散見される。幼少期のスイスで、第一次大戦後の平和教育を受けた影響らしい。国境のない地図を描いたという。63歳で亡くなった。

ブラックベリーのヘッドフォンの振動機能、あれだ、絵画と彫刻を並べてみたときの違和感に似ている。ミケル・バルセロ展でみた、絵画の中に立体物が埋め込まれている作品の、立体物の物質感がだけが浮いて見える感じ。絵画のイリュージョンが解かれ、目の前のものがただの物体に過ぎないと感じられるときの、興が醒める感じ。ヘッドフォンの人為的な振動は、バスの音に合わせてはいるけど、どうしても音楽から浮いている。この世界に実在するもの、という感じが強く、音楽というイリュージョンからは離れている。

寒くて、現美の帰り道、バーミヤンで熱を補給した。ラーメンとハッピーアワービール200円を二杯。

現美に行く途中、制服の青年が自転車を倒していた。参考書が十何冊もつまった薄いビニール袋をハンドルにぶらさげ身動きが取れずにいる。大丈夫ですかと声をかけて自転車を抑えると彼はありがとうございます大丈夫ですといって自転車を持ち直したのだが。ビニールの取手がやぶれて参考書ごと下に落ちる。一瞬、沈黙。それからもう一度大丈夫ですかと笑いかけると彼は、一度学校戻ります…と言った。気をつけて、とハンドルを彼に返した。今日はとても寒いが、もう春だと思った

高松次郎「世界拡大計画へのスケッチ」

空間にも時間にも、無限大の数にのぼる軸があるように思われる。二つの異なった空間を並置した場合、そこで互いに衝突する方向に進んでいる二つの物体は、絶対に衝突しない。時間にも、本来離れた物体の間に同一の時刻などというものはない。(離れたところにいて、決して会うことも、コミュニケーションすることもない二人の人間が、ある特定の同一の事物を意識したとしても、二人にとってのその事物は、何らの関係をも持たない。)

(1967・7・1)

意識はチューブのような形をした器である。それは何ものをもそこにとどめるすべを知らないし、またその必要性をも知らない。

(1968・8・5)

相手の武器で戦うこと。望みもしないで生れてきたといわれている人間がすべての事でそうしているように。

(1968・8・27)

人間には、厚みも巾もない点のような、「現在」は存在しない。もしあるとしたら、音楽の演奏中に、音をバラバラに分解して聞くこともできるだろうし、映画を見ながら、フィルムのカットを一つ一つ見ることができるだろう。

(1968・9・27)

高松次郎「“不在体”のために」

若いビジネスマンのAは終業時刻が近づくにつれてビジネスは求心性の焦点からはずれていき、ベルが鳴り、駅に急ぎ、電車に飛び乗って吊り革に手をかけるがそのときの彼には数十分後に会うはずの恋人の笑顔がすべてなのだから、刻々進行しているそれらの現在としての時間はあくまでも仮の手段としてのものに過ぎず、デパートの包装紙のように無価値ですぐにクズ籠の中に捨ててしまうべきものだと思っているであろうが恋人に会い、微笑を交わし、歩き出すころには、彼は早く食事を取り、次に映画を見ることでいっぱいなので、彼の<完璧な現在>としての時間は、数分後、数十分後のレストランや映画館の中にあるという具合に”内時間的未来”が現在を追払い、すべてのしぐさ、すべてのものごとが投げ捨てられていき、それから二人に最高の歓喜がもたらされたとしても事情は同じであって、そこに於ける瞬間が<現在>として完璧であることはなく、ものごとのガラクタ地帯の砂嵐が容赦せずバラ色の愛の密室にも入り込んできて二人の肌をザラつかせ、そしてその感触を追い払うことでそこでもまた<現在>を追い払ってしまうが、だからといってカラッポになるのはバラ色の密室であって、彼自身なのではなく、彼はまたさまざまなものごとを吸い込み、排出してはまた吸い込みながら、しばらくすると必ずや数時間前に彼が不毛を感じながら彼の求心性から遠ざかっていたビジネスもまた或る程度の輝きをみせながらもどって来て、再び彼の焦点に近づいていき、自分がビジネスに熱心な人間であることを意識しながらそのことに集中し、また明日の会社のことを考えるという具合に一つの旋回がその輪をとじる訳だが、結局Aの恋の一夜はネジの一ピッチであることをしか明らかにせず、いったいそのリング上に何があったかといえば刻々”現在性”のものごとのガラクタ性を追い払いながら、何ものかに向かって進むその速度だけであって、ものごと的エッセンスとしての”素粒子”は決してものごとそれ自身であることはなく、それは分裂の極限であるがいつも<現在性>のものごとの中をすり抜けていき、あやつるのは詐欺師だけで、我々をとらえ、ひきつけ、かり立て、ガラクタ置場の厖大な倦怠から救ってくれるのは決してものごと自身ではなく、ものごとが発している放射線的エネルギーであり、それは、現在としての時間をすり抜けるという意味で非空間的なものであり、また時間の流れの中でとらえようとすると、いつも無限の前方に輝いているだけでとうてい触れえるしろものではないような非時間的なものであって、自己の内側に向って、つまり反省的に考えるならばそれは<期待>とか<不安>という状態の原因であり対象である未来性、非固定性、不可逆性の原点としての未決定の存在、つまり蓋然性そのもの、例えば不可解な事件の迷宮性その浮標がいままさにピクピク動き出した釣り糸の見えない先端、届いていまだ開けられていない小包、電話のベルの次の瞬間の耳もとの音声、未知な自然のさまざまな空間、いろいろなスポーツの賭の勝敗、といったものである。

(二行目)

上り藤の家紋がそば猪口、薬味の小皿、そばつゆ入れ全てに入っている藤木庵。天せいろそば、海老、ハタハタ、烏賊紫蘇巻き三種盛り

高速バスの休憩サービスエリアでベンチに座って音楽を聴く時間よい

NYタイムズのツイッターに投稿された今日の地震のニュースのリプライに
If we survive the 2020s it’ll be a miracle at this rate.
Hope everyone is ok.
というものがあり、心に刺さった

怪獣のゆくえ、という映画を観る夢。主演は芦田愛菜。なんかめちゃくちゃだったが盛りだくさんで楽しかった。小学生の娘の卒業式を、昔カタギの漁師?の父親がサプライズで祝う。高さ10メートルはありそうな、大きな陸橋の骨組みみたいな古くから伝わる神輿のようなものを、仲間とともに卒業式のために引っ張り出し、学校?に向かう。この神輿?はもうボロボロだからな、これで壊れるだろう。これが最後になるな。と。謎のナレーションが入りながら、神輿は山を下っていく。
そして映画が始まり、芦田愛菜がみんなからお祝いをされる。が、神輿はいつの間にかゴジラのようなものにかわっており、それを担いだお父さんたちはそのことを秘密にして、映画に参加?している。音楽が多用されるポップで派手な映画だった。劇場はめちゃくちゃ広く、映画というよりも野球場で演劇を見ている感じに近い。芦田愛菜が、なにか怪獣のような姿をして袖から出てくるはずが、そこに投影されているはずのcgが投影されておらず、出てきたのはただの芦田愛菜。行進が終わったところで、スタッフらしき声で、芦田愛菜にわびの言葉。観客はこの結末をわかっており、ドッキリだと知っている。芦田愛菜、放尿しながら退場。放尿には、そりゃあそうなるよな、と納得の理由があったが、忘れた。その鮮やかな青色のおしっこを飲む男の子がいる。観客から、すげえ…というどよめき。芦田愛菜は軽蔑の目で彼を見ている。僕はそれを目の前で鑑賞している。芦田愛菜が袖に引っ込み、ゴジラのテーマ曲が流れ始める。しかしお父さんが担いできているはずのゴジラがなかなか現れない。映画の舞台は宇宙に変わっており、観客が手元の小道具を使って襲ってくる宇宙船を撃ち落とすアトラクションになっていた。なんかまとまりのない映画だなと思い始めたところで、目が冷める。

その映画の前に、すべり台の上で文庫本を読む夢も見た。小説だった。

朝が本を読むのに向いていない理由は、書かれた文言に新しい頭が刺激されて、色々なことを思い出したり考えたりしてしまって意識がどこかに飛んでしまい、本の内容が入りにくいからだと思われる。いかに静かで暗い一人の部屋で、手元だけ照らすライトがあり、集中できそうな環境でも、朝は意識がどんどん飛んでしまう。夜は頭が疲れているので、目の前の内容を頭に入れるくらいしかできなくなっている。