昨日午前中に二回目のファイザーワクチンを打って、昨日はびびりつつ熱なんかはでなかったので、今日は普通にアトリエで書き物をやっていたのだけど、なんだか体がいつもと違う。熱はなさそうだ。だけどインフルエンザなんかの症状に近い感じで、体が重たくて、頭の命令が四肢に伝わるのが遅いような気がして、多分いま走ってもいつもよりだいぶ遅いと思うのだけど、そのくせ神経が過敏になっている。いま腕をぶつけたらいつも以上に痛く感じそうな、神経質になっているような感じ。でもこの感じは嫌いじゃない、とも思う。

子供のころインフルエンザで寝込んだ時は天井がパズルみたいにガチャガチャと動いていた

ワクチン打ったあと、休むと決めて家で鍋を作って食べたりするのにふさわしい、良い天気だ。

亀山城址公園のあたり、なんの鳥がわからんがお堀の向こうの森から鳥の声が絶え間なく聞こえてきて、えでぃまあこんの麻雀砂漠を聴いて歩いていた。

空は淡い青で晴れていて薄い雲がゆっくり流れていて、左からはこれまた絶えず車の音が聞こえていて、黄色と緑のグラデーションのイチョウの並木を歩いていたとき、MONOのeverlasting lightという曲について、メロディーラインの演奏を聴衆の脳内に託しているということに気がついた。つまり、それまで繰り返し聞かされてきたギターのメロディーラインは途中から鳴らなくなり、ノイズの中に消えていくのだけど、その轟音の中であのメロディーが聞こえてくる。鳴っていないのに。それまでずっと聞かされてきたから、頭の中でまだそれが流れていて、その伴奏として現実に鳴っている音が耳から入ってくる。音楽ではこんなこともできるのか。それで、いま、また此岸にもどってきた。と思った。世界を情報ではなくて、物質や材料。マテリアルとして眺めることができる瞬間。たぶん芸術はこのことと関係がある。有用性に埋没しない、世界から大地へ移行する瞬間。
紅葉のグラデーションはきれいだ。あれは葉緑素が壊れて色が変わるから、葉が死んでいく色なんだろうけど、循環を感じるから

そして雪虫が大量に飛んでいる

鴨川沿いを湯川潮音を聞きながら歩いていて、七条のあたりで橋を渡ったとき、晴れていてとても暖かくて、本当にきれいな街だ「この景色のためなにかしてあげたいな」と思った。川面は凪いでいてビニールの床みたいで、浅瀬にサギが立っていて、鴨が岩の上で休んでいた。雑草、河川敷の一年草が枯れていたり新緑だったりして、地面がカラフル。紅葉は梢の上の方が紅くなっていて、徐々にグラデーションで幹に近い葉はまだ緑。雀が桜の木に4羽、枝から枝へ飛び移っていて、それを見た時急に鳥肌が立って、泣けてしまった。時間が溶けていくようで、気持ちも久々に穏やかで、いま自分は「此岸」に戻ってきたと思った。つまり、いま僕はここにいると思えた。

寿司は、大将が亡くなるまではそれを差し置いて自分の店を出すことはできない。それに、地黒だから寿司は向いてないと言われた。と聞いた

人に酒を奢ってもらった和食屋の席

うまくいかないことがあってもいいんじゃない?

と言われたこと

京都には、鴨川のおかげで影の部分というか、設計されてないところがあってそれが良い。橋柱の裏とか、河原から道路に上がる坂の、坂を上がらずに脇に入ると歩けるけど人が来るようには設計されてないところとか、それがよい。僕はそういうところに入って行きたくなっちゃうけど、例えば橋の下の水が来ていない砂地とかに一人で川面を見たりしていると。ひとからあやしまれたりするかも、と感じてしまう。そういう場所が必要だとか思ってるのって実はものすごく少数なんじゃないかと思うと、そういうことを人前で書いたり行ったりすること自体が馬鹿らしくなったりもする
GP80とか0.7とか、両側に矢印がある線とか、東九条の道歩いてたら書いてあって、なんだこれ

自分だけの感情。独り占めの感覚。棚に並べたもの。自分のルールで並べた、自分にしか価値のないもの、誰にも共有しない、自分だけの足跡。人には知らせる必要のないもの。書く必要のないもの。伝える必要のないもの。自分だけのおとぎ話。自分で生み出し、自分だけが語り継ぐもの。書く必要がないから書ける。書かれないもの。書かない。なにも書かない。表現しない。伝えない。シェアしない。作らない。つくる必要がないという救い。作らなくてもいいという救い。
長く忘れ去られていた話。湧いてくるが、書かない。読んだ本のことも、面白かった映画や演劇のことも、仕事の帰り道に虹を見たことも、日曜の夕方ふいに窓から富士山が見えたことも、家の前で五百円玉を拾ったことも書かない。
意味から逃れる。その入り口は棚にある。棚を見れば思い出せる。あの昼下がりの公園の光、夜の川面。わたしは書かない。誰にも伝えない。
いつのものかわからない水筒、ふるいどこかの塩ビの雨樋の一部。ホース、ブリキの小さなバケツ、なにかの木片、もう出ないスプレーとほとんど芯になったテープとなんの一部かわから金属の部品が詰まったコンテナ、なにかのときに使ったブルーシートの切れ端。茶色くシミのついた雑巾、いくつかの新品のコンクリートブロック、もう使えないであろう灯油缶、波板の余り、何が入っているか忘れた一斗缶。頭から意識を引き剥がし、自分の脈を確認しろ。手首に親指をあてて、自分の心拍を感じろ

阿佐ヶ谷スパイダース「老いと建築」
今和次郎とか清原さんの「わたしたちの家」とか映画「ファーザー」とか、荒川修作とか、谷崎潤一郎とか保坂和志とかイタロ・カルヴィーノとか、あと過去のレジデンスの家、金石とか珠洲の家のこととか思い出した傑作だった。これは傑作ではないか。

落ち葉がチャイナ・タウンみたいだった

紅櫻公園にて45リットル袋で18袋と70リットル袋で10袋集めた。佐野さんと

 

開いていた本にトンボがとまった

布団の上でエコノミー症候群になりそう

今回の「移住生活の交易場」は、「拾ったものを交換するショップ」と、「Tシャツとか本当かの一般的なグッズを売っている」店が隣り合っているのが大事なんだろう。なぜ落ち葉は1700円で売ってはダメで、トートバッグは1000円で売っても違和感がないのか。

音楽がなければ僕は何を作ればいいかも、何を書けばいいかもわからなかったと思う

レストランというか大きなバーみたいな店でバイト初日が一緒になった女の人が友達に似ていて、僕が「友達にすごく似てる」と言ったら彼女も「君も友達に似てる」と言った。木の下で。
掃除しろと言われたが何すればいいかわからなくなっていて、店長は電話をしていて、僕は女の人に外で「友達になろう」と、まるで愛の告白みたいに言ったのだが、こちらを見つめる彼女は思っていたよりも歳をとっていて、しかもそれまで気が付かなかったのだが、両目の間には3個目の小さな目があって、左右の目と一緒にまばたきをしている。
店長が電話をやめ、バイトの人たちが指示を仰いでくれと一斉に近づいていくのを見守りながら目が覚める

1007:3503字

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喫茶店で窓ガラスにとまった羽虫を、隣のテーブルに座っていたおばちゃんが靴でバンと潰した。素早く、迷いなく。ぶよ、刺されたら危ないから。よくさされるのよ。と言う。しかしそれはブヨではない。それは無害な羽虫だ。

三鷹駅でやった「看板図書館」で僕と話し、紙コップの裏に書いた電話番号までもらったという人に珠洲で会った。その人は、僕が参加した年の瀬戸内国際芸術祭にも行ったらしい。僕が鍋をやっている会期ではなかったけど、三鷹で、僕から小豆島の話を聞いたと言ってた。僕は何も覚えていない。僕という球体は、自分で思っているよりもずっとずっと大きいものかもしれない。

8人で池に立つ波紋をただ眺めて過ごした時間を思い出す

みんなで会社を辞める必要はない。ただ転出届を出せばいい。そして転入届を出さなければいい。そうすれば何かが変わるんじゃないか。

驚くべきことに、車の中でも間取りが生まれる。運転席が書斎、仕事部屋。後ろが寝室、居間、食卓。

四人ほどの若者たちが僕の展示を見て、ショップ前で立ち止まり、そのなかの女性一人が僕の「移住を生活する」を手に取ってパラパラとめくりながら「すごお、村上さんの日記。うわあ・・・何者なんだろう。京大生をこじらせたらこうなりそうな気もしますけどね」と言い残して去っていった。

拾った物を交換するショップ、高いという人がほとんどだが(たっか!これが1750円!)(ていうか、これみて!これ1317円!)(これのどこに2000円の価値があるん?)、ひとりだけ、これはやすいですよー!と言って買っていった。その人は、普段からコマーシャルギャラリーに通い、作品を買ったこともある人だった。

面白いという人も多い。芸術祭に来るだけある。

2ミリほどの赤と黒の虫。髪の毛よりも細い一本一本の足は体の倍くらいの長さ。綿のシャツの繊維に左のいちばんうしろの足を取られて身動きができないらしい。そこから動けない。本の2ページほどを重ねて、虫の体の服の間に入れて、取られた足以外の五本を紙の上に乗せ、踏ん張る足場を用意する。虫との共同作業だ。いま、共同作業をしているということが、よくわかった。彼も紙の上で踏ん張り、僕はその紙が動かないように注意して掴んでいる。そして、足は服の繊維からではなく、虫の胴体から取れた。虫には、ぷち、と言う音が聞こえてそうだが、僕には聞こえなかった。足が5本になった虫は、本のページの上を、ごく普通に。最初から足は5本ですよと言わんばかりに歩いている。僕は紙を少し折り、紙を、僕が座っている木のベンチの脚に当て、本からそちらへ移動するように誘導する。虫はそのとおりに動いてくれた。僕の服の胸のところには、それがそこにあると思ってみなければ見落としてしまうような、細くて小さな黒い彼の左足が残っている。

自分が作ったものや参加したイベントをSNSなどで素直に宣伝することがどうしてもできない