02122527
僕たちは、選択の余地なく、気がついたら生み落とされているのに、死ぬことは受け入れなくちゃいけないのだから、最初から理不尽の中に投げ出されている。だから何のことはない。怯える必要も怖がる必要も諦める必要もない。僕たちは一人で死ななければいけない。つまり僕とあなたの間には断絶があるということ。決定的な、深い深い断絶だ。だから、人の苦労と自分の苦労を比べて、どっちのほうが苦労してるか等という話はしてはいけない。できない。これから生まれてくる子供の方は僕たちよりも苦労するので、苦労させたくないから生まないとか、ある世代の方が若い世代よりも苦労しているだとか、そういう理屈にはならない。そんなことよりも、この死ぬまでの束の間の交流を、この短い永遠をみんなで楽しもうっていう、そういう態度の方が粋だと思うの。
「プレゼントをうけとる」っていうのもひとつのプレゼントじゃないか。プレゼントしてくれた相手に対する。だから、プレゼントをする方もされた方も、相手に感謝をするべきだと思うの。お金も同じだ。なぜ商品やサービスを提供する方が、お金を払う方に敬語を使わないといけないのか。「受け入れる」っていうのは、能動的なことでしょうが。

ここ数日、なんだか余裕がなくて、日々きつくなっていて、原因はなんだろうかと思っていた。で、このあいだ近くに古本屋をみつけて、入ってパラパラといろんな本をながめていたら、昔の芸術家たちの素描集(ダヴィンチとか)をみつけてひらいた時に、その印刷された素描から、心地よい風がふいてきて、ふと胸の風通しがよくなったような気がして「ああ、足りないのはこれだったか」と気がついた。そこで今日、じつに二ヶ月ぶりに美術館にいってきた。高松市立美術館の常設展。
田中敦子の「電気服」が展示されていて、これが良かった。たくさんの電球が服みたいにたくさんぶらさがっているのだけど、その電球が、アクリル絵の具でいろんな色に塗られていて、ときどき電球がいっせいに点滅すると、そのカラフルな光で展示室がちらちらとにぎやかになる。
この、「絵の具で塗られている」のが、すごいなと思った。田中敦子はやっぱりペインターなのだなあと。光って、昔から視覚芸術にとってとても重要なもので、色が違ってみるのも、ものが形をもってみえるのもすべて光を目が認識するおかげで、だからこそ絵画が生まれて、光に対する言及がいつの時代もあって、いまの現代美術もそうやってあるんだろう。そんな光がちかちかする電気服の電球が、絵の具で塗られているのだ。自身の、ペインターとしての文脈をひろいつつ、テクノロジーとしての絵画。インスタレーションとしての絵画のような、新しい道をきりひらいた、田中敦子にとって1つの飛躍だったに違いない作品だった。電気服。
他にもさわひらきの「eight minutes」(これはちょっと、展示の仕方が残念すぎだった。とても良い映像だったのに)とか藤本由紀夫の「music dustbox」(鑑賞者がねじを回したオルゴールが、ゴミ箱の中に吸い込まれていくインタラクティブな作品。東京都現代美術館にもコレクションされているears with chairの人)とか池田亮司の「data.scan」とかが印象に残る。この美術館がコレクションする現代美術の傾向というか、つくろうとしている文脈がすこしわかったような気がした。田中敦子の「電気服」が展示室の中央に展示されていて、それが放つ光が、他のすべての作品にあたる。宮島達男の作品もあったりして。
このあいだの企画展も、高木正勝さんとかスプツニ子さんとかトーチカとかが主に出品していて、傾向が似ているなと思った。
「電気服」が切り開いた時空を、それぞれの作家たちが押し進めていったように見える展示だった。展示の仕方が雑すぎるけれど。。あと「戦後の讃岐漆芸」という展示でみた作品も、良いなと思うのがたくさんあった。

50年前に録音された歌と130年前に書かれた本に毎日救われている

火曜日に、中塚といっしょに「かぐや姫の物語」をみてきた。
そして、なんだかやられてしまった。輪郭線そのものがぶるぶると動くようなアニメーションは、すごく刺激的で、アニメーションが"アニメーション"であることを改めて思い知らされたというか、絵が動く事の本領をみせつけられた感じ。ただ、内容は、えげつないほどに悲しい、というかむなしい物語だった。かぐや姫のキャラクターが、いまの僕たちにも感情移入できるようにつくられていて、竹取物語の原作を読むだけではここまでずんとした重い気持ちにはならないだろうな、と思った。親は、ただただ子供がかわいくて、幸せにしてやりたくて、いろいろと世話をやくことが、子供にとっては窮屈で苦しいことだ、という、今の時代にも通じるような解釈を原作から読み出していて、その結果描かれるかぐや姫やそのまわりの人たちは、見ていて恥ずかしくなるくらい、僕たち自身のことを描かれているような気がした。生きることの歓びと、それにともなう苦悩。「私の人生はこんなはずではなかった」という気持ちが、どの登場人物からも読み取れる。かぐや姫にさえも。人間が生きていて、命があるがゆえに穢れがあるとされるいこの世界と、穢れのない"無"の月の世界からの唐突なお迎え。
『いざここを離れるとなると、あるいは死ぬとなると、とたんにすべての景色が愛おしくなり、今までのすべての苦悩が、実は歓びだったんじゃないか』と思ってしまう。僕たちはこんな風にしか、人生を肯定できない。この気持ちに心当たりのない人はいないんじゃないか。そのさなかにいるときは「私の場所はここではない。もっと良いところがあるはずだ」と思い、すべてが過ぎ去る"お迎え"が近いとわかってからじゃないと「ここは良いところだった。ここを離れたくない」と思うことができない。そして最後に唐突に訪れる"お迎え"の非情さとむなしさと、お迎えにくる連中の話の通じなさが生々しい。映画を見た後、「僕たちは生まれてきた時点で、現状に満足しつづけることはできない。なので、生は苦悩するためにある」と「それでも歓びは苦悩よりも深い」という二つのフレーズが思い浮かんだ。

たまたま読んでいたニーチェの「ツァラトゥストラ」に、この「かぐや姫の物語」の命題に対する応答があった。この映画のキャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」である。

ーーー
意志とはー自由と喜びをもたらす者のこと。友よ、君たちにはそう教えたはずだ!
~時間は逆流しない。そのことに意志は憤怒している。『そうだったこと』ーこれが、意志には転がすことのできない石の名前だ。
~『どんな行為も消すことはできません。罰を受けても、行為は帳消しにされません!<この世に生きている>という罰が永遠なのは、まさに、まさに、この世に生きていることが、永遠に行為と罪を繰り返すことでしかないからなのです!それを逃れる道はただひとつ。意志がなんとか自分を救うことです。<意志する>が<意志しない>になることです。ー』
だが兄弟よ、君たちは、狂気が歌うこの夢物語を知っているはずだ!
『意志は創造する者である』と教えたとき、俺は君たちをこの夢物語から連れ出してやった。
どんな『そうだった』も、断片であり、謎であり、ぞっとするような偶然なのだ。ーだが、創造する意志が、『いや、俺がそう望んだのだ!』と言うと、事態が変わる。
ー創造する意志が、『いや、俺はそう望むのだ!そう望むことにしよう!』と言うと、事態が変わる。~誰も意志に、後ろ向きに望むことを教えた者はいなかった!」

ーー
いま映画館でやっているアニメが出した質問に対して、130年前に書かれた本がひとつ道筋を示しているかのよう。ここではニーチェは、たぶんショーペンハウアーの「意志の否定」を批判的に意識しながら書いているけれど。

そして映画をみたあと、ずいぶんと沈んでしまった。映画の翌日、起きてからアルバイトにいくまでの時間はかなり危なかった。こういうのはだいたい起きた直後が一番やばい。感覚をひらくために"気持ちをあえて落とす"ことはたびたびやるけれど、ちょっとそれがいきすぎるところだった。本を読む気にもならず音楽も聴く気にもなにか描く気にも言葉にして気持ちを鎮める気にもならず。さいわい短い時間で抜け出したけれど。
あのとき、ものすごい切実さをもって救いになってくれたのは「お前自身を笑うことを学べ」という「ツァラトゥストラ」の一文と、越後妻有で見たひとつの作品。ビールという作家の作品。赤と白の小さくて派手な小屋が山の中にあって、中にはいると、ずらっと並んだ冷凍庫の中に雪だるまが展示されている。そんな作品。そしておじいちゃんからのはがきの言葉。「常に豊かで余裕のある姿をとるように」。やっぱり、家族からの言葉は、何よりも重く響く。たぶん、良い言葉も悪い言葉も(それがラカン風に言う「充実した言葉」であれば)そうなんだろうなと思う。どんなに偉大な作家の言葉よりも、家族からの言葉は重く響く。家族からの「君は~なんだよ。」というタイプの言葉は。精神に直接刻まれる、というか、刻まれていたものが再び浮き彫りにされるかのよう。

光文社古典新訳文庫 ニーチェ 著 丘沢静也 訳
「ツァラトゥストラ(上)」からいくつか抜粋。
たぶんこの本は、訳者によって印象がだいぶかわるように書かれているように思う。他の訳も読んでみなければいけないと思う。

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「人間は、1本の綱だ。動物の超人の間に結ばれた綱だ。ー深い谷の上に架けられた綱だ。向こうへ渡るのも危険。途中も危険。ふり返るのも危険。ふるえて立ち止まるのも危険。人間の偉いところは、人間が橋であって、目的ではないことだ。人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることだ。」

ああ、兄弟よ、俺が創造したこの神は、人間が造った作品であり、人間がいだいた妄想なんだ。いろんな神々と同様に!
人間だったんだよ。神なんて。人間と「私」の貧弱なひと切れにすぎなかったのさ。自分の灰と残り香から生まれたのが、この幽霊なんだ。嘘じゃないぞ!彼岸からやってきたんじゃない!

兄弟よ、君に徳があって、それが君の徳であるなら、その徳は誰の徳とも共通点がない。
もちろん、君はそれに名前をつけて、愛撫するつもりだ。その耳を引っ張って、退屈をしのぐつもりだ。
だが、しかし!名前をつけてしまうと、名前は大衆に共有される。君の徳といっしょに、君も大衆の群れになってしまう!
だから、こう言うほうがいいだろう。「私の魂に苦さや甘さをあたえるもの、しかも私の内蔵の飢えでもあるもの。それは言い表すこともできないし、名前もないんです」
君の徳は、うんと高貴であるべきだ。名前で呼ばれるほど馴れ馴れしいものであってはならない。どうしてもそれについて語らなければならないときは、たどたどしく語ることを恥ずかしいと思うな。
たどたどしく言えばいいのだ。「これが私の善なんです。私が愛してる善なんです。こんなに私は気に入っているんです。こんなふうにしか私は善を望みません。善を、神の掟としては望みません。人間界の規約•必需品としては望みません。それを、地上を超えた世界や天国への道しるべにするべきではない。地上の徳なんですよ、私が愛するのは。この徳は、あんまり利口でもないし、皆さんがもっている理性もほとんどもっていない。でも、この徳は、鳥のように私のところで巣をつくった。だから私はこの鳥を愛し、胸に抱くわけです。ーいま、この鳥は私のところで金の卵を温めている」
こんなふうにたどたどしくしゃべって、君は自分の徳をたたえるといい。

書かれたもののなかで、俺が愛するのは、地で書かれたものだけだ。血で書け。すると、血が精神であることがわかるだろう。
知らない血を理解するのは、簡単にできることではない。読書する怠け者を、俺は憎む。
読者というものを知っている人間なら、読者に合わせて書くことはしない。あと1世紀、読者というものが存在しつづけるなら、ー精神は、悪臭を放つだろう。
誰もが読めるようになることを許される。そんな事態になれば、長い目で見ると、書くことだけでなく、考えることまでが駄目になる。

君たちの中で誰が、笑いながら高められていることができるのか?
一番高い山に登っている者は、どんな悲劇的なゲームであっても、どんな悲劇的なまじめさであっても、せせら笑う。
勇気をもて、動じるな、嘲笑せよ、暴力的であれーと、知恵が俺たちに要求する。知恵は女だ。いつも戦士しか愛さない。
君たちは俺に言う。「人生を背負うのはむずかしい」。だが、何のために朝にはプライドが、夕方にはあきらめが用意されているのだろうか?

「~しかし、人間も木も同じようなものだ。木が高く明るい空にむかって伸びようとすればするほど、木の根はまずます力強く、地中に深く潜り込んでいく。下へ。闇の中へ。深みの中へ。ー悪の中へ」
~「もしもこの木が、しゃべりたいと思っても、この木の言うことを理解するやつはいないだろう。あんなに空高くまで伸びてるのだから。
というわけで、この木は待っている。待っているんだ。ーしかし、何を待っているのか?あまりにも雲の座の近くで暮らしているので、稲妻に最初に打たれることでも待っているのだろう」

たとえば、自分の中に肉食獣を飼っている恐るべき連中がいる。官能か、自分の肉を引き裂くことしか知らない。連中にとっては官能も、自分の肉を引き裂くことなのだ。
この恐るべき連中は、人間にすらなったことがない。生きることをやめよ、と説教されて、自分から消えてもらいたいものだ!

兵士の姿はたくさん見える。だが俺が見たいのは、たくさんの戦士だ!身につけているのは、「制服」と呼ばれるものだ。だが、その下に隠されている中身までもが、制服のようであってほしくない!
君たちの目には、いつも敵をー君たちの敵をー探していてほしい。君たちのなかには、ひと目で敵だと見破った者もいる。
自分の敵を探すのだ。自分の戦争を戦うのだ。自分の思想のために!君たちの思想が負けても、思想に対する君たちの誠実さが勝利を喜べばいい!
平和を愛するなら、新しい戦争のための手段として愛するべきだ。長い平和より、短い平和を愛するべきだ。
俺がすすめるのは、労働ではない。戦争だ。俺がすすめるのは、平和ではない。勝利だ。君たちの労働は戦いであるべきだ!君たちの平和は勝利であれ!
~君たちに言わせれば、よい目的が、戦争をさえ正当化する。だが俺に言わせると、よい戦争がどんな目的でも正当化する。
隣人愛よりも、戦争と勇気のほうが、大仕事をたくさんやった。君たちの同情ではなく、勇敢さが、不幸にあった人たちをこれまで救ってきた。
~敵にしてよいのは、憎むべき敵だけだ。軽蔑すべき敵など相手にするな。自慢できるような敵しか相手にするな。そうしておけば、敵の成功は君たちの成功にもなる。
~生きていることへの愛を、君たちにとって最高の希望への愛とせよ。君たちにとって最高の希望を、生きていることの最高の思想とせよ!
君たちにとって最高の思想を、この俺が命令してやろう。ーそれは、「人間は、克服されるべき存在なのだ」という思想だ。
というわけで君たちは、服従と戦争の人生を生きるのだ!長生きすることに、どんな価値があるというのだ!いたわられたいと思う戦士など、いないだろう!
俺は、君たちをいたわらない。心の底から君たちを愛しているぞ、戦う兄弟よ!ー

俺が国家と呼ぶのは、善人も悪人も、みんなが毒をのむところのことだ。国家とは、善人も悪人も、みんなが自分を失うところ。国家とは、みんながゆっくり自殺することがー「生きる」ことであるとされるところ。
~国家が終わるところで、はじめて、余計な人間ではない人間がはじまる。そのとき、なくてはならない人間の歌がはじまる。一回限りの、かけがえのないメロディー。
国家が終わるところで、ー兄弟よ、その向こうを見てもらいたい!虹が見えないだろうか?超人への橋が見えないだろうか?

偉大なものはすべて、市場や名声から離れたところで生じる。新しい価値をつくる者は、昔から、市場や名声から離れたところに住んでいた。
孤独の中へ、友よ、逃げろ!毒バエに刺されているじゃないか。激しく強い風の吹くところへ、逃げろ!
孤独の中へ逃げろ!みじめな小物たちの、あまりにも近くで、君は暮らしてきた。目に見えない連中の復讐から逃げろ!君にたいして連中は復讐しかしない。
連中に手をあげるのは、もうやめろ!連中は無数にいる。ハエたたきになるのは君の運命じゃない。

君は、束縛から自由になることを許された人間なのか?仕えることを放棄したら、自分の最後の価値を放棄することになった人間もいるぞ。
何からの自由?ツァラトゥストラにとって、そんなことはどうでもいい!君の目ではっきり告げてもらいたいのだ。なんのための自由なのかを?
君は自分にたいして善を悪を示すことができるか?自分の意志を掟のように自分の頭上に掲げることができるか?自分で自分を裁けるか?君の掟を破ったやつを罰することができるか?
恐ろしいことに、君の掟によって裁いて罰する者は、君しかいない。

だから、生み出してくれないか。すべての罰を背負うだけでなく、すべての罪をも背負うような愛を!
だから、生み出してくれないか。誰にたいしても無罪を言い渡す正義を!ただし、裁く者には無罪を言い渡してやることはない。

死ぬのが遅すぎる人は、たくさんいる。死ぬのが早すぎる人は、あまりいない。「ちょうどいい時に死ね!」という教えは、まだ馴染みがないらしい。
ちょうどいい時に死ね。ツァラトゥストラはそう教える。

医者よ、まず自分を助けるのだ。すると病人を助けることにもなる。自分で自分を治すものをその目で見ることが、病人にとって最高の助けになると考えることだ。
まだ誰も歩いたことのない小道は、何千とある。何千という健康がある。何千という隠れた生命の島がある。

だから高貴な人間は、他人に恥ずかしい思いをさせないようにする。そして、悩んでいる人を見たら、かならず自分を恥じる。
じっさい、俺はあわれみ深い連中が好きではない。連中は、同情することで非情に幸せになる。恥ずかしいという思いが、あまりにも欠けている。
俺は、同情するしかないときえも、同情していると思われたくない。同情する時は、遠くから同情したいものだ。
「ツァラトゥストラだ」と気づかれないうちに、顔をかくして、逃げたいものだ。友よ、君たちにもそうしてもらいたい!

ああ、友よ!母親が子どもの中にあるように、君たちの「自分」が行為のなかにあるべきなのだ。このことこそ、徳について君たちが言うべき言葉なのだ!

学者は、水車の粉引き装置のようにギッコンバッタンと働く。穀物の粒を投げ入れてやるだけでいい!ー心得たもので、ちゃんと穀粒を小さくして、白い粉に変える。
学者は、お互いにしっかり目を光らせている。相手をあまり信用しない。小さな策略をあれこれ考えだしては、頭の回転ののろいやつが来るのを待っている。ー蜘蛛のように待っている。

詩人はまた、あまり清潔ではない。自分たちの水を、深く見せるために濁らせている。
濁らせることによって詩人は、ものごとの調停者の顔をしたがる。しかし間に立って、かき混ぜるだけ。中途半端で、不潔な連中だ!ー

しかし人間たちのところで暮らすようになってから、俺は思った。『この人には目がひとつありません。あの人には、耳がひとつありません。そしてまたあの人には、足が1本ありません。それからまた、舌や鼻や頭をなくした人も居る』とわかっても、そんなことは取るに足りないことなのだ。
俺はこれまで、もっとひどい人間を見てきた。いちいち話したくないほど嫌な人間も見てきた。しかし、なかには、どうしても話しておきたい人間もいた。あらゆる部分が欠けているのに、1つの部分だけ巨大な人間だ。ー大きな目でしかない人間、大きな口でしかない人間、大きな腹でしかない人間、どこかひとつの部分でしかない人間。ーそういう人間を俺は、逆不具と呼んでいるんだが。
~過去の人間を救い、すべての『そうだった』を『俺はそう望んだのだ』につくり変えるーそういうことこそ、はじめて救いと呼べるものなのだ!
意志とはー自由と喜びをもたらす者のこと。友よ、君たちにはそう教えたはずだ!
~時間は逆流しない。そのことに意志は憤怒している。『そうだったこと』ーこれが、意志には転がすことのできない石の名前だ。
~『どんな行為も消すことはできません。罰を受けても、行為は帳消しにされません!<この世に生きている>という罰が永遠なのは、まさに、まさに、この世に生きていることが、永遠に行為と罪を繰り返すことでしかないからなのです!それを逃れる道はただひとつ。意志がなんとか自分を救うことです。<意志する>が<意志しない>になることです。ー』だが兄弟よ、君たちは、狂気が歌うこの夢物語を知っているはずだ!
『意志は創造する者である』と教えたとき、俺は君たちをこの夢物語から連れ出してやった。
どんな『そうだった』も、断片であり、謎であり、ぞっとするような偶然なのだ。ーだが、創造する意志が、『いや、俺がそう望んだのだ!』と言うと、事態が変わる。
ー創造する意志が、『いや、俺はそう望むのだ!そう望むことにしよう!』と言うと、事態が変わる。~誰も意志に、後ろ向きに望むことを教えた者はいなかった!」

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「ツァラトゥストラ(下)」へ

いま期間限定でネット公開されている、フィンランドの「オンカロ」と呼ばれる放射性廃棄物の最終処分場を扱ったドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」をみた。そうだった僕たちは、永遠を相手にする気持ちで、すべてのことに臨まなくてはいけなかった。これはたとえ話ではなく、放射性廃棄物という、具体的な物質がこの世界に存在してしまっていた。オンカロは、建設が終わり、廃棄物を収納した後埋め戻されるらしい。その後は少なくとも放射性廃棄物が人体に無害になるとされる10万年間は、誰も開けないことを祈るしかないという。そこで地表に「マーカー」と呼ばれる石碑のようなものを作り、"この場所は危険である""この地を掘り返してはいけない"というメッセージを、あらゆる言語や図で表示するらしい。10万年後の人類が、ここを掘り返さないように。これが現在「最先端」で「世界唯一」の廃棄物を処分場らしい。10万年間という時間を超えるために"石"に"言葉と絵"を刻み付けるという方法しか考えつかない。それは多分僕たちがこれまでに、石に刻まれた古代の文字や洞窟の壁に彫られた古代の絵を発見したからだ。その方法しか知らない以上、それに頼るしかない。あまりにも長い年月。放射性物質が発見されてからは、まだ100年ほどしか経ってない。ラスコーやアルタミラの洞窟壁画が描かれたのが今から1万5千年くらい前、エジプトのピラミッドが作られたのが5000年くらい前、キリスト教が起こり西暦が始まったのが2014年前。10万年間は。。うまく想像できない。でも僕たちはそれを相手にしなきゃいけない。放射性廃棄物という具体的な物質が現実に存在している以上は。いきなり10万年は無理でも、せめて1000年くらいの単位で考える癖を。いつも、前後千年間くらいは意識しながら今に挑まないと。簡単なことではないけど。1000年や2000年を、軽く飛び越えるくらいの気持ちでいないと、10万年には太刀打ちできない。放射性物質に太刀打ちできない。

信号機や歩道橋に、時々うんざりする。意識的に正気を保ちながら職場に向かって歩いている。ニーチェやショーペンハウアーの言葉を反芻して、ウディガスリーやボブディランの歌を聞きながら。やっぱりこの、生活をさせられている感じが息苦しい。僕が家の絵を書いている最中、僕と家の間を無数の車が、その多くは貨物を積んだトラックやコンクリートミキサー車などだった。絵を描いている最中に1000台以上は通っただろう。このときの時間の流れが、彼らと僕とでは明らかに違う。囲われた海に放たれて「自由に泳いでいいですよ!」といわれて、多くの人が喜んで泳いでいる。25過ぎたら仕事が楽しくなってくるもんなんや、という人がいたけど、それは自分を納得させるために言っているようにも聞こえる。まわりに対してそう伝えることによって、この世界にそういう自分を定着させようとしている。自由は意志のあとについてくるものだ。あらかじめ与えられた自由は存在しない。「自由」を与えられた時点で、そこから自由が奪われる、自由が逃げて行く。「あなたは何の宗教ですか?」という質問と同じだ。自由に答えられるように見せかけて、この質問は、自分が信じているものを「宗教」のひとつだと考えることを強制する。「それ面白いね」っていうせりふも同じようなもんだ。使い方を注意しないと、これはすぐに侮辱の言葉になる。「面白い」という言葉のなかに、状況を回収してしまう。
あらかじめ決められた振り付けで、ながいあいだ踊らされ、それが楽しいと思えるようになっていくこと。それはオーウェルの「二重思考」とどう違うのか。いつか映像で見た、学生団体のダンス合宿のことを思い出す。何十人かで泊り込み、共同生活をして、ひたすらダンスの練習をする。どこかの大会に出る練習をしているのかと思いきや、違う。合宿最終日に、その合宿メンバーだけで「本番」を踊る。観客は一人もいない。本番が終わったら、何故かみんな感動して泣いている。これが馬鹿にできない。僕たち自身がそんな状態の真っ只中にいるかもしれない。この世界でのべつのありかたを想像する。一番冴えた正気は、発狂の直前にあるのかもしれない。そのぎりぎりの正気を。問題を、救いを、夢を、来世や、次世代や子供に託すな。天国や極楽浄土に求めるな。別の世界ではなく。この世界での別のありかたを想像する。

ある手紙に対する架空の返信

あなたは、やりたいことをして生きていける人間は一握りだ、と言いました。多くの人間は、やりたいことをやりたいと思いながらも、それでは生活できないので、本当は嫌な仕事をして、生活のために、家庭のためにがんばっているんだ。という言い方をしました。あなたの目には、彼女が"安定した仕事"について生活をための我慢•努力をしていない、将来の計画がたてられない能天気な落ちこぼれのような存在に見えるのかもしれませんね。しかしおそらく彼女は"将来の心配をしていない"ことはないと思う。彼女には、どうしても見過ごせない何かがあった。このままでいいのだろうか、私は。という疑問が、歳月を経て耐えられないくらい大きなものとなり、ついには大学をやめるまでになってしまった。彼女のほうこそ、不安でいっぱいなのだと、どうして思えないのか。あなたは言った。日本はどん底だと。ならばなおさら、いままでと同じ方法ではだめかもしれないと、どうして思えないのか。いま、僕たちの生きるこの社会の軋む音が至る所から聞こえてくる。この音を聞きとることができる人は、「大学を卒業し、定年まで雇ってもらえる企業に就職して、定年から死ぬまでの20年間ぶんのお金を、働けるうちに貯めて、そして老後を迎える。迎えられる。」なんてことを考えられるはずがありません。仮にあなたのいう生き方を遂行できる社会だとしましょう。だとしても、"就職するために"大学に入り、"将来のために"就職し、"老後のために"定年まで働いて、それで退職し、死ぬまで貯金で生活する。それでどうなるのですか?いったい、そこになにがあるのですか。寿命まで生きるための暇つぶしのようにしか思えない。それは幸せな人生だと本当に思えますか。あなたは「みんな我慢しているんだから、お前も我慢しなさい」と言っているように聞こえる。やりたい事をできるのはほんの一握りだ、と彼女にいうという事は、お前はその一握りではない、やりたいことをできない人間だ、と言う事とどう違いますか。あなたは彼女に、やりたくない事を我慢してやりなさい、みんなやっているんだから、と言っている。
そもそも「やりたいこと」とかいっている時点で既に終わっている。あなたの言う「やりたいこと」はいつまでたってもできない「やりたいこと」です。「やりたいこと」というのは、常に私たちの前から逃げていきます。なぜなら、僕たちはある満足な状態を持続させることができない。何かに満足したら、また次の欲望をもってしまうようにできている。あなたの言い方では、「やりたいこと」をやれる日がくることは永久にありません。「やりたいことをやる」のではなくて、「あなたがやったことが、やりたかったことになっていく」のだとどうしてわからないのか。やりたいことをさがしてから、やる意味をさがしてからやるのでは、永久にできない。そうではなくて、やったことが意味になっていく。(これは「やることに意味がある」とは違います。それは慰めにすぎない。)繰り返しただ消費していくだけの日々の中に、人間の生の輝きはありません。あなたは、将来の展望が見えないと不安で仕方が無いのでしょう。働きながら年老いて、退職して老後を迎えて死んでいく。その道筋が見えないと不安なのでしょう。「60歳まで雇われる」。しかし、そんなの牢獄でしかないじゃないですか。この世界はなぜこのようなあり方をしていて、別様のあり方をしていないのか、考えたことはありますか。僕たちは、昔から様々な生活のヴァージョンを経て、今の生活のヴァージョンの中でとりあえず生きているにすぎない。今でも、世界には別様の暮らしがたくさんあります。あなたがメールで書いてくれたような"幸せのありかた"は、ほんのひとつの、小さな小さな考えに過ぎないかもしれないとは思えないのか。もっというと「あなたが彼女のいまの生活に対して不安を抱いてしまうこと」それ自体が、「この競争原理的な資本主義社会を加速させるために仕組まれた巧妙なトリック」であるかもしれないと考えたことはありますか。かつて団地で澄む事がトレンドなのだとされていたころ、あるいはマイホームを買うことが幸せだと奨励されていたころ、"現代の理想的な生活スタイル"なるものがプロパガンダされたころの名残が、あなたのような思考を生むのかもしれない。
話がすこしそれてしまったけど、要するに、娘の不安をわかろうという気持ちが、よりそって一緒に考えようと言う気持ちが文面から感じられない。自分の価値観を相対化できない。押し付けていると気づかずに、押し付けている。視野狭窄に陥っている。手紙では埒が明かない。とにかく一度会って徹底的に話をするべきだと思います。

この一週間はとてもたくさんのことがあって、思い出せる印象的なシーンがたくさんある。昨年は本当に毎日が同じことの繰り返しだった。そのためか、一年がおそろしく早く過ぎてしまって、もう去年の元旦から一年が過ぎてしまったのかと思うとぞっとする。生活は"いつも•既に"ここにある。僕が歩くとき、動いているのは僕ではなくて地面の方だと言う事と同じように、たとえ国家が解体したとしてもこの退屈な生活はここから動くことがない。必要なのは、この退屈な生活の、その場しのぎを繰り返すだけのこの生活の、日々の「違い」を見い出すこと。そして僕たちの生活を対象化•客観化すること。もっと言うとその対象化•客観化の地点でふみとどまる事。「違いを見い出している状態」にとどまり、変化している状態の物事に絶えず名前をつけ続けること。
そのとき。過去を振り返るときに注意しないといけないことがあって。それは「思い出す」ということは、過去に"逃げる"なんて後ろ向きな事ではなくて、いま生きている自分と"過去が共に在る"ということ。土屋先生も話していたように。思い出すという事は、過去が今この瞬間に出現するということ。そして、何かに取り組むたび、その終わりを想像して、その取り組みが終わったとき、取り組む前に終わりを想像したときのことを思いだすことで、ようやく行為が完了する。そうすることによって、過去のその出来事が「ひとつ」と数えられるようになる。そうやって対象化された過去のことは、いつでも現在の僕の前に出現させられる。時間が操作できる。同じように空間も操作できる。無音も音の1つだと、ケージが発見してくれたおかげで、静かな夜に耳をすませていると、この島でがんばっているみんなの声が聞こえてきそうな気がする。というか、どれだけ長い距離が互いを隔てていても、その距離のせいで、声がかき消されてしまったとしても、そのかき消された無音が僕の耳元まで届いているということになる。みんなの声が聞こえているということになる。距離が消え去る。そう考えるだけで静かな夜が、賑やかになってくる。そんなことを思いながら、二ヶ月前のオープニングのときと同じ道を辿って、吉備サービスエリアから備前一宮駅までの道を歩いて帰った。またあの道を歩く事もあるだろう。こわがることは何もない。ただあの道を夜に通るのは怖かった。そういえばこの正月で、レジデンスのお誘いもいただいた。それはとても"いい話"で、すこし前だったら迷わず飛びついていたけれど、いまは自分の計画があり、かつレジデンスの企画者が同世代で、すごく良いやつだったので、ぜひ仲間として一緒にがんばりたい、という意志を伝えた。彼女にもまた会うだろう。今日も静かな夜なのでみんなの声が聞こえてくる。がんばる

東京駅前の真っ黒な高層ビル群。見上げると何かにくじけそうになるな。大きな権力と、無力感。しかしくじけてはいけない。1人でつくる、素人としてつくることを諦めてはいけない。首に負荷がかかるほどにビルを見上げないといけないなんて。
僕らはやらなければならない。嫌になることは数えたら切りが無いほどあるし、どうしようもない奴もたくさんいるけれど、僕らはやらなければならない。2009年の特別講義でのディーターラムスの言葉が思い出される。「君たちはやらなければいけない」。幸い多くの同志がいる。今日彼らと話ができた。いまも多くの顔が思い浮かぶ。彼らと共に。しかし1人で。

2014年賀状