陸前高田の嵩上げ工事はいまはすごく暴力的に見えるけど、これが完成してしばらくして、その上に建物が立ち並んでいったら、この暴力性は地面の下の見えないものになっていく。小豆島でみた石の採掘場は、壮大に山をえぐってダイナミックな風景が出来上がっていた。だけど今では国産の天然の石は人工の材料におされて需要がないので、採掘場はほとんど稼働していない。ただえぐられた山だけが残っていて、哀愁が漂ってた。

また僕たちがいま見られる山は、ほとんど人工林でできている。これもかつて、将来木材を活用するために植えられた木が、輸入材におされて使われなくなって、大量に植えられた木だけが残っている。僕たちはこの景色に慣れてしまっているから、暴力的だとかは思わなくなってしまっているけど。

陸前高田の盛り土のような工事を、僕たちはこれまでずっとおこなってきた。ただ陸前高田の風景もいずれは採掘場や人工林のように哀愁が漂うものになってしまいそうで

  
土地

  床下
松崎萱のバイク屋さんからトラックで家ごと運んでもらって、陸前高田まできた。まずは佐藤種屋へ。種屋さんとは去年一度会っただけだけど、どれだけ元気をもらったかわからない。

高田も盛り土の山が増えていた。なんとなく、去年よりも街全体に余裕がなくなっている感じがした。そこにかつてあった町を想像するのも難しい。重機が動いていて、景色は茶色で、海も山も盛り土に阻まれて見えない。大きな生コン工場にいるみたい。佐藤種屋ももうなくなってるかなと思った。向かいにあったファミリーマートも土の山に変わっていたけど、種屋はまだあった。

お客さんが結構頻繁に出入りしているけど、佐藤さんともすこし話せた。僕のことは覚えていなかったけど、会ってすぐに「トマトは体に良いって知ってるだろ」と言って、店で育ててるトマトをくれた。そして「あの兄ちゃんにもあげよう」と言って、店の前を通りすがったお兄さんにもトマトをあげてた。
「まだ佐藤種屋あってよかったです」

と言ったら佐藤さんは

「でももう無くなる。ここも土に埋まるんだ。来年には無いぞ。ああ、死にたくなった。」

と言って笑った。

「東京の連中はもう復興が終わったと思ってるんじゃないか?なーにがオリンピックだー」

とも言ってた。
種屋を出てすこし歩いて、去年花壇があった場所まで行った。近所の住民の人たちが手作りで広げていった花壇。そこで知り合った人(こっちも佐藤さんという)が話すには「あそこにいけば誰かいるだろう」「行かなくても、あそこには誰か居るだろうと思えるだけで良い」と思える場所だった。その花壇も撤去されて土に埋められてた。

佐藤さんの家で、2014年の1年間撮影し続けてきた花壇の写真のスライドショーを見せてもらった。なんの予備知識もなく見ると、綺麗な花の写真と、それを手入れする人たちのほのぼのしたスライドショーに見えるんだろうけど、去年一度花壇を見ていて、今年それが土に埋まっているのを知っているというだけで、凄まじい映像にみえる。

嵩上げの工事も、花を植えるのも、土をいじるという点で同じことをやってるんだけど、花はショベルカーでは植えられないし、スコップで嵩上げ工事はできない。土を体積としてしかみなさず、何十トンていう単位で運んでいる復興工事と、土を花を育てるためのものとしてみなすのとでは、接し方が全然違くて、それがすごく大切な違いに見えて胸が締め付けられる。ショベルカーですくってダンプカーで運ぶ土と、手ですくう土は同じ土ではない。このスライドショーを人に見てもらいたい。

今日の敷地はその佐藤さんのアパートの脇。

   
土地
床下
  
間取り
はまなすの館から18キロくらい北へ歩いた。

歩いてると面白いくらいに、みんなが「どこからきたのか」「どこへいくのか」と聞いてくる。何度もそう質問されるうちに、なんだかとても深い問いかけに聞こえる。ゴーギャンの絵画のタイトルみたいに。

僕は「南から来ました」「北に行きます」と答えてる。これは向こうからしたら多分答えになってないんだけど、このズレに何か面白いことがあるんだろうなと思う。方角で考えるのが大事かもしれない。いくら北に行っても、北には着かないので。
今日の敷地は気仙沼市松崎萱にあるバイクショップの倉庫の中。去年も6月にここにきた。

トイレやお風呂場は、家のものを使わせてもらった。近くにコンビニもあるのでそこのトイレも使える。
延長コードを出してくれたので、僕の家の中まで電源を引くことができた。

鶏がコケコケ言ってるのと、バイク屋さんの独特のオイルの匂いが最初は気になったりしたけど、すぐに慣れた。

  

   
土地
 
床下
  
間取り

南三陸町から気仙沼市本吉町へ移動。去年と全く同じルートを辿る。
 南三陸の人たちが

「いってらっしゃーい、は違うか。また来年〜」

と言って送り出してくれた。
去年、道端でコンビニの冷やし中華をくれたおばちゃんとその娘さんがいた。今年も連絡をとってみたら、また同じところで再会して、同じ冷やし中華をくれた。おばちゃんが「たらすもづ(たらし餅)」という黒砂糖とクルミが入った甘い餅もつくって持ってきてくれた。
20キロくらい歩いて、本吉町の「はまなすの館」という、公民館や図書館などが入った建物に着く。受付で「去年もきたんですが、今年も敷地を貸してください」とお願いした。去年と違う所長がでてきて「去年もきたという実績があるみたいですから」と言って快諾してくれた。去年と全く同じ場所。公衆トイレのそばに家をおいた。
トイレと洗面台は公衆トイレがすぐ近くなので困らない。すぐ近くの図書館に行けば机もあるのでデスクワークもできる。漫画もすこし置いてある。
道路の向かいにはスーパーがあるし、コインランドリーもある。とても便利な敷地をだけど、お風呂場がない。10分ほど歩いて本吉駅までいって、BRT(震災で壊れた線路を道路にして、そこをバスで走る公共交通システム)で最知駅まで行く。そこからすぐのところに「ほっこり湯」というスーパー銭湯がある。深夜一時までやってて、880円。ここにも漫画が置いてある。
寝室の床下はアスファルトなので寝心地は良い。ただし、まわりは芝生なのでたくさんコオロギがいる。このコオロギ、遠くで鳴いてるのを聞く分にはとても風流で良いのだけど、耳元から20センチくらいのところで鳴かれると結構うるさい。寝付くのに支障が出るレベルの騒音で、まいった。だけどちょっと前に人からもらった耳栓が活躍して、無事寝ることができた。

ラジオを聞いていて強い違和感に襲われる。ニュースの内容と、パーソナリティーの声やBGMの取り合わせが、なにか間違ってるきがする。鹿児島の原発が再稼動した。「経済的に潤うからしかたない。原発は地場産業だ」と話す人たちがいる。しょうもない話題にたかってネット上で盛り上がってる人たちもいる。顔が見えないコミュニケーションだけで世界が回っている、という錯覚。何故みんな以前と同じように生きていられるのか。考えていられるのか。みんなが、再び幻想の世界に戻っていく。僕はといえば悔しいけれど、怒りと裏返しになった強い孤独感。無力感。不安。さみしい。苦しい。このナイーブさも自分の中にどうしようもなくある。これも認めざるを得ない。最近虫の視点を借りることを覚え始めた。いつも下を見ると、なにか虫がいる。おなじ空間にいるんだけど、違う世界を生きてる。

   
土地
 床下
土建会社の事務所の敷地にある、大きな倉庫に家を置かせてもらった。去年もここにお世話になった。その時は、これから取り壊す予定のプレハブの旧事務所のなかを敷地に借りた。そして、新しい事務所の絵を描いてプレゼントした。その絵はコピーされて、デスクに飾ってくれていた。

南三陸町志津川の土建会社のプレハブの小屋のなかにいる。8畳くらいの広さで、テレビとエアコンがあって、机がひとつある。このあいだまでの暑さがうそみたいに肌寒い。ものすごい豪雨と強風。外の音が恐ろしい。台風が直撃してると言われても信じる。今日は硬くて重い壁でできた部屋に居られて本当に良かった。
夕方、まだ雨がこれほど強くない頃、ここの会社の人が南三陸を車で案内してくれた。南三陸は去年と比べて景色がガラッと変わってしまっていた。陸前高田と同じように、あちこちで茶色い土が文字通り山のように積まれていて、海も見えなくなっている。視界が土の山で阻まれているので、いま自分がどっちの方角に向かっているのかもわからなくなる。南三陸は複雑なリアス式海岸の地形で、山に入ったと思ったら海に出てしまったりする。小さな港町がたくさんある。そのすべての町が津波にのまれてしまった。そしていまそのすべての町で茶色い土の山が築かれている。場所によっては、本当に一面まっ茶色になってしまっているところもある。かつてここに住んでいた人はこの変わりようを見て何を感じるのか。自分の家が建っていたところが埋められていくのはどんな気持ちなんだろう。

いつか茶色い山がすべてできあがり、土地のかさあげが完了したら、その上に住宅が作られるらしい。でも僕を案内してくれた人は

「いつになるかねえ。まだ盛り土もできてないからね。」

と言ってた。

 

敷地/宮城県登米市津山町柳津
 床下
小豆島→今井町の出張を終えて石巻にもどる。ながいこと家を置かせてもらっていたsomacoハウスの庭を出発して、登米市の柳津に向かう。北に23キロくらい。2週間ぶりに家を背負って歩いた。石巻を離れていた2週間のあいだに、だいぶ涼しくなったと思う。歩きやすい。

北上川を左手に見ながら歩く。歩道がない道があるのが腹立たしいけど、とても綺麗な景色。

登米市に入った頃、おじちゃんが道端で車をとめて、どこから来たんだと僕に話しかけてきた。もうやりはじめて二年目なので、答えにくいです。北に向かっています。と答えた。そしたら、おじさんは不審者を見るような顔つきに変わった。そうですか。がんばってください、と言って去っていった。
そのすぐあとに、今度は道端でおばさんが話しかけてきた。あなたのことをラジオで聞いたことがある。会えて嬉しい、と言った。

そこにパトカーが通りかかって、警官がおばさんに対してこう言った

大丈夫ですよ。大丈夫ですよ。芸術家の方ですよね。

僕は去年この町を通ったときに、職質を受けたのを思い出した。そしてその警官は、去年職質をしてきた警官と同じ人だったと思う。

僕は「大丈夫ですよ」の意味が最初わからなかったけど、おばさんが警官に対して「大丈夫って。。ラジオで聞いたんですよ〜」と言ったのを見て理解した。
5時過ぎには柳津に到着。家の置き場所は、去年もお世話になった柳津にある一軒家 のガレージを借りた。家のメンバーが去年よりも一人増えて賑やかになってた。
ガレージの二階に部屋があって、そこに寝かせてもらった。母屋からは離れているので、宴会の会場としてたまに使うらしい。トイレがついてる。自分の家で寝てないので間取りは描けない。

1600年前の交差点に残っている250年前の建物を見学して、400年前から街並みが変わっていない今井町に帰ってきた。歴史の動脈にいる。いまという時代と、未来への予感のようなものを感じる。奈良に住むってことは、この未来への予感のようなものと一緒に住むということかなと思った。
その交差点(藤原京の横大路と下ツ道の交差点)はかつて幅が30メートル以上はあったらしい。東にずっとまっすぐいくと伊勢に着く。江戸時代には札の辻と呼ばれ、旅人が絶えない交差点だった。現代では住宅地になっていて、車幅は3メートル程度で、車は一方通行。でもけっこう通行量が多い。いまでも多いのが笑える。

そして1975年に発行された「思想の科学」が、60年代のことを論じているのを読んでいる。今井町のNPOの人が思想の科学研究会のメンバーだったらしく、何冊か貸してくれた。

[高度成長は、人から尊厳をうばった。熟練がなんの役にも立たなくされた時代のことである。手に職をつけて働いていた人たちが、工場で単純な作業をひたすら繰り返す仕事をさせられる。自動車工場では、なんのために働いているかといえば、ただコンベアの動きに遅れないためにだけ、そしてコンベアが時間がきて止まる瞬間のためにだけ、必死に手足を動かしている。自分が働く姿を、妻や子供に見せたくないと誰もが思っている。]というようなことを、鎌田慧さんが書いている。

昨日は1400年前に建てられた世界最古の木造建築もみた。柱が太すぎるように感じた。この無骨さが1400年を生き延びた理由だと思った。放射能は1万年を生きる。樹齢1万年の木で築1万年の家を建てて、賞味期限が1万年の食べ物を食べないといけない。

石巻に家を置いたまま、制作のリサーチのために移動している。一昨日までは小豆島にいた。今は奈良県橿原市の今井町にいる。今井町は16世紀の町並みがそのままタイムカプセルみたいに残っている町。道路の幅が狭く、車ではすれ違えない。車に優しくない町で、そこが良い。橿原市はかつての藤原京のまち。歴史の動脈が流れている。小豆島ではせわしなく行動していたけど、ここではぐだぐだとしている。天井の模様が気になる。

今日は夕方に起きて出かけてみた。頭が重い。滞在している所が町家で、他の家が隣接しているのと、道路が狭くてあちこちで地元の人たちが立ち話してるので、でかけるのに気合がいる。町家で暮らすってのはこういうことなのか。僕はよそ者なのに手ぶらで歩いている上に路地が狭いので、人とすれ違うのに意識的になる。

川の方にいくと水場があって、水遊びしてる家族がいる。もっと歩いて大和八木駅のほうにいくと、イタリア料理屋さんとかスーパーとかチェーン店の居酒屋とかがあって、ひとがたくさん歩いている。今井町の街並みとは全然違う。ひととすれ違っても意識的にならない。

今井では一人で家のなかにいても町を感じる。小豆島ではどこにいても島を感じた。ここも島のような場所。川の中洲みたいな感じ。

   
 土地
 
床下
 

間取り
敷地は石巻市にあるsomacoハウスと呼ばれてるシェアハウスの庭。去年も来た。ここは活動的な若い人たち(特に震災後に東北に関わ始めた人たち)が集まってくる家。慣れてくると居心地が良い。

寝心地は良いけど、蚊がちょっと多い。蚊の対策にキンチョーの「1日1プッシュ!蚊がいなくなるスプレー」を使っていて、スプレーした直後は蚊が次々に落ちてくる。地面で弱々しい羽音を鳴らして、やがて動かなくなる。でも家の中の空気の流れが良いせいか、30分くらいで効果がなくなるので、結果的に一晩で数回プッシュすることになるのだけど、これが体にとても悪そう。新しい方法を考えたほうが良いかもしれない。

トイレやお風呂はsomacoハウスの中のものを借りた。洗濯機も。
   
   
石巻の市街地では、7月31日〜8月1日まで「川開き祭」というお祭りが開かれた。これもあって、いまsomacoハウスで泊まりこんでる人が多いらしい。僕が確認できただけで5人は居た。
  

  
31日、震災で亡くなった人の供養行事が川の前で行われていて、ちょうどその祭壇の真上に満月(ブルームーンというらしい)が浮かんでいた。僕もお焼香をあげさせてもらった。
   
   
1日にはsomacoハウスの人たちがやってる焼き鳥屋さんを手伝った。 たしか去年山形の遊佐のおまつりでも焼き鳥を手伝った気がする。