朝8時に家を出て、駅には寄らずにアトリエへ。南瓜の雌花がまたひとつ咲いていたので人工授粉を施す。1時間ほど昨日の文を直して、食パンとウインナーと庭で取れたトマトほうれん草の炒め物のごはんを食べ、14時前まで書く。5900字。それから石坂製麺にでかけ、細うどん500グラムと生ラーメン3玉と味噌スープの素3袋とめんつゆ1本を買ってきて、味噌ラーメンに生キャベツと豚バラを炒めてのせたラーメンの昼ごはん。オオゼキで買ったこの生キャベツはうまい。それから金沢の展示制作作業。歩行ルートの制作。途中缶ビールを一本持って神代団地の方まで散歩。夜セブンイレブンで白くまを買ってきて食べる。23時40分くらいまで。イラレのアクションの調子が悪い。

ミシマガジン第7回が更新された。群像の上田岳弘さんの「悪口」もよかった。

昨日読んだ群像のいしいしんじさんの「息のかたち」面白かった。

朝8時に起きて、家を出て駅中のパン屋で食パンとドーナツとマンゴーアップルジュースを買い、通勤通学する人たちとすれ違いながら9時過ぎにはアトリエにいた。植物の様子をすこしみてから、机に座って突然思いたった文を書き始める。途中パンとウインナーのご飯を挟んで15時まで。4000字。石坂製麺の味噌ラーメンに生キャベツの昼食を挟んで1550分から金沢の展示のための制作作業。夜は冷凍ガパオライスを解凍して23時過ぎまで。

7月とは思えないほど涼しい。手嶌葵の曲をイヤフォンで聴きながらアトリエに着いて母屋の方の鍵を開けたとき、唐突に「もしかしたら今なら知らない場所として感じられるかもしれない」という予感がした。本当になんの脈絡もなく突然そう思った。そこでアトリエの大部屋のほうに、特に用もなかったのだけど入ってみた。そうしたらやっぱり知らない場所になっていた。

0時。泥だらけの茶色い作業着を着て、黒い長靴に黒いリュックを背負った、大柄で優しそうなにいちゃんが、セブンイレブンで微糖と書かれた缶コーヒー2本とサラダパスタを持ってレジに並び、加えてレジでビッグアメリカンドッグをひとつ買い、外にでて自分の自転車の前に立ち、ビッグアメリカンドッグにマスタードとケチャップが一緒に出るソースをかけ、それをくわえながら自転車に乗って、おそらく道路工事の職場に向かって行く

ピータードイグ良かった。赤いボートの絵など90年代ごろのやつが最高だった。そしてコレクション展のスミッソンのスパイラルジェッティの映像も良かった。参考になるかもしれない。

 

自分の中に居座って場所を取る者ども。悲しみとか怒りとか嫉妬とか呼び方はなんでもいいのだけど、そういうものを邪魔でも居座らせ、必要な時に抽象化して表現に落とす。計算して正確に表す。そのためには、なんというか「そういうものを反転させて手に入れた理性」に変える。人と接する時も、その者どもをむしろ「優しさ」みたいな、プラスのエネルギーに抽象化する。この過程は「反転」よりも「抽象化」と言った方が近い気がする。溜め込みすぎないようにするためには泣く。

なにかの結果を求めてなにかをやった結果全く的外れな事態になってしまい、後から考えるとなんでこれをこうしたらこうなると思っていたのか全然わからないようなこと

空港の登場待合室。マスクをしてないと「お客様失礼します、マスクはお持ちですか?」とスタッフに言われる。機内でもマスクをし続けないといけないし、必ず1席間隔を開けて客が座っている。

最初にまず状況がある。それから関係が生まれ、目的がうまれ、そこに至る過程を経る。最後にくるのは、目的ではなくて過程だ。なんだか泣きそうだ。

食べた後に植えたかぼちゃの種から芽が出まくっている。まさか食べた後の野菜の種から芽が出てくるとは、とけっこうな衝撃だったのだけど、これは狩猟採集民による最初の食料生産がはじまったときと同じ種類の衝撃。つまりこれまでは狩猟採集生活に近い形で生きていたという発見の衝撃。

ラジオのCMとかネットの広告とかで感染拡大を防ぐために家に居ろと言われ続けているが、そのたびにどこかにいきたいと思うし、それは日に日に強くなっているのだけど、ではどこに行きたいんだろうと考えてみると、とにかく移動距離が稼ぎたいのだと思う。どこでもいいから、移動距離が欲しい。とにかくなんでもいいからどこでもいいから移動距離が欲しいだなんて思うのは初めてかも。

このコロナ騒動で人が集まることとか家について根本的に考えさせられた、と思ったのだけど、直後に「考えさせられるって言葉時々見るけど、「多様性」に並ぶ思考停止ワードだよなあ、考えるっていうのは主体的に行うことで、考えさせられているという人は、自分で考えているわけではないから、結局考えさせられてもいないのでは?」と、気がつけば考えさせられていた。

僕の実家があるお花茶屋というところは、江戸時代に何代目かの将軍がここを通りかかった時に体調が悪くなり、お花という人がやっている茶屋で受けた看病に感動して、お花茶屋と名付けられたという話があって、その話は僕にとってはとても重要な物語で、自分の体に刷り込まれている。各地域には固有の歴史があって、それぞれの歴史資料とか物語はそれぞれに価値があるはずで、それが他の資料に比べて価値が劣るとか優れているとかは考えても意味がないはずだ。同じように、誰かの苦労は他の誰かの苦労よりも大きいかとか、誰かの困難は他の誰かの困難と比べればさしたる問題ではないということも考える意味はない。誰かの困難や苦しさはいろいろな地域が固有に持っている歴史と同じで、その人固有の歴史の中にあるもので、他の地域の話と比べて大小とか優劣を比べることはできない。