昨日は芸大毛利研究室のラジオ企画のなかで田中志遠くんという人に呼ばれて「徒歩交通について」というテーマで話をしてきた。徒歩交通というのは彼の造語で、要するに”最後の交通手段”としての徒歩ということらしい。歩くことを、散歩のように、ただ歩くために歩くということではなく、人々が目的地に移動するための歩行の必要に迫られた時、その体験のなかで得たものを集めてアーカイブしていきたいということらしい。面白そう。

話の中で当然シチュアシオニストの話になって、僕はギードゥポールやべーなと思っていた大学生のときに「東京もぐら」という散歩サークルをやっていたことがあり、それは当時は「電車はなんかうさんくさいぞ」という動機から始めたものだったので、電車にのるお金がなくなったときに、”電車の駅”まで徒歩で何時間も歩いた経験からこの徒歩交通という言葉を考えた田中くんの考え方は、すこしハッとさせられた。
ライムスターの宇多丸さんがTBSラジオの番組の中で「決まった!俺の黄金コース!ターンつってターンつってドーン!」という特集をやっていたのだけど、それはとてもシチュアシオニストの心理地理学っぽいなということにも気がつかされた。しかもこれは、「俺の黄金コース」という個人的なものを、同じ都市や、建物や、飲食店という、共通のプラットフォームに乗せて話す企画なので、聞いている人がその場所を知っている場合、共有することができる。これはこの大きな都市を、等身大のスケールに引き戻してくれる。素敵な企画だった。
さらに、のちに友政さんと呑んだ際に教えたもらった話だけど、同じくTBSラジオの伊集院光さんの番組の中でも、ダイエットするためにいろいろなパワースポットを巡っていると、その巡っているという行為のおかげでダイエットしていくという話をしていて、さらに彼は家の中でウォーキングマシンを使って、何キロ歩いたからパワースポットについたという架空の設定をしてひたすら歩いて、スポットについた(ということになった)ら、ダジャレをひとつ披露するという(ような)ことをやっているらしく、これも同じく心理地理学みたいだなと思った。
もしかしたらギードゥポールたちの思想は、現代の芸能人や有名な文化人のなかで、ある種メジャーなものとして引き継がれているんじゃないかと思ったらとても勇気が出てきた。ということを毛利さんにメールしてみたら、やはりシチュアシオニストたちの思想は70年代にポップカルチャーに流入し、現代のラジオという文化にも入り込んでいるんじゃないかということが裏テーマだったらしい。

僕は、今回の「徒歩交通」について喋るために、松本からバスで来た。バスで来てしまった。なぜなら、この企画に出てくれと頼まれたのは10日前だった。松本に発泡スチロールの家があれば、徒歩移動もかんがえたかもしれないけど、家はいま大阪にある。仮に家が松本にあったとしても、松本から東京まで10日間でつくのはちょっと厳しいだろうし、15日と17日の朝に松本で予定があり、さらに色々仕事もたまっていたので、3時間で来られるバスで来た。徒歩交通の話をするのにバスで来てしまったというのは、実は結構根深い問題で、「現代のスピードの要請」が徒歩を許さないから起こることだ。でも、1時間半のラジオに出るために10日間歩いて移動すると、おそらく僕の中では移動の10日間のほうがメインになってくる。もしかしたらそれこそが、シチュアシオニストの真髄なんじゃないかということにも、今回の話のなかで気づかされた。ラジオを聞いているひとは3人しかいなかったらしいが、とてもいろいろな収穫があった。

関係ないけれど、友政さんが話してくれた、イスラム教では「宣言」がゆるされるという話も面白かった。僕は小さい時、ご飯を食べる前に「いただきます」を言い忘れたことに気がついたら、「いただいています、いただきました、いただきます」という三種類のお祈りをしていた。何に向かってかはわからないが、そういう宣言が、イスラム教でもとても大事なものらしい。
さらにここから、高松二郎の「この七つの文字」という作品の話になった。透明な介在者になることを考えなければいけない。「道路」を書く上でとても大事なことだ。
主語を滅ぼせ。受動的な「私」を滅ぼせ。

僕がここにバスで来たということを考えていたら、ボウイはバスで来てしまった。と打ってしまった。仮にデヴィットボウイをここに読んだとしたら、バスではこないだろう。もっともバスに乗らなそうな人の一人だ。たぶん空から落ちてくるだろう。
高校生の時、散歩の習慣があった。夕食後、イヤホンで音楽を聴きながら夜の近所を毎晩毎晩歩いた。音楽のリズムに合わせて歩くのがとても楽しくて好きだった。街が書き換えられていくようだった。家庭や学校に代表されるような、何か戒律的な世界からずれて、違うところにアクセスできるような気がした。同じ近所を何十回も歩いてるはずなのに、いつも違う景色が見えるようだった。
10分くらいのときもあっただろうし、2時間近く歩いた日もあったように思う。
大学二年生の時に、 シチュアシオニストの漂流という概念に影響を受けて散歩サークルをやってみた。というより、電車で学校に通うと、移動が脳内だけでおこってるような気がして、景色がチャンネル変わるみたいで嫌だったので、散歩サークルをやろうと思ったら、シチュアシオニストという人たちに行き着いた。当時はこんなに有名な運動だったとは知らなかった。
ただ、シチュアシオニストによると、漂流は、心理地理学を実践するという同じ認識に至った少人数のグループが複数存在するのがベストらしいが、僕たちは1グループしかおらず、しかもシチュアシオニストなんてだれも知らなかった。なので、方法を考えた。1日の歩数を決め、交差点で迷ったら、グループでどっちに行くかを決める。それぞれのカメラで写真を撮りながら、話し合いながら楽しく歩く。最後にグーグルアース上に結果的に歩いたルートを落とし込む。それが、モグラが地面を掘るみたいに見えた。
地図を持ってきたかったけれど実家に寄る暇がなかった。

2009年2月14日の文章
地面の上にできている
何本もの道路が複雑に交わる交差点。横断歩道を渡るのは、様々な格好をした、様々な年齢層の人達。
ぎゅうぎゅうに押し込められた灰色のビル群の隙間から気の毒なお寺の屋根が頭をのぞかせる。見上げれば束になってうねる高速道路。その高架下にはデパートがあったり、駐車場があったり、川があったりする。
東京は混沌として実体がよく見えない。
さらに電車、バス、タクシーに代表される公共交通機関は、この街を日に日に狭くして、もはや移動はほとんど脳内で行われているのではないか。東京で長いあいだ電車を使って暮らしていると、ある駅から次の駅へ、また次の駅へと景色が変わって行く様が、まるでテレビのチャンネルを変えているかのように見えないか。
「たけコプターよりどこでもドアが欲しい時代になっている!だから息苦しい!」

このとき体を使って街に介入するという方法を得たように思う。その後大学を出て、清掃員村上を得た。街に介入すると同時に、社会システムにも介入する試み。

シチュアシオニストは漂流において「基地」の設定と「侵入経路」(侵入経路ってのが面白い)の計算が必要だと言った。そして「地図の研究」が不可欠だと。「新しい地区」への興味は全然関係ない。と
「基地」という考え方と、地図。ヴィルムフレッサーは家のことを、世界で経験したものを処理するためにある。と言った。慣れた場所、通例の場所がなければ、我々は何も経験できないと。「移住を生活する」を始めるにあたり、僕はたぶん「たくさんのケーブルに侵入された家」に対抗するすべを考えていた。

「徒歩交通」という言い方。交通という言葉には、狭い意味での目的地が含まれている。一定の道筋を通って行き来するという意味合いがある。交通手段としての徒歩を使うとしたら、なぜなのか。

今月号の「BRUTUS」の「危険な読書」という特集の冒頭にインタビューが乗っています。本を3冊紹介しています。


松本のawai art centerで「冬のあわい」というものをやります。妻の茂原がやっているawai art centerがこれまでお世話になった20数名の方々に「冬」について尋ねるお手紙を出しました。そのお返事を待つというものです。待っているあいだ、僕は飲み屋をやります。「三角屋台」というお店です。ぜひ遊びにきてください。

(一緒に考えてくれた阿児つばささんと友政麻理子さん、ありがとうございました)

『冬のあわい』

[会期]

2017 年 12 月 23 日(土・祝)~ 2018 年 2 月 13 日(月・祝), 15:00 ‒ 22:00,土・日・祝のみ開廊

[会場]

awai art center(長野県松本市深志 3-2-1)

[参加者]

・村上慧
・阿児つばさ
・お返事をくださった(くださるかもしれない)皆さま

[内容]

・「冬」についてのお返事を待つ

・北海道から届く(かもしれない)阿児つばさの"冬"を待つ

・村上慧による「三角屋台」 ※3 つの辺で囲む屋台。体が温まるメニュー(熱燗・甘酒・焼酎・おでん・豚汁・きのこ汁など)を週替わりで提供します。

・来場者による「句」の展示 ほか

 

ヴィレムフルッサーによれば、家は、世界で経験したものを処理するためにある。慣れた場所、通例の場所がなければ、我々は何も経験できない。
発泡スチロールの家に住むとき、僕にとっては、描くことと書くことが家に帰ることだ。

『我々は居住する動物である。巣に住むにしても、洞窟に住むにしても、テントに住むにしても。また、家屋に住むにしても、縦横に積み重ねられた箱型住宅に住むにしても、キャンピング・カーに住むにしても、橋の下に住むにしても。慣れた場所、通例の場所がなくては、我々は何も経験できないのである。慣れないもの、異例なものは雑音だらけで、慣れたもの、通例のものの中で処理されて初めて経験となる。~住所不定の彷徨者は何も経験せず、「あちこちと」回るにすぎない。~堅固で快適な家は、慣習の場所として雑音を受け止め、経験へと処理する能力を、もはや果たせなくなって居るように見える。~これは存在論的な問題である。今まで我々は、自分を個体であると思ってきた。つまり、人間はそれ以上細かく分けられない物で、空間と時間の中を動いて居るのだと思って来た。家は、そうした運動が集中される場所であった。家は~「現に立っているもの」であった。しかし「人間」という個体の運動は、ますます厳密になってゆく分析に服した。~人間は家を出て世界を経験し、経験したことを処理するために家に帰る。人間は世界を発見するために出かけ、自分を再発見するために帰ってくる。だが、人間は世界で自分を失い、家に帰って世界を失う。~我々が自分をインディヴィジュアル(分けられないもの)と考えることはもはやできない。それ以来、個人(インディヴィジュアル)の運動と、そのさい家が果たす役割について語ることは、もうできなくなったのである。だから、家を新しく投企しなければならない。新しい投企がなされるまでは、我々は家無しでしかない。』


2017年12月1日〜2018年7月1日大阪府大阪市中央区上本町の上町荘の中

その後結局日の出は雲が邪魔して見られなかったけれど、朝焼けが綺麗だった。フェリーで大阪南港につき、16キロほど歩いた。

途中、西成の三角公園のあたりを通った。とても緊張した。公園や路上の隅には色々な人の荷物が積まれている。ここの人たちはまさしく町を家として使っているんだろう。でも緊張はしたけれど、不思議なフィット感もあった。このままここに家をおいて、公園や路上にたむろしているおじちゃんおばちゃん達に話しかけていったらそれもまた面白そうだと思った。誰にも話しかけられなかったが、嬉しそうに笑いながらすれ違うおばちゃんがいた。

そして谷町にある上町荘に家を預けた。しばらくこの現場の家とはお別れになる。大坪さんと岩崎さんが迎えて家を上町荘の中に入れるのを手伝ってくれた。その後フジマキコクバンに遊びに行ってフジマキコクバンの1周年記念をゆるく祝った。僕の「たくさんのふしぎ」の読者の家族も遊びに来てくれた。3年ぶりに会う人が二人もいた。二人とも、三年前と同じ仕事を大阪で続けていた。また会いましょうと言った。

その日のうちに夜行バスに乗り、松本の方の家に帰ってきた。1ヶ月ぶりくらいか。そんでいまは移動生活のまとめのために松本のガストにいる。もうガストに入って4時間近く経つ。喫煙席にいるけれど、禁煙席の方が圧倒的に混んでいる。これから全国的に喫煙者は減っていくんだろう。喫煙者はますます肩身がせまくなっていく。サイゼリヤも全店舗で禁煙にするらしいし。

とにかくこれからしばらくは松本だ。年末年始とかそういう時節がもうわけわからんことになっているけどこれでいいんだろうか。「道路」も冬のうちに書き上げたい。出版とか発表のあてはないけどとにかく書き上げてみたい。京都で道路を描いたとき、今までないくらいに文章に没頭する時間があって、それはしんどくもあるけどものすごく濃密な時間で、同時に危険な時間でもあって、また制御もうまくできなくて、そうか小説家はこういう世界で戦っているのかと感じた。

志布志は灰色の街という感じだ。橋口さん達とドライブした時に思った。空き家らしき建物が多く寂れた雰囲気もありつつ、銀座街というスナック街とか居酒屋とか洒落たイタリア料理屋などお店もたくさんある。味わい深い看板を出している店もたくさんあった。「私はローラ・ハート♡」という名前のブティックも見つけた。かごしま屋という服屋で馬鹿みたいに安くてかわいい上着とスウェットを買った。

しかしいまこうして書いていて、車でドライブすると、スピードと視点の高さからか、街の全体感が掴みやすいことがわかった。家と歩いていると地面への視点ばかりになるので、街全体はつかみにくい。歩くスピードと車のスピードではつかめる空気が違う。車はでかい顔して走っているのは嫌いだが、乗ると面白い。建物から建物へと視点が動く。対して歩きだと(これは家を持たずに歩いていると、ということだけど)建物の細部から細部へ、そして次の建物の細部へ、という視点になりやすい。

昨日の正午ごろにキャンプ場を出発した。それまでは絵を描いたりしていたが、途中

「大崎町ナントカ地区のゴルフ場の建物にて火災が発生しました。地域の消防隊は出動してください。」

という町内放送があったが、その後1時間くらいして

「先ほどの放送は、火災ではありませんでした。」

と言っていた。

出がけに、キャンプ場のオーナーから

「志布志の人がみたら、松山城っていう白をベニヤ一枚で作ってるから、それに何か使えないかと思うんじゃないかなあ」

と言われた。詳しく聞かなかったけれど、松山城って愛媛県の松山城かな。志布志と何か関係があるのか。あとで調べたい。キャンプ場から2時間半くらい歩いて志布志フェリーターミナルについた。ここの住所は”志布志市志布志町志布志”らしい。読みにくすぎる。この港は30年くらい前に海が埋め立てられて整備され、近隣の大きな工場が1社以外はすべて移転して来たらしい。この「志布志-大阪」を行き来する航路はもっと古くからあるみたいだけど、親会社は3回くらい変わっているという。フェリーターミナル内で働いてるおじさんから聞いた。

いつも通り窓口に行き、家を見せて、これと一緒に乗りたいんだけど料金はどうなるか、という話をした。「ちょっとお待ちくださいね」と言われ待合所で本を読んで待っていたら女性が小走りで近づいて来て「料金はいりません。乗ったら、船に入ってすぐの階段の下のところにおかせてもらってブルーシートか何かをかけさせてもらいたいのですがそれでいいですか?」と言われた。

乗りこんだら窓口の女性スタッフ4人が駆け寄って来て、みんなで写真を撮った。「さんふらわあ美女軍団でぜひアップしてください」と言われた。

あと「フェリーさんふらわあステッカー」も2枚もらった。これは嬉しい。1枚はパソコンに貼った。1枚は家のどこかに貼ろうと思う。

一度乗ってその階段の下まで行ったのだけど、船員から「大阪の降り口の通路は、ここよりも狭いから家が通らないかもしれない」と言われ、一度降りて車両甲板のほうに案内してくれた。わざわざ床に毛布のようなものまで敷いてくれて。船員の男性(たぶんマネージャーみたいな立場の人だろう)が、車両甲板のスタッフらしい作業服の男性に向かって「大阪着いたら、”乗用車”、”バイク”、”家”の順番でご案内するように伝えて」と言っていた。半分笑いながら。

僕が乗っているのはさんふらわあきりしまという船で、93年に就航したらしいが来年で役目を終えて海外で第二の人生がはじまるらしい。来年からは新造船が就航するという。24年間鹿児島と大阪を往復し続けたこの船に乗れて嬉しい。

まもなく船は大阪に着き、僕は大阪の上町荘に家を預けて、松本の家に帰る。こっちは社会的な家だ。現場の家とはしばらくお別れになる。現場の家と社会的な家(もちろんこっちもある種の現場なんだけど)との往復生活がはじまって。もうすぐ丸二年になる。この二重生活というか、それを送っているということがいったいどうことなのか、ちょっとじっくり考えないといけない。冬の間は、awaiで「冬のあわい」というゆるめのスペースをやる。週末だけ飲み屋をやったり、手紙を書いたり自由律俳句をやったり。あとは文を書いたり、本を読んだり、京都のアートフェアに参加したり、世田谷のプロジェクト(第二の”現場の家”になるだろう)の実現の目処をたてたい。

もうすぐ日の出の時刻になる、これから甲板に出ようと思う。