硬貨の汚さが最もわかるのは、銭湯にいったときお風呂から出て100円返却式ロッカーをあけて、100円玉を財布にしまうために財布をあけたとき。お風呂上がりの今の自分とはとても遠いところに在るものだと感じる。いつもよりぎらぎらして光っているように感じる。お風呂場と硬貨は相性が悪い。

中町通りの民芸店の「サザン」に置いてあるアジアの民芸品は、何に使うのかわかるようでわからないものや自分とは民族的に違うセンスで描かれている模様のものがあったりしてそういうものばっかりの空間にいると、ちょうどよく何かと何かのあいだにおさまってるというか、名前がつけられない、深いところに沈んでいくマインドセットになってくる。とても落ちつく。コップでも鏡でもないけどコップや鏡になんとなく近い気がするものとか、本当に何に使うのかわからないけど長く使われていたことが推測できるものとか、山に山と名前をつける前の状態で山を見ているときの気持ちに戻れる感じがする。用途がわからん民芸品に囲まれているということは、名前が付けられる直前の状態のものに囲まれているということで、それはマクドナルドやスターバックスとは反対の状態で、松本には個人で経営しているお店、例えばバーともライブハウスとも言えるけどどちらでもない店とか、ジャンルに回収されない店は多いけど、この民芸のスタンスとも相性が良いのかもしれない。新美くんがやってるギブミーリトルモアは奥にライブハウスがあってそこに行くにはバーになってるスペースを通らないといけないんだけど、奥のライブハウスにいくために人が集まってくるんだけど、手前のバーのほうが大事だと思う。バーだけでもだめで、ライブハウスだけでもだめで、ライブハウスとバーが別々の入り口をもっていてもだめで。一応何かを設定するんだけど、そこにいたるまでの「廊下的な場所」に本質があるというか、そういうことをやるには松本はとっても良い場所なんだと思う。気づけばawaiも同じ構成になっている。いわゆるオルタナティブスペースがたくさんできてることと民芸運動的であることは近いところにいるというか。

体をつかうことによってプロジェクトにちゃんと血を通わせる。自分はアジア人である

ガストにて。水が半分くらい入ってるグラスを左手でつかんで持ち上げ「これから水飲むよ」と心の中で呟きながらグラスを口元に持っていき、水を一口だけ飲んでまたおなじ位置に戻した。この動作を二回繰り返したら、なんだかじわじわと感動が押し寄せてきた。
体のなかの色々な神経が伝達しあって筋肉が動いて一つの動作を成し遂げているのが実感できた。僕は”あいだ”をすっとばして考える癖がある。何人かで一つの作業を行うときなんかに、例えばテーブルを動かすときなんかに「一旦持ち上げて、それから時計回りに回転させて運びましょう」みたいなことをみんなが口に出して議論しあってるのを見てると「そんなことわざわざ事前に口に出して言わなくても、とりあえずテーブルをみんなで持ち上げたらどうすればいいかわかるのに」と思ったりする。人が何人も集まった状態で一つのことを成し遂げるのに一番良いのは、それぞれが筋肉と神経みたいに伝達しあって動くのが良いけどそのために言葉を介してコミュニケーションしなくてはいけない現状だ。

エアコンの室外機が敷地から少しはみ出ているんじゃないかと隣の敷地の持ち主が言ってくる問題に頭を悩ませる。確かに室外機の足部分が5~10cmくらいはみ出しているっぽい。なのでそのプラスチックの足をとりはずし、それより短い木製の足をつくって室外機に取り付けた。たぶん5センチくらいは引っ込んだ。でもまだ数センチはみ出しているかもしれない。隣の敷地に室外機の足が数センチはみ出してるという状態で生きている。

関係者が関係者と繋がって関係者になっていく。それを文化連携と呼ぶ。

わからん。知るほど分からなくなっていく。震災についてやることが大事なことなんだと思い込もうとしていないか。身内でやっていれば良いと思えることが、万人に開いたかのようなフリをするととたんにうさんくさくなる。ただ、こわいものはないと思えた。それは良かった。自分の中に関して迷っているのか、外に関して迷っているのかもわからなくなってきた。

名古屋から松本への高速バスの中。関西国際空港についたあと、朝まで空港のベンチで仮眠(仲間が何人かいた)し、12月1日に大阪から浜松まで新幹線で移動。初めて浜松に降りた。リトミックという方法論で音楽教室をやっている北市さんと合流して砂丘や秋野不矩美術館を見て回って北市家に帰ってくる。夜に旦那さんも帰ってきて一緒にご飯。旦那さんは自動車メーカーのスズキで二輪車のエンジニアをやっている人。起こされてきたスケッチをかくデザイナーがいて、それを設計図にする人がいて、クレイモデルをつくる人がいる。クレイモデルはデザイナーが削ったりして形を整えたりするらしい。スズキには一人天才的なデザイナーがいたが、今では彼は昇格して「削り」はやらなくいなったことを「もったいない」と言っていた。デザイナーが現場で手を動かすことを「削る」と言うみたい。旦那さんはデザイナーと話し合いながら車輪まわりの設計をやり、大量生産できるようにもっていく仕事らしい。工場の余りのステンレスでつくった手作りの小さなナイフを見せてもらったけど、そのクオリティの高さにびっくりした。手作りとは思えない。さすがスズキのエンジニアだ。他に人間の耳がノイズキャンセリング機能を持っているという話など。
今日はまずノヴァ公民館とアルスノヴァを見学した。刺激をもらった。「ただ存在している」ということへの前向きな肯定を感じた。人がただそこにいるというだけで、何かしら「成っている」のだという主張を感じた。そのあとアクトタワーというバブル期に建てられたけど家賃が高すぎてガラガラ状態の超高いタワービルの展望台に連れて行ってもらった。天気がとてもよくて富士山も見えた。浜名湖のあたりが台地になっていて、海抜の低い浜松駅周辺の中心街と台地との境界がよく見えてとても面白かった。海から山に向かって、台地のラインに沿って林がいくつも並んでいた。
そのあと鴨江アートセンターへ。解体が決定していた明治時代の空気をのこした警察庁舎をアートセンターに改装したもの。浜松はトヨタの創業者を生み、スズキも生んだ。車の製造で発達した町というのもあって、町も車社会。なのでみんな車のスピードでしか町を見ておらず、それをなんとかしたいという話をした。車向けの大きな看板なんかも景観をめちゃくちゃにする。スピードの問題。なにか考えたい。自分と浜松との接点をさぐりたい。スピードの問題といいつつ僕はいま松本行きの高速バスにのって時速100キロで移動している。

バスの中で「星を継ぐもの」を読み終えた。素晴らしかった。冒頭を読み返してみたら、その部分を札幌での天神山スタジオのロビーで読んでいたことを思い出した。読書の記憶は場所の記憶とセットになりやすい。それにしても、まさか「星を継ぐもの」が私たちのことだったとは!すごい本だった。最後にとんでもない解が示されて、それでびっくりしてたら間髪入れずそれをしのぐ仮説がたてられて鳥肌のまま読み終わった。
どんでん返しがロジックによって成されてる。SFなのに。徹底的に科学に基づいてストーリーが組まれていた「火星の人」を読んだ後ではちょっと無茶なところもあるけど。でもロジックの作り方と、想像力の大きさというか射程の遠さというか、すごかった。「現実もこの設定でいい」と思ってしまう。ちょうどパンスペルミアのことを知ったあとだったのでなおさら。

熊本で見たジブリの立体県建造物展。「絵がうまいなー」という感想が最初に出てきた。でもすぐ後に、この絵は何のために誰が描いたものなのかと思ったりして、そういうことを考えるようには展覧会を作っていないのだと思い当たった。最後の方に宮崎駿さんが荒川修作のアイデアをもとにして描いた住宅の絵があった。宮崎さんは荒川さんを「畏友」と呼んでいた。犬の顔をした荒川さんが「宮崎かってに変えるな」「本当はもっとスゴイんだぞ」「宿命をひっくりかえすノダ」「イイカネ」と話している。