時間があいてしまった。今は8月27日12時16分。21日のお昼前に堅田教会を出発。さらに北を目指す。まだまだこの巨大な琵琶湖の半分もきていない。教会の敷地で眠った時は気候も良く、周りも静かでよく眠れたはずだけど、疲れが溜まっていることは薄々感じていた。結局竹内牧師には会えず、置き手紙を書いてドアのガラスに貼り付けて来た。

11時25分

琵琶湖大橋交差点の前で黒いTシャツの関西弁のおばちゃんに「コーヒー奢ろか、一杯」と言われる。「金沢今日中につくか?途中どっかとまらんの?」「いやあ、今日中は無理ですね。あと2週間以上かかるかもしれないです」というような会話をした。

12時40分ファミリーマート和邇南浜店で休憩。

14時14分志賀清林パーク沿いを歩いてる時、細かい雨が降っていることに気づく。

そして夕方17時過ぎに北小松の駅近くにあるセブンイレブンに到着。すぐ近くにキャンプ場があることがわかり、そこへいった。キャンプ場は琵琶湖の目の前でとても気持ちが良い。日中も木陰になりそうな松林で、地面は砂地。僕のほかに二つだけ小さなテントが貼られていた。白人の男性二人がそこに寝泊りしているようだった。キャンプ場の事務所は「巡回中。すぐ戻ります」という張り紙が貼ってあり無人だった。どこか勝手に置いて明日説明すればいいかと思って家を置くのに良い場所を探そうと思ったら、駐車場にシートを広げてなにか宴会をやっている三人組(30代くらいの男性一人と40代くらいの女性1人と30代くらいの女性1人)から声をかけられた。「なにそれ」と。僕は「事務所人いないんですかね」と言ったら男性が「5時でここの人帰っちゃうから、大丈夫だよ。明日も7時半までに出発すればお金払わずに泊まれるよ。奴らは8時ごろにくるから」といろいろ教えてくれた。「ありがとうございます」と言って立ち去ろうとしたら30代くらいの女性のほうが「お腹空いてない?いろいろあるよ。食べ物。おいで」とお誘いしてくれたので「ありがとうあとで行きます。」と返す。家を落ち着かせ、荷物を降ろして一通り回りの写真を撮ってその宴会に合流した。

もう数時間前から宴会をやっているらしく、いろいろ食べ物が出ていて女性2人(30代くらいの人の方は特に)は結構お酒が入っているようだった。

「ラオス料理って食べたことあります?」

「いやあ、ないかと思います」

「いまラオス料理の会やってるんですよ」

と男性が色々教えてくれたのだけど、彼は小松さんという人でこのイベントは不定期に開催している「小松亭」というものらしい。この三人は飲み屋で知り合った飲み友達で、こうして時々集まる。40代の女性の方はチエさん(ジャリンコチエで覚えてと言っていた)といい、もう1人の女性はのんこさんと自己紹介してくれた。小松さんは大学で淡水魚の研究をしているうちに内陸国であるラオスにたどり着き、魚の研究もしているのだけどラオス料理がとても美味しいということで、ラオス料理も勉強している(数日前までラオスにいたらしい)。ラオスでは必需品というお米を炊く道具や食べ物をすり潰しながら混ぜるための鉢のような道具をつかって、持って来た食材で色々作流だけでなく、琵琶湖でその場で捕まえたというフナや鮎も調理し、他に亀の爪や生キクラゲなどが並んでいる。彼はなんとも不思議な居心地の良いオーラを醸し出していて、しかも僕と同い年だった。

小松亭はラオス料理だけじゃなくて寿司のケータリングなどもやっているらしく「お店は出さないんですか?」と聞いたらチエさんが「ちょうどその話もしてたの」と言う。小松さんは「やってみたいんですけどね」と。彼は近々お店を出しそうな気がする。

小松さんは僕の家を見て

「網戸はないんですね」

-「ないんですよー。つけたいんですね。夏は特に」

「網戸大事ですよね。」

とか、「リュックが上にぶら下げられるようになってるのは居住スペースの確保のためですよね。」など色々と鋭い指摘をする。彼も色々経験してきているんだろう。

「寝るスペースが大事なので、寝るときは、全ての荷物が木のフレームにぶら下げられるようになってます。」と言ったら

「僕もぶら下げるの好きなんですよ。このへんにS字フック落ちてたと思うんですけど、これ好きなんですよ。日本の家ってぶら下げられるようにできてないじゃないですか」

ワタリガニをちぎって色々調味料を混ぜたものを出してくれたのだけどそれが韓国で食べたカンジャンケジャンに見た目がよく似ていてその話をしたら、「ラオス版ケジャンみたいなもので『ヤム ガプー マー』といいます。ワタリガニサラダというような意味です」とのこと。ビールも買って来てくれて、僕が来たということでもう一度乾杯してくれた。40代の女性のほうは(「わたしは小松くんやあんたと違って一般人だからさー」と言っていた)高校生の娘がいて、美大に入りたがっているという。「美大楽しいですよ」と言っておいた。30代の女性の方は大阪の美大のテキスタイル専攻を卒業していまはOLをやっていると言っていた。しかし彼女はとても酔っていて、そのうち車の助手席と運転席にまたがって倒れ込んで寝てしまった。年齢差もある3人組で不思議な距離感がありつつ親しそうにしている。僕も居心地が良かった。小松さんは最後に「握手をしてください」と言って握手をして、名刺を渡してくれた。彼らはすっかり暗くなったころに1台の車で帰っていった。別れ際はとても軽く、のんこさんとはろくに挨拶もしなかった。彼らはそれぞれ大津、大阪、京都に住んでいるらしい。後で何もなくなった駐車場を見ると少し寂しい気持ちになった。

小松さんが帰り際に、「ここシャワーありますよ」と、シャワーの場所を教えてくれた。僕はシャワー室があるのかなと思ってついていったがシャワー室ではなく、野外の砂地の上に立って浴びれるシャワーが2つ立っていた。完璧な野外なので、ここで浴びるのは勇気がいる・・。

「水道水がでるようになってるので、石鹸の一つでもあればかなり快適にシャワーが浴びれます」と小松さんは言う。「詳しいですね」と言ったら「僕ここめっちゃ来るんですよ」と。また「そこの錆びた階段の四段目に蜂の巣があるので気をつけてください」と。

湖は荒れている。海みたいだ。台風が近づいている影響かもしれない。4年前に来た時は嘘みたいに波がなかったのに。彼らと別れてから銭湯を探したが近くにはありそうもなく(ここらは湖と田んぼと山と少しの建物と道路、という景色だった。民家もさほど多くない。オフィスに使えそうな場所もなく、セブンイレブンだけがWiFiスポットとして存在している。この環境でキャンプ代2000円は高い)、意を決してあの野外シャワーを浴びることにした。こんなあからさまな野外で素っ裸になるのは初めての経験だったけど、まわりはかなり暗くて人通りもなく、なぜか水温もちょうどよくて気持ちが良かった。ただ途中、例の外国人二人組がすぐ近くを通りかかった時は緊張したが、彼らは何を気にする様子もなく過ぎ去っていった。

翌朝、小松さんの言った通り8時ごろにキャンプ場の事務所のおばちゃんが現れた。活動を説明したらおばちゃんは

「すごいな」と一通り感心したあと、「ここキャンプ場は7月から営業しててな、泊まるとお金かかってしまうねん。これ、まあタープみたいなもんやろ。タープ張って一泊二日は2000円かかってしまう。どうする?」と聞いてきた。どうすると聞かれても払うしかないのではと思い「払います」と言ってお金を支払った。「今日は1日ゆっくりしてな」と言ってくれた。ちなみにおばちゃんが来る前にあの白人二人のテントは跡形も無くなっていた。

小松さんもお酒を買ったし、僕も頻繁にキャンプ場とセブンイレブンを行き来したように、このキャンプ場の運営はあの近所のセブンイレブンにかなり支えられていると思う。またあのセブンイレブンにもキャンプ場からの客がきているはずだ。このキャンプ場とセブンイレブンの関係のように、家と街の関係を考えるのが自然だと思う。それがとてもよくわかる敷地だ。

松林にはベンチがない代わりに座るのにちょうど良い石がいくつか並んでいる。そこに座って湖を眺めていると、トンボの羽音、クマゼミとツクツクボウシ、ニイニイゼミと、雀の鳴き声。それと波の音が聞こえる。他には何も聞こえない。

気温があがってきて、またなぜか鼻水が止まらないという身体の不調をきたし、キャンプ場で絵を描いたり日記を書いたりするのがしんどくなって来たのでオフィスになりそうな場所を探したが近所にはなく、あのコメダ珈琲オフィスに行こうと電車に乗って堅田駅まで行った。洗濯機もあるのでついでに洗濯もできる。

洗濯を済ませ、その洗濯物をバッグに入れて抱えたままオフィスで仕事をし始めたのだけどなんだか体調が優れず、どこか快適な環境で仮眠を取る必要があると感じたので2時間ほどしてオフィスを出て、近くのラブホテルに行った。3300円ほど支払って3時間休憩できるラブホテルに1人で入り、お風呂を溜めて入ったあと眠った。ラブホテルなのでダブルベッド。

起きてもまだぐったりしてしまっていて、フロントで、「休憩のつもりで入ったのだけどこのまま泊まるといくらになるか」と聞いたら「17700円になります」と言われたので「チェックアウトしますわ」と言ってチェックアウト。近くの餃子の王将で餃子定食を食べてから北小松の家に戻った。帰って夕焼けを眺めながら湖沿いを音楽を聴きながら散歩。

19時10分。

三拍子の波の音。火星と月。真っ黒いシルエットになった松を風が揺らしている。

水面が月の光で光ってるように見えるけど水面のその場所が光っているわけではない。この水面が光っているのは僕がここに座っているからだ。僕が座っているここと、月のあいだにある水面が光っているのだ。他の場所に立っている人にはこの光る水面も暗く見えているのだ。とても不思議だ。この水面の月の光はわかりやすい。

光源から地面を伝って伸びてくるという意味では、影に似ている。でも影とは違う。影は、誰からみても同じ場所にある。でもこの光は何故僕にしか見えないんだろう。世界は僕がいる場所と光との間に立ち現れるものなんだろう。音も似たようなものなのか?ここできこえるこの音。波と風の音。と僕がここにいることとの関係性は?

と、こんなことを考えながら(当時のメモ)ぼーっとしていたらすこし元気を取り戻した。やはり必要なことばかりやっていると体によくない。

翌朝。

もしかしたら気圧のせいもあるのかもしれないけどとにかくからだがぐったりしてしまっている。バイクで人を二人後ろに乗せて家に向かうのだけど全然家にたどりつけず、後ろに載せていた2人がいなくなって代わりに箱が積まれており、その中に入っちゃったかと思って重さを確かめたりした。「現実とも思えないのだけど夢にしては長すぎる」と思い、もしかしたら俺はもう死んでしまったのか?とさえ思った。起きたら真っ赤な朝焼けの光が、家の中に差し込んでいた。僕は琵琶湖にいた。波の音がする。

これは限界だと感じ、キャンプ場の事務所の人が来るのを待って(あのおばちゃんの他に麦わら帽をかぶった清々しい若い男の人も来た)、家をここで1週間ほど預かってもらえないかという相談を持ちかけたら「じゃあ倉庫に入れよう」と即快諾してくれた。

8時4分

「一泊延泊したので、お金払います」と言ったらおばちゃんは

「このあとすぐ出るんやろ?延泊のお金はええんちゃう?」といってくれた。

「そんなん背負って、あんたあれやわ。感心するわ。はいどうぞ。きいつけてかえってください。」

男の人の方は「お名前と連絡先聞いといていいですか。何かあれば連絡しますし。はい。で、引き取り予定が、、28。で大丈夫ですか。か29日。ほな、預かっときます。きいつけてください。 」と笑顔で。救われた。

家を倉庫に入れ、一旦東京に行く。休む必要があるのと、これまで完成させていないドローイングが多すぎる。色々作業もたまっている・・。展覧会が近づいている・・。

北小松駅で駅員に京都方面は何時ですかと聞いたら、時間を教えてくれたあと「今日は台風の影響で15時以降運休になるかと思われますので早めのご帰宅をお願いします。」といわれた。6日間は帰宅しないです。と思ったが、わかりました。と言った。台風をギリギリで避けた形だ。

例のコインランドリーで出会った秋田の金足農業はなんと甲子園決勝進出したらしい。秋田勢としては100年以上ぶりの快挙らしい。彼らはさらに延泊していることだろう。

いまオフィスとしては最高のコメダ珈琲にいる。大津堅田店。ここは電源もWiFiもあり、朝7時から夜11時までやっている。朝はモーニングセットもあり、何時間いても大丈夫な雰囲気も良い。昨晩も夜8時前から11時まで居た。

昨日は朝11時ごろになぎさ公園を出発。「堅田教会」を目指して歩いた。途中、日焼けした兄ちゃんに「すいませんなにやってるんですか」と声をかけられたので「これを家にして生活してるんです」などと歩きながら適当に答えていたら

「アサラト下げてるじゃないすか。僕もアサラトやるんですよ。」と腰にぶら下がっているアサラトを見せてくれた。驚いた。アサラトについて食いついてきた人は彼が初めてだった。

「えー!本当ですか!これ広島で・・」と言ったら

「メンダーから買ったんですか」と、メンダーという名前にすぐにピンとこなくて

「買ったっていうかもらったんですよね。」

「だれからですか?」

「だれだったかなー。名前。広島の結構上手い人ひとで」

「メンダーって名前じゃないかな。」

「あ!メンダーさんです!知ってるんですか?」

「友達ですよ。めっちゃ友達。」

「えー!よろしく言っといてください。」

「写真撮って送っていいですか?」
「お願いします!」
「頑張ってください」

と言う会話。メンダーさんというは広島のギャラリーGで出会ったアサラトがめちゃくちゃ上手い人で僕にアサラトを教えてくれた。

14キロくらい歩いて堅田教会に到着。堅田教会は4年前僕がこのプロジェクトを始めて1年目に、金沢から京都になんかしている最中、原発事故で福島から大津に引っ越して来た夫婦に紹介してもらった竹内さんという牧師さんがいる教会。ウイリアムメレルヴォーリズという建築家が設計した小さいけどとても良い建築物でもある。竹内牧師は熱い人物で、ヘイトスピーチに対するカウンターデモをやったり、「歴史上最も人を殺した宗教はキリスト教だ」と、キリスト教を批判的に学ぶ勉強会を教会の中で開いたりしている。

教会に着いたのは16時ごろだったのだけど誰もいない。すぐとなりに公文式の教室があって、そこで女性に「牧師さんて今日教会に来られるかどうかわかりませんか?」と聞いたら「わからないけど、あなたの名前だけ聞いときましょうか」と言われたので名前を伝えて、4年前に来たことがある、と、僕の活動の話をしはじめたら「えー!」とかなり興味深そうに聞き始めてくれたのだがもう一人、つまらなそうなおばさんが教室からでてきて、早く帰ってくれと言わんばかりの雰囲気で「扉が開いてなければいません。夜も帰ってくるかもわからない。うちは(教会の一部の)場所を借りているだけで、全然教会とは関係ないので」と言われたので引っ込むしかなかった。教会の入り口に「もし教会に戻られたら下の電話番号までご連絡いただけますか」という旨の置き手紙をして、お風呂に行った。ここはお風呂場が遠い。バスを使って琵琶湖大橋を渡り、みずほの湯という温泉へ。お風呂場までの交通費だけで行き330円帰り320円。風呂台は600円。でも良い温泉だった。大展望露天風呂みたいな名前の浴室があるとのことなので行ってみたが4畳半くらいの大きの浴槽だったが。お風呂から帰って来ても竹内さんが教会に来た形跡はなく、このオフィスで仕事をしてから家に戻ってもまだ誰もおらず、僕はそのまま眠った。そしていま朝の10時半だけどまだ連絡はない。このまま会えず、なにか手紙を残していくしかないかもしれない。

A-Qusビル(あちこちの看板に「アーカスビル」という表示がありなんのことかと思ったがラウンドワンが入っているA-Qusのことだった)のロビーの椅子に座って日記を書いている。オフィス(ロッテリア)のオープン待ち。さっきまで琵琶湖浜大津港旅客ターミナルのオフィスでパソコン作業をしていて、なぎさ公園に置いてある家の様子を見に戻ったら「ここは駐車場ではありません。至急移動してください。大津港指定管理者 琵琶湖汽船株式会社」という張り紙が瓦に貼られていた。「すみません11:30までには移動します」と書き加えてきた。

昨日の敷地は琵琶湖畔なぎさ公園という公園。お昼の1時半ごろにnowakiをでて山科を通り琵琶湖方面へむかい、「湖の駅」という施設が地図に表示されていたのでそこに見当をつけて歩いてきたが、それはほぼROUND1 のビルだったので交渉する気になれず、このなぎさ公園がとても気持ちが良いので敷地にした。家の近くに水場の跡はあるが塞がれている。座る場所には困らない。トイレもA-Qusもしくは周遊船の港(琵琶湖浜大津港旅客ターミナル)のビルのトイレがある。お風呂場もオフィス(ふたつある)も近い。昨晩は気候も気持ちよかったのでよく眠れた。時々合唱するカエルの歌(カエルはなぜか合唱する)に囲まれながら。ただし公園なので明け方に散歩しているご老人に起こされたりする。5 時半ごろに話し声で起こされた。

一昨日も引き続きnowakiに泊まらせてもらったのだけど、二人が晩ご飯を作ってくれた。なにか返さなければと思ったので出発する前にnowakiを描いたドローイングをプレゼントした。僕はそのコピーをとった。一昨日のお風呂場は前日の孫橋湯ではなく柳湯。16:30-00:00。昨日の朝洗濯しにnowakiから10分くらい歩いたところにあるコインランドリー(洗濯300円。乾燥8分100円)に行ったのだけど中・高校生くらいの学生によって占拠されており、混み合っていて使えなかった。一旦nowakiに戻り、絵を描いてまたお昼前にいったら今度は東北訛りの男性二人組が使っていて2台しかない安い洗濯機が使えず、コインランドリー内のベンチで絵を描いて待った。男性たちが終わったので「洗濯機、使っていいですか?」と声をかけたら、「すみません」と言って、「甲子園に勝っちゃって帰れなくなったんですよ。ベスト4に残っちゃって」と言う。「え!おめでとうございます!どこですか?」と聞いたら秋田の高校らしい。のちに調べたら金足農業高校とわかった。言わずにはいられない、という感じが伝わったきてこっちも嬉しくなった。もしかして朝学生さんたちがたくさん使ってたのも、といったら、そうです。使えなかったでしょう。(すいません)と、みんなこの辺に泊まっているらしい。彼らは東北訛りで乾燥機と、自動洗濯乾燥機について話している。「結局1時間くれえかかるな」

(第二オフィスに入ってロッテリアハンバーガーセットを注文して席に着いた)

洗濯をすませ、nowakiに戻って出発。琵琶湖方面を目指した。14時52分にセブンイレブンで昼飯休憩。コンビニの前で腰の曲がったおばちゃんに、その時履いていたアルマーニエクスチェンジの植物柄の水着を「かわいいズボンですなあ。こんなんあるんですか、どこで買いはったんですか。」と突然褒められた。ズボンをひっぱりながら。大阪だったかなと言ったら、ああ、この辺じゃこんなのは買えませんなあ、と言って去っていった。衝撃の体験。あのおばちゃんはいろいろなところで人を笑顔にしながら生きているに違いない。セブンでそうめんを買って食べようとしたのだけど食べる椅子がない。近くのバス停の椅子しかない。バスがこないことを確認して座って食べる。

夕方になぎさ公園に到着。少し絵を描いてからお風呂場(湯~トピアきりしま)へ。晩御飯はA-Qusに入っているPダイニングというオムライスの種類が豊富で安いレストランで食べた。A-Qusの隣には琵琶湖ホテルがあるのだけど、その中にあるビュッフェレストランのGoogleマップ情報に「LGBTQフレンドリー」という表記が。

夜の琵琶湖畔の公園にいる。風もあってTシャツでは肌寒いくらいの気候。気持ち良い。秋の虫と時々カエルの大きな声と、控えめな水の音がする。琵琶湖ホテルという、オレンジ色の光がとても綺麗な窓がたくさん並んでいる琵琶湖ホテルというホテルを背に、琵琶湖を前にしてベンチにちょうど良い高さの石垣に座ってパソコンを開いてこれを書いている。

こんなに気持ちの良い街なのに、街中は人が少なくて、人は湖の前に建てられたラウンドワンに集まっている感じだ。(とはいってもラウンドワンにもそんなに大勢いるわけではなさそう)。食べ物も安くて、観光地化されていなくて良い。思えば十和田湖も諏訪子も似た雰囲気だった。

筋肉痛がきている。やっぱりしばらく歩かないとちゃんと筋肉痛になるらしい。全身が重い気がするけど、主に足にきている。HUB三条木屋町店で久々のギネスを飲みながらこれを書いている。

遡って16日から振り返らなくてはいけない。書かないと経験が終わらない・。のだけど、正直思い出すのにすこし苦労する。まだ2日前のことなのに。16日の朝にはたしか家は御茶屋御殿展望広場にあって、僕はGOENゲストハウスをチェックアウトした後、枚方における第二オフィスに行ってすこし仕事をしてから家に戻って12時前には出発した。もうすこし北にいったところに淀駅という駅があり、そのエリアには寺院がたくさんあったのでそのどこかで敷地を借りようと見当をつけて歩き始めた。

出発してすぐに雷鳴が聞こえたらしい。『1147雷鳴。パラパラと雨』とメモが書いてある。でもその後大振りにはならなかった。ここまで幸いにも、豪雨には見舞われておらず、靴がびしょ濡れになって不快な思いをするような羽目にはなっていない。

次のメモは『139楠葉モールで休憩。椅子。曇っているが雨は降ってない。ゴルフ場には人がたくさん。モールにはWiFiあるが途切れて使えない。お湯があるのに椅子がないということはカップ麺は車で食べる人向けに売られているということになる。』と書いてある。樟葉モールには座れる椅子がたくさんあって助かった。が、休憩のときに欲しい食べ物や飲み物の店はなくて、服屋ばっかりだった。仕方がないのでモールを出て、近所のローソンにいった。ローソンには飲み物も食べ物も売っているが、椅子がない。なかなか良い条件というのは揃わないものだ。ローソンでカップラーメンを買ってお湯を入れて、店の外のなんかオレンジ色のL形の小さな車避けみたいな手すりに座って食べた。ごく最近、スーパーマーケットライフでも同じような姿勢でものを食べたような気がする。

次のメモは『1435国土交通省のなんか管理の人と少し話す。「淀川沿いの下の方歩いた方が安全やで。車もないしな。ここは、まあ広くはなってるけど車あるし。」と』というもの。これを言われるまで、僕は淀川沿いの車道(歩道がないので仕方がない)を歩いていた。淀川沿いはワンドという緑地が豊か(淀川資料館で学んだ)で、その緑地の中に車道の広さを持つ道路がある。ここは国土交通省の車(淀川河川事務所)のような関係車両は走れるけど一般車は走れない。河川事務所の人にこう言われてからそこを歩いた。ここは車も走っていないけど、お盆のこの時期、歩行者も自転車もほとんど通らず、ただひとりでもくもくと家を背負って緑地の中を歩いた。

店内にBlurのCountry Houseが流れはじめた。好きな曲。

多分14キロくらい歩いて、淀駅という駅のあるエリアにたどり着いた。家を長円寺というお寺の前の道路においてお寺にいこうとしたらすぐにそこの若い住職さんが車でお寺に帰ってきて、その場で交渉ができた。

「いまお盆の時期で、明日送り盆の行事があるのでうちは無理ですね」と言われた。「ちょうど年に一度の行事でして・・」と。

僕は「そうですよね。お盆はお忙しですよね。どのお寺もそうですかね」と聞くと「この地域のお寺は難しいかなと・・」というようなことを言われた。わかりました、と言って次のお寺にいこうとしたら「このどうろ、大きな車も通るので、このいえが置いてあるとどうだろう・・」というので、「一時的にでもおいてあったらまずいということですか?」と言ったら「そうですね、どうでしょう」というようなことを言うので、なんか回りくどい人だなと思いつつ「じゃあ下の緑地(淀緑地という公園のようなところ)に置きます」と言ったら「そうですね。そこなら、誰も何も言わないかと」と言われた。多分彼はここで眠るつもりだと思っている。

家をその緑地に移し、長円寺の隣にある東運寺というお寺に行った。チャイムを鳴らしたら若い住職さんが出てきた。自分の活動の説明をして、「寝る敷地を探している」と交渉するのだけど、その最中から明らかに隣の住職さんとは違う表情をしている。なんとなく、顔でわかる。前の住職さんは、説明の最中からあきらかに少し引いていた。こんどの住職さんは説明がおわったら「そうですね、どこがいいかな。ちょっと行ってみましょうか」と言って外に出てきてくれた。

本堂の目の前の、綺麗な石が敷き詰められた場所の前を「ここはちょっと、人の出入りがあるので」と言いながら通り過ぎ、すこし奥まった、お墓と淀緑地の間の砂利道に歩いて行って「この奥なら大丈夫です。すこし地面が斜めなんですけど・・」と。「どこでも大丈夫です!ありがとうございます」と言って、最終的に竹林とお墓の間の砂利道というか草地というか、そんな場所に決まった。家を持ってきてそこに置き、住職さんからすこしこのお寺の話をきいた。このお寺の前の道は戊辰戦争で幕府軍が逃げた道らしく、ここらのお寺は野戦病院のような機能を果たしたらしい。またこの寺院は江戸時代始め、350年くらい前に建立されたお寺で、現在の住職が18代目。また奥さんも出てきて「竹林のそばだから蚊がすごいでしょ」と言って火をつけた蚊取り線香をくれた。また今日は送り火(あの有名な大文字焼き)の日だということも教わった。宇治川からは見えないみたいだけど、桂川の土手からは、ほんの少しだけ見えるかもしれないと言われた。この町はふたつの川に挟まれている。

近所にお風呂場がなかったので淀駅まで行って京阪電車にのって一駅の中書島に行った。ここは坂本龍馬が襲撃された寺田屋がある街ということで、駅前には坂本龍馬の大きなパネルが飾ってあった。龍馬はここで襲撃された後、妻と一緒に三十石船にのって大阪湾に下ったらしい。淀川資料館で勉強した知識が早速生かされた。お風呂場は430円。新地湯。お風呂に入っているあいだ、突然の大雨があったらしい。脱衣所で番頭さんと客が話していた。僕がでたころにはもう外は暗くなっていて、雨もあがっていた。淀駅に戻って、駅近くの宮前橋という淀川にかかる橋に行って大文字焼を探した。20時になったらずっと北のほうの山にオレンジ色の火のラインがすこし浮き上がるのが見えた。文字には見えなかったけど橋には僕の他にも十五人くらいの人が立ち止まって、というかたぶん家から出てきてそのオレンジ色のほんのちょっとの線を眺めていた。オペラグラスの人もいた。

送り火を見た後、くるみという、ちょっと入りにくいけど非常に長い歴史を感じる小さな洋定食の店に行ってくるみ定食(カツとエビフライとちょっとしたサラダと味噌汁と漬物とご飯)を食べる。店の外観の印象とは全然違ってとても美味しくて盛り付けも丁寧でしかも550円と破格の値段だった。創業40年以来値段を変更していないらしい。とても良い店だったので「近所に欲しい!」と思ったが、すでに近所の店だった。家に戻って横になった。夕方が嘘みたいに蚊はいなくなっていた。彼らにも労働時間があるのだ。床下も草だし斜めだしちょっと厳しい敷地かなと思ったけど、横になって見たら快適で快適で、驚いた。というのも、気候がとても気持ちよかった。湿度もなく、気温も少し涼しいくらいで寝付くには最高の条件。敷地にとって一番大事なのは気候だ。気候さえよければ草地でも斜めでもあまり問題にならない。

例によって早朝に目が覚めた。「6時半、一羽の鳩の声が聞こえてくる。ホイッホホーホー」というメモがある。また寝て、8時ごろに置きた。

ここは近所にオフィスになる場所がない。起きてコンビニでご飯を買って食べ、帰ってきて本堂の前に立ってお寺の絵を描いていたけど原因不明の鼻水のせいで集中できず、結局完成できないまま10時ごろにお寺を出発。京都市内を目指す。前日のうちに、最近京都でお世話になっているnowakiのきくちさんと筒井さんに連絡したら「うちは大丈夫ですよーお布団用意しておきます」という嬉しい返事がきていた。nowakiを目指す。

もくもくと歩いたので特にメモも残していない。ただひとつ

「後ろあいてんで、とおばちゃんに言われる。1717。三条駅の近く」

というメモが。後ろのドアが開いていることに、歩いている僕は気がつきにくい。最近ドアノブの調子が悪いというかほとんど壊れてしまっている。直さないと今後も歩いてる最中にパカパカ開いてしまう。

東雲寺からまた15キロくらいあるいてnowakiに17時半ごろに到着。ちょうど昨日の今頃。二人と一匹(猫)が迎えてくれた。この猫はゆきちゃんと行って、看板猫として有名で、「ねこづめの夜」などの絵本作家の町田尚子さんが作ったLINEスタンプまであるうえにアーティストの池田剛介さんもゆきちゃんファンらしい。

nowakiの近くの孫橋湯というお風呂場でお風呂に入って髪もちゃんと乾かして、nowakiに来ていたお客さんとnowakiの二人と僕の4人で中華料理屋にいってご飯をたべ、帰って来て筒井さんと音楽の話などをしてから眠った。

そして今日、nowakiの二人と一緒に喫茶いのんという、花屋さんがやっている鴨川沿いのカフェでモーニングを食べて、僕は京都でオフィスといえばここしかない、という上島珈琲寺町店にいって歩いたルートを地図に起こす仕事をして、ここに場所を移してこの日記を書いている。もう頼んだギネス1pintが無くなりそう。これからnowakiに行って絵を描かねば。

誠光社の堀部さんに鯖街道を忠実に通ったら面白いんじゃないかといわれたが、鯖街道というのは若狭湾で取れた鯖を今日に運ぶルートで、いくつかルートがあるらしく、そのうちまっすぐ若狭にたどりつく若狭街道というルートは、ずっと山道で街もなく、僕には厳しそうだ。西近江路という鯖街道ルートを昔はとったらしく、今回もそれでいく。

枚方の第二オフィス(サンマルク)のテラス席にはキャラの濃そうな地元のおばちゃんとおじちゃんがたむろしている。

どうも気温というのは、夜中の1時くらいから明け方にかけて一番下がるみたいだ。0時くらいまでは昼の熱気が残っている。昨日は一昨日よりも湿度が低く、割と眠ることができた。5時ごろに一度起きて、いつもなら二度寝をするのだけど、5時45分ごろにラジオ体操のために集まってきた数人のご老人たちの話し声で眠ることができず、そのまま6時半には起き上がって家を出た。かつての将軍たちは、夏にここで眠れたのか?

イートインコーナーのあるファミリーマートで朝ごはんのハンバーガーを食べ、いまは枚方T-siteというスーパーお洒落ビル1Fに入っているスターバックスコーヒーでスターバックスラテを飲みながらこれを書いている。なんとこのビルは3階にもスターバックスがあり、ビルのなかどこへでも飲み物を持って歩いていいような雰囲気が醸し出しされている。なんというお洒落さだ。建物の外観だけ見るとコンテナの形をしたガラスの大きな長方形のキューブがいくつか折り重なってて木製のルーバーのようなものも付いているので藤本壮介と隈研吾という感じの見た目だけど竹中工務店だった。ティーサイトは座るところがある。ソファとか、CDの試聴機とか。座るところがあるのは本当に助かる。素晴らしいことだ。街には座るところがないのでいつも困っている。いつも座るところに困っているような気がする。

雨が降っている。ゲリラ豪雨とかではなく、パラパラと継続的に朝からずっと降っている。今日まで3日間連続で動いてきた。今日は動くのをやめて休もうかと思う。すぐ近くにGOENという名前の宿があり、そこで泊まろうと思った。ただ家の置き場所が問題だ。宿の人に相談する必要がある・・。

昨日はマクドナルドを出た後、どうにも眠くて歩く気力が湧かなかったのでどこかで仮眠できないかとおもって街を探したらコミックバスターというネットカフェを見つけた。仮眠室と呼ぶ。仮眠室は3時間1200円ですこし眠り、それから歩き始めた。とりあえず淀川資料館を目指した。

特に暑い日だった。日差しもあり、前日までと同じように自動販売機やコンビニで飲み物を補充しながら常に、1本は飲み物をもっているような状態で歩き続けた。スポーツドリンクか、水かお茶と梅干しの組み合わせ。ただ淀川の川沿いを歩いてる時、雷の音がきこえてきて、空を見たら、上は意識しないと見ないので気がつかなかったのだけど、厚みのありそうな雲が右から、つまり南東の方から近づいていた。そのうち稲光も。昼に見る稲光は久々に見たような気がする。そして気温が下がってきた。道路は日陰になったり日向になったりしていたが、だんだん日陰ばかりになってくる。何故か車や自転車の行き来も減ってくるような気がする。

しかしラッキーなことに雨には至らず(あとで公園のおばちゃんの話を聞いたら大阪市の方はすごい雨だったらしい)、1450の時点で雨雲だったエリアは大方抜けた。ほっとした。ローソン摂津鳥飼中二丁目店でおやつ休憩を挟んだ。はちみつパンと梅干しとお茶。1520分には日がさしてきた。

17時くらいに資料館に着いたのだけど資料館は16時まで閉まっていて、隣の淀川河川事務所に行って受付の女性に

「淀川資料館て閉まっちゃいましたか?」

「そうですねえ。3時45分入場締め切りですね」

「明日はやってますか?」

「はい。やっております。是非」

「じゃあ明日伺います。それでひとつお聞きしたいのですが、僕こういう自作の家を背負って、絵を描きながら歩いて回っているんですけど」

「はあ。はい」

「このあたりで今日この家を置いて寝る場所を探してまして」

「はい」

「この事務所の敷地の駐輪場とかお借りできないかなという相談なんですが」

「はいはい。はあ。ちょっとお待ちくださいね。総務のものを呼びます。」

と、総務の人に電話してくれ、しばらくしたら総務部のおじさんが女性を一人引き連れてやってきた。

僕は同じ説明をしたが

「はい。申し訳ないんですが、ここは国の土地なので、寝泊りということはできないんです。」

「はあ。そうなんですか」

「公共の場所ですので。はい」

「わかりました。なんとかします」

交渉失敗した。まあ完全に予想通りだった。「公共の場所だから」という決まり文句。釜山となんでこんなに違うんだと思ったけど、釜山は市立現代美術館の人が交渉してくれたので許可が出たのかもしれない、と思い、すぐに21世紀美術館の齋藤さんに電話して

「今月の最後の日あたり、金沢市役所の敷地に一晩村上が眠っても良いか許可をもらってくれませんか?」

とお願いした。これで許可が出るかどうかで金沢と釜山、ひいては日本と韓国の公共施設の考え方の違いが明らかになるはず。河川事務所がダメだったのでそこから300mくらい離れた万年地山と呼ばれる山の上にある神社に交渉しにいった。日本で本当に公共の場所なのは、役所や公園ではなくてお寺と神社だ。

神社のほうはインターホンを押したら女性が出てきて、事情を説明したら

「ああ、ちょっと待ってくださいね」

と引っ込んでいって、今度は神主さんらしき男性が出てきて

「神社の中はね、実際困るんですけど、この下に梅林がありまして、その向こう側のあたりがいいですよ。公園みたいな。水もあるし、屋根もある。」

「そうですかあ」

「境内で寝泊りはね、昔ちょっと問題があったんです。夜中マラソンしてる人とかがみて警察呼んだりもするかもしれないし・・」

と神主さんは笑っている。「とにかく一度場所を見てみてください」

「わかりました。ご親切にありがとうございます」

とのことで、昨日の敷地は御茶屋御殿展望広場という小さな公園だった。静かで、淀川の向こうの高槻市のほうまで見通せるくらい見晴らしが良くて綺麗な場所。かつて豊臣秀吉が建てた御茶屋御殿の跡地らしい。ここにお茶屋を建てる気持ちもわかる。かつては秀吉もここを訪れたであろうし、徳川2代将軍秀忠と3代将軍家光も滞在したと、看板に書いてある。他にお寺もあったのだけど、お盆で忙しそうな雰囲気だった上に僕はとても疲れていたので交渉する気力もなかった。

家とともに広場に入ると、東屋の下のベンチで女性二人が座って話していた。少し話した。「ちょうどノマドワーカーとして働き始めようかなという話をしてたところなんですよ!」と興奮していた。そのの二人が帰った後、おばちゃん三人とも立て続けに話した。ここらは近所の人が散歩(犬も)がてら来る場所らしい。「ここで寝ます。一晩お邪魔します」と、言ったら「ここ涼しいからいいですよ。淀川からの風がくるからね」といわれた。この言葉に救われた。この公園は大丈夫そうだ。上の神社が守ってくれますよ。とも言われた。「あとお風呂があればいいんだけどねえ、前はそこにあったんだけどこのあいだの地震で煙突が崩れちゃって、、、」とも。優しくて気が回るおばちゃんだ。「このあたりの人は穏やかだから大丈夫ですよ」。ちなみにそのおばちゃんは昔北千住に住んでいたことがあるらしい。「あの橋がつながる前ね」と。どの橋だろう。

そのとき、ここでは毎朝6時からラジオ体操があることを教えてもらった。「これは早起きを覚悟しなければ・・」と思った。「ラジオ体操ですか・・みんなびっくりしますね」といったら「いいじゃない」と。この公園は本当に大丈夫そうだ。こういう公園だったらこれからも敷地にしてみたい。ラジオ体操は嫌だけど。

ここまでの日記はスターバックスで朝書いた。いまはサイゼリヤで書いている。チェーン店を渡り歩いている。チェーン店はなにか文章を書いたりすこし時間をとって作業をするには適している。サイゼリヤはオフィスのつもりで入ったわけではないのだけど。パスタを食べたはいいのだけどサイゼリヤは厨房で火を使わないで料理を提供しているらしいのだけどこれがどうも今日は体に合わない・・。なんか個人がやっている店に入ればよかった・・。店員も機械的に客をさばいているだけだということを、今日は特に強く感じる。自分が人間なのかどうか怪しい気持ちになってくる・・。さっき昼寝して起きたばかり(昼寝と言ってももうすぐ21時になるのだけど)なこともあるのか。起きてすぐにサイゼリヤは精神によくない。気持ちが上向かない。

日記の続きを。御茶屋御殿展望広場に家を置いてまずお風呂に入りたかったので調べた。最寄駅の枚方市駅の近くに天の川温泉というお風呂場があると出てきたので行ってみた。敷地は高台にあるので「街に降りる」という感じがする。眺めの良い山手から、低俗と言ったら言い過ぎかもしれないけど大衆的な場所に降りる感じ。デ・ゼッサントのような気持ちだ。そう、敷地として淀川の河川敷もゲリラで使ってしまうことも考えたが、「住むなら山手の方がいい」と思った。駅近くにも公園はたくさんあるけど御茶屋御殿展望広場とは雰囲気が全然違う。下の公園は、人がすむようなところではない。

家から街に降りる途中にはちょこちょこ、洒落たパン屋や民家を改装したカフェなどがある。個人のお店。でもカフェはお盆休みなのか昨日も今日もやっていない。パン屋は昨日はやっていたような気がする明日やっていたら入ってみよう。

街に降りて、間取りをすこし確認してみた。というかトイレを探した。駅の当たりはかなり大衆的に栄えているので、トイレはたくさんあった。ここまでが10分弱かかるのだけど。

トイレ。家から近い順に

・ファミリーマートのトイレ おそらくここが一番近いトイレ。24時間。

エル枚方という駅の高架下をつかった商業施設の公衆トイレ。ここも綺麗だった。おそらく1030から2300すぎまで使える。

岡東中央公園という、茶髪のお若い方々が異常にたむろしていた公園にある公衆トイレ。汚いけどたぶん24時間。

t-siteのトイレ。例のお洒落ビルの公衆トイレ。7時から23時まで。ここも綺麗だった。

トイレが4個もある。

そしてお風呂場に着いたのだけど、そこは駐車場になっていた。隣の宮之阪駅というところにもうひとつ、宮之阪温泉というお風呂場があるらしいので阪急電車に乗って宮之阪駅へ行った。お風呂のため家を残して体だけ電車に乗るときには若干の違和感を感じる・・。

お風呂は440円。めっちゃ人懐っこそうなおばちゃんが番台にすわっている。若い人もご老人も中学生くらいのグループもいる。活気のある街のお風呂場という感じ。風呂に入る前にプロテインを脱衣所で飲んでいるお兄さんにたいして番台からおばちゃんが「それ、飲むの??なにそれ。からだにいいの?」と聞いていてお兄さんは「いま運動してきたから」と答えていた。文字に起こすと噛み合っていないけどその場では会話は立派に成り立っていた。

お風呂に入った後t-siteの椅子(タダで座れる、この国では数少ない椅子のひとつだ)に座ってツタヤのCD貸出コーナーでCDをすこし視聴したりして夜の余暇を過ごした。本当はオフィスで仕事ができればよかったのだけど1日中なにか制作をするのは無理らしい・・。

閉館までそこにいて、家に戻って0時過ぎに就寝。冒頭にも書いたとおり、暑かったけど風があったので比較的眠れた。ラジオ体操でおばちゃんが5時45分ごろに集まってきたときに外から

「人が寝てはるんちゃうかな。でも公共の場所やから喋らせてもらいます。」

と声が聞こえた。またラジオ体操の前に

おばちゃん「今日も」

その他のご老人方-「今日も」

「良い天気」

-「良い天気」

「心は」

-「心は」

「晴れ晴れ」

-「晴れ晴れ」

と、みんなで掛け声?の復唱をしていた。。

おばちゃん今日は815日。」

「敗戦の日」

とも。敗戦の日。だ今日は。

そして冒頭に戻る。スターバックスで途中までこの日記を書いたときに雨が降っているのを見て、今日は歩くのやめようと決め、また涼しいところで眠りたかったのでこれは休憩しようということでブッキングドットコムでそのスターバックスからすぐ近くにあるGOENというおしゃれなドミトリーの宿を予約した。普段は2000円を切るやすい宿らしいけどお盆価格で4300円。

その後淀川資料館にいった。とても面白かった。三十石船という江戸時代の客船にまつわる展示、昔から淀川水系は洪水に悩まされ続けてきており、その治水の歴史の展示、淀川に住む生き物たちについての展示など。

三十石船のセクションで、「淀川両岸一覧」という1862年ごろに発行された、淀川の景勝地を絵で紹介する観光案内の本が2ページだけ展示してあったのだけど、どちらのページも現代人の僕には「家と木と川があるところ」が描かれているとしか思えず、この二つの「景勝地」に違いを見出し、楽しんでいた昔の人々の感性が羨ましくなった。

また知らなかったのだけど、淀川は何度も治水のための大規模な工事が行われていて、特に明治18年の水害がきっかけではじめられた工事は、新しい淀川をつくるという大工事だった。淀川はいまでこそ割とまっすぐ大阪湾まで流れ込んでいるけどもともとはかなりくねくねと曲がりくねった川で、しかも400以上の水路が流れ込む琵琶湖から、たったひとつ瀬田川という川しか流れ出ていないらしくその瀬田川も淀川の上流にあたるので淀川にはとにかく氾濫が多かったらしい。大正6年の水害を堰き止めた過程を説明する文章が秀逸だった。

『決壊復旧工事は減水を待ち、10月6日ごろから始められました。水深が深いところでは30尺(約90m)もあったため、長さ13尺から30尺の大杭を打ち、杭の周りに土俵や粗朶を積み込む予定でしたが暴風雨のため工事が中断。12日から工事を再開したものの、決壊口からの水の流れが早く難航しさらに24日からの暴風により工事中の締め切り箇所押し流されてしまいました。

こうして2回目の堰止工事では、決壊箇所よりも住居側に下がったところで杭を打ち堰止することとなりましたが、水の流れが速く一気に塞き止める必要がありました。10月28日から粗朶や土俵などの準備を整え、何千人もの人手による決死的な作業が行われ11月7日、ついに堰止に成功。堤防が決壊してから実に38日ぶりのことでした。』

淀川資料館をみたあと、家にもどり荷物を取り「16日の12時までに動かします。この家については「家をせおって歩く」で検索」と書いて電話番号を添えた紙を屋根に貼り付けてGOENにチェックイン。そこでシャワーを浴びて洗濯をすませて、仮眠して、今に至る。

08152131

今はまだ6寺半なのだけど起きてからもう1時間は経っていて、阪急上新庄駅近くのマクドナルドにいる。暑さで寝苦しくて早朝に目が覚めてしまい、暑い家にいるのも辛いので起きてしまった。昨晩、このマクドナルドが24時間営業で電源があることを確認していた。エッグマックマフィンを食べたら眠くなってきた。多分入ったばかりであろう初心者マークをつけさせられた女の子の店員が付きっ切りで、熟練の雰囲気を醸し出している男性の店員からレジでの接客の指導を受けていて、男性が一人で作業をし始めると所在なさげにレジ前に立って画面をじっと見つめている様子をちらちらと見ながらこの日記を書いている。

昨日は朝9時ごろには起きて、絵(この事務所の建物)の続きを描いた。途中で下の作業場のシャッターが開く音がして、誰から木工の作業をする音が聞こえてきた。絵を完成させ、近くのローソンでその絵のコピーを取り、朝ごはんのおにぎりを買って事務所に帰ってきたら昨日は会わなかった男性が二人きていたので挨拶した。一人はドットの職員で、もう一人は東北からインターンにきているらしい。彼らから「夏休みの自由研究的な制作(大工が自分のために作ったような、小ぶりな踏み台を図面に起こしてレプリカを作ろうとしていた。大工のような技術はない自分たちが、彼らの仕事を真似した時に生まれるものを検証したいらしい。他にも座卓と囲碁盤を作るという)」の話を聞きながら買ってきたおにぎりを食べ、11時半ごろに出発。さらに北を目指す。

とにかく毎日暑いので、敷地は銭湯のそばが良いと思って北に適当な距離歩いたところにある「満月」という銭湯を調べ、とりあえずそこに見当(とりあえず歩き始めるために、目的地の見当をつけることにしている)をつけて歩いた。その銭湯の敷地を借りられたら一番いいが、もし無理でも近所に行くつかお寺もありそうだった。2,3時間くらい歩いたところで、自転車をひいて歩きながら中学生くらいの少年が、MARVELの派手なカバーをつけたiPhoneのカメラをこちらに向けて録画しながら「なにやってるんですか仕事ですか?」と聞いてきた。僕は一瞬「仕事」とはなんだろうと考え、僕の思う「仕事」と少年の思う「仕事」の定義が一致してなければこの質問には答えても意味がないな、と思ったがすぐにめんどくさくなって「仕事です。マーベル好きなんですか」と聞いたら好きです、と言うのでなにが好きですか、と聞いたらスパイダーマンですというので、ああスパイダーマンかと思って、僕はアイアンマンが好きですといった。かっこいいですよねと言われた。本当はガーディアンズのロケットが好きだがスパイダーマンという少年の言葉を聞いて、何故かそう言う気力が萎えてしまって適当にアイアンマンとか言ってしまった。どっからきたんですか」というので「南から」と言ったが「みなみ?おおさかですか?」というので「もう四年くらいやってるからどっからきたかとかじゃないんですよ」と、また真面目に答えてしまった。「釜山から来た」といえばよかった。テレビとかでたことありますか?」と、また非常に難しいことを聞いてきて「これも少年が考えるテレビと僕が考えるテレビの番組の種類が一致してないと答えても意味がないのでは」と一瞬考えたが、ものを考えると疲れるからずっとラジオを聞きながら歩いていたくらいなので、考えるのがすぐに面倒になって「何回かはあります」とまた真面目に答えてしまった。

しかし、自分の胸のあたりにこうiPhoneをかまえてカメラをこちらに向けながら話しかけてくるひとは本当に嫌な気持ちになる。俺も彼を撮ればよかった。

途中、お昼ご飯のためにライフというスーパーマーケットによっておにぎりと唐揚げを買い、食べようと思ったのだけど座るところがない。この国は本当に座るところがない。スーパーの店内に申し訳程度にベンチが4つくらいあったのだけど「飲食禁止」と目立つように書いてあった。スーパーで買ったおにぎりを食べるベンチ一つない。仕方がないので駐輪場を仕切る柵に腰掛けて食べた。傍目には食べ物をおく台になるものもないなか、とても器用におにぎりと唐揚げを食べていたと思う。

大阪駅近くで作家の森村誠さんに偶然会った。驚いた。ワイシャツ姿だった。「お久しぶりです!今大阪?それじゃあ、気をつけて。暑いから」と声をかけてくれた。とても元気をもらった。

18キロくらい歩いて満月についた。珍しく駅前にあるスーパー銭湯のような施設。ここで建物になっている場所以外の敷地は駐車場が駐輪場でうまっており、人通りも多いのでここで敷地を借りるのは断念し、そこから400mくらい離れたところにある瑞光寺というお寺で敷地の交渉をした。久々の敷地交渉だ。かつて僕は「敷地を貸していただく」という謙虚な気持ちでこの生活をやっていたけどなんだか今は「土地はみんなで共有するもんだろ」というような図々しい意識に変わっている。なのでドアの前に立ってからインターホンを押すまでのためらいの時間がほとんどなかった。インターホンからはなんだか気の強そうな女性の声が聞こえてきて、「どのようなご用ですか」と、ドアまで出てきてはくれなさそうだったのでその場で「寝る場所を探している」と伝えたら、「ちょっとお待ちください」と言って引っ込み、すぐにでてきて「和尚に聞いたんですけどお寺の境内は困るから前の公園はどうですか?」と言われた。お寺に入る前に気がついていたのだけどこのお寺の目の前には「瑞光寺公園」というお寺がある。「じゃあそうします」と言って家を公園内の、なんらかの公園管理者の作業エリアらしいフェンスで囲われたそのフェンスの門の前に置いた。僕としては、公園なんだから使わせてくれ。許可なんかいらないでしょう。だって公園なんだから。という意識になっている。ジャックする感覚というか。しかも「瑞光寺公園」という名前で、その瑞光寺の和尚さんからの提案なのだしOKだろう。ここまでは入ってこられたくないが、ここならいいんじゃない?という場所。公園というのはそういうスポットであるべきなのかもしれない。いまのところは。ただこの公園はすこし変な雰囲気があって、というのも自転車を止めて一人でスマートフォンをじっと見ている人や、スマートフォンを見ながら突っ立っているカップルなど奇妙な人がたくさんいる。不思議に思っていたのだけど、彼らの指の動きでそれがポケモンGOであることがわかった。この公園はポケモンGOのなんらかのスポットらしい・・。あるいは何か珍しいポケモンが出現したのか・・。ポケストップでないことを祈る・・。

家を置いてすぐに温泉「満月」へ。着ていた「無理してない人」Tシャツは汗だくで泥みたいになっていた。満月に入ってびっくりしたのだけどここにはミニオフィスがある。机と椅子と60分無料のWiFiと、電源もある。思うに電源があるかどうかが、オフィスと呼べるかどうかのラインだ。しかしこのオフィスはテーブルも椅子も小さく、廊下にあるので人の行き来もあって長時間作業には不向き。しかも今は充電するケーブル等をもっていない・・。残念だがオフィスとして利用するのは諦めるしかない。

お風呂のあと真のオフィスを探してiPhoneで近所にガストを見つける。本当はチェーン店ではなく、地元の夜までやってるカフェなんかを見つけたいのだけど小雨も降っていたので断念。ただこのエリア、良さそうな居酒屋や飲食店がたくさんある。そしてどの居酒屋にも子連れがたくさん入っていた。お盆だからか?「満月」の壁には近所の「うまいもんマップ」があった。

ガストでチーズダッカルビとご飯と味噌汁と漬物とがんもどきのようなものを食べて、パソコン作業をした。絵も少し描いた。隣に若い男女二人の客がいて、ワインを飲みながらポテトやミックスグリルを食べている。カップルかと思って気にしていなかったが女の方が「旦那がさあ、・・・・。お弁当なくてもいいよって言われてさあ」と話していて、カップルじゃないことが判明してから興味が湧いたがどんな関係かは分からず帰ってしまった。

オフィスを出たあとは洗濯機に行って洗濯した。幸いにも洗濯機が、今の敷地のすぐ目の前にあった。そしてなんとそこにもミニオフィスがあった。そこでも少し絵を描き、洗濯乾燥が終わるのを待って洗濯物をバックーパックの中に取り込み、家に戻って眠りについた。たぶん1時前ごろ。なかなか寝付けなかったが朝起きた時よりは湿気もなくてマシだった。

さて今日はどうしようか・・。淀川資料館という施設が枚方の淀川沿いにあるのを見つけたので、次の見当にする。淀川は砂をとる船があり、そのおかげで水深が保たれている。その砂を販売する会社も昔塀越しに見たことがある。その辺の資料が見られたら面白そうなのでいってみたいのだけどいま猛暑の中の二日連続の移動と寝不足ですこし疲れている。次に移動する先はゲストハウスか何かをあらかじめ予約して、そこに行ってしまって家は駐車場かなにかに置かせてもらって自分はベッドなどで寝た方がいいのではないかとも思っている・・。

もう8時になってしまった。日記を書くのに1時間半かかった。いや、まだ8時か・・。

タケルくんの家はいつもとても早起きらしく、僕が泊まっている部屋にも6時半ごろに朝ごはん(ナスやベーコンなどの炒め物とご飯、バナナ、ヨーグルトなど)が運ばれてきた。でも僕はまた寝てしまい、7時半ごろに起きてそれを食べさせていただく。お母さんは二人の子供も相手にしながら同時になんかいろいろやっている。偉大だ・・。

タケルくんのお母さんは「僕が食べるものがご当地かどうか、観光しているかどうか」をしきりに気にしていたのだけど、そんなお母さんが「これはご当地なので」と言っていた、自転車のイラストや、だんじり祭りの山車のイラストが描かれたクッキーなどが入ったお菓子詰め合わせの小袋をもらってタケル家を8時15分には出発。車でにじのとしょかんまでおくってもらう。にじのとしょかんで、釜山の滞在中に完成させられなかった絵を一枚完成させ、11時半ごろに家とともににじのとしょかんを出発、職員の方が二人見送ってくれた。

とりあえず北の方を目指して30号線を歩く。東京は涼しい日だったらしいけど大阪は先日と変わらず暑く、コンビニや自動販売機で麦茶を買いながら(たぶん2,3リットル飲んだ)歩く。ここから金沢まで到達しなければいけない。8月中には。間に合うのか?あんまりのんびり進んでられないので1日最低でも15キロは進めようと思う。久々の長距離で、疲れるけれど釜山で言葉が通じない人々の間を歩いて3週間過ごしたのは経験としてやはり大きく、日本で家を背負って歩くことに対する抵抗というか恥じらいというかそういうものはほとんど感じなかった。

途中のイトーヨーカドー津久野店で昼飯。昔イトーヨーカドーの駐輪場に家を置いてご飯を買って帰ってきたら警備の人に「ここはこのような建築物を置くところではないので」と言われたことがあったのを思い出し、家は歩道に置いて店内に入った。スーパーできゅうりの浅漬けと野菜ジュースとチャーハン餃子弁当。ここはテーブルや椅子が店内に散りばめられていて助かる。7スポットWiFiもある。

ご飯を食べて、すこしルートを西にそらせて北加賀屋の工場地帯にあるdot architectsの事務所を目指して歩き始めた。むかし大阪のトークイベントでdotの家成さんとお話したあと泊まる場所がなくて家成さんがここを紹介してくれて一泊させてもらったことがある。駐車場があった覚えがある。家成さんならダメとは言わないだろう。。家成さんに電話を入れてみたけど繋がらず、とりあえず突入することにする。最悪、誰もいなくて後から誰かきてもあそこなら大丈夫な気がする。

にじのとしょかんからdotの事務所まで16キロを歩いて、夕方5時前に到着。事務所には人がたくさんいた。お盆の日曜なのにやはり彼らは違う・・。家成さんもいて、泊まることを快諾してくれた。dotの土井さんが「口の中の水分が全て持っていかれるマフィン」をくれた。口の中の水分は全て持っていかれた。dot事務所はおそらく工場だった建物を使って1回を作業場、2回の仕切られた部屋を事務所としており、家成さんはその事務所の部屋使ってもいいと言ってくれ、鍵の開け方などを教えてくれ、僕は今日のオフィスを確保できた。そのオフィスでこの日記を書いている。パソコンはWiFiに繋がっているので金沢の展示のための地図をつくる作業もできる。

家成さんは、そのとき打ち合わせのために来ていたお客さんに僕のことを紹介してくれたのだけど、家の説明のすぐ後に「村上さんのドローイングも良いんですよ」と付け加えてくれたのが嬉しかった。さらに家についても「マジックでこの黒い輪郭線を描いてるのがとてもいいなと思ったんですよ」と言っていた。そのさりげないけど嬉しい言葉の付け加えに、彼の人柄とキャリアを強く感じた。建築事務所をやり、作品をつくっている人という感じ。

この事務所と同じ敷地にある建物には人が住んでいるらしく、土井さんがその人たちにも伝えておきます、びっくりしないように、と言ってくれたのだけど、僕の「(その人たちは)”一般人”ですか?」という問いに対して土井さんが「いや、リテラシーは高いです」と返してくれ、僕と彼の間で何かが通じ合ったような気がした。

夕方6時前にはdotの人たちが事務所をさり、僕はすこし絵を描いてからお風呂へ。すぐ近くに「くつろぎの湯 湯楽」というスーパー銭湯温泉がある。休日料金で770円。お盆なこともあってか、大変混み合っていた。夏場でもお風呂に入るのは大切だ。疲れの取れ方が違う。体の中身が温まる。

お風呂から上がった後、近くのローソンで、先日掛川自動車学校を紹介した特典でもらったクオカードをつかってサッポロ黒ラベルの缶ビールを買ってふらふらした。完全に車のために作られたバイパスの、車向けに作られた大きな中古車買取の看板の下で、缶ビールをのみながら次々走り去っていく車をぼーっとながめる。他に歩いている人はいない。自転車は少しいるけど、通り過ぎていくだけだ。”通り道”としての場所に留まっている。時速50キロで一瞬だけ視界に入れられることの多い看板を、立ち止まってじっくり眺めたりする。

晩御飯は「杵屋麦丸」で牛ぶっかけうどんを食べた。

この敷地は自販機がすぐそばにあり、水分補給には便利だ。向かいの公園には「セアカゴケグモに注意」の看板があった。

そして季節柄かわからないけど道路上に大きめのゴキブリをたくさん見かけ、嫌だなと思ってたけど家で寝袋をひろげて眠る準備をして、事務所のトイレで歯を磨いたあと、ついに僕の家から50センチくらいのところでゴキブリが動いているのを見つけてしまい、寝袋とマットを家から引きずり出して2階の事務所まで行き、鍵を開けて入り、床にマットと寝袋を敷いて眠った。こっそりとタイマー付きでエアコンのスイッチも入れた。

2018年8月11日20時36分

色々あって現在、大阪府和泉市のかなり南の方、山の中のとても綺麗で立派な一軒家の客間にいる。客間は8畳がふた部屋あって、広々としているうえ、書院造り風で床の間と違い棚もある。エアコンはないけど山の中なので涼しい。ここまで日々を「経験」としてちゃんと処理するためにも、整理する必要がある。日記を書くことは、家に帰ることと少し似ている。日々をちゃんと経験として経験するために家があるし、日記を書く。まず過去に殴り書きしたメモをここにコピペしていく。

2018年7月30日23時54分

釜山現代美術館について、警備のおじさんに日本語で「ここに動かします、ここに寝ます」と言って、シャワー行って歯磨いて眠る準備まで一瞬でやった。体感10分くらい。実際でも20分くらい。この時期シャワーを浴びると生まれ変わったくらいの気持ちになる。

これがまだ10日前とは思えない・・。ソウルから釜山にKTXで帰ってきて、家が置いてある現代美術館に着いた時はもう夜11時過ぎていた。美術館の中なのでクーラーも聞いていて快適だったのを覚えている。

2018年8月1日10時31分

「壊れると思っとったわ、行く時から。」と大阪港を出る時にもいたおじさんに言われた。

この日は災難だった。釜山港で3万ウォン支払って家をパンスターフェリーに積んで優雅な船旅を経て大阪南港について家を受け取ってみたら、家が大きく破壊されていた。原型は留めていたけど、ドアの上と下の木のフレームが2本ともボキッと折られていて、ドアの左右にある縦方向のフレームとそれに直行する上側のフレーム(つまり家の長辺を支えるフレーム)のジョイントも破壊されて木が宙ぶらりんになっていた。ドアも縦方向に半分に割れていて、屋根も一部壊れて家から分離してしまっており、それとなく家のそばに置かれていた。これまでこんなに大胆に家が壊れたことはなかった。太さ19mmの角材が2本折れるほどの衝撃なので船に揺られる中でなにか荷崩れをおこしたのか、かなり適当に粗雑に扱われたのか(大量のダンボールの中に上下左右関係なく投げ込まれて、その上さらにダンボールが投げ入れられたり)わからないけどまあ壊れてしまったものは仕方がないので直すしかない。と思ったのだけどフレームが折れてしまっているので一人で背負えず、通関するのに台車を使う必要があった。そこで言われたのが上の一言。大阪から釜山に行くときにも釜山から帰ってきたときにも(白髪の髭の)おじさんが大阪南港のフェリーターミナルにいた。

僕は8月4日に大阪府和泉市にある「にじのとしょかん」という図書館でイベントをやる予定があり、そこに家を置かせてもらう三段になっていたので、僕は家をターミナルに一時的に置かせてもらい、市内のレンタカーで軽トラ(マニュアル)を借りてきて、どうにか家を軽トラに積んで20キロほど走ってにじのとしょかんに搬入した。それから東京にもどった。

そして今日。ふたたび大阪に戻ってきてにじのとしょかんで家の修繕を施した。折れたフレームは同じ太さの木をホームセンターで買ってきて副木のような形で木をあてて固定した。他はボンドとガムテープでどうにかこうにか修理した。家の壁のほうはもう築三年以上になるのでかなりガタがきている・・。修繕が終わったのが午後4時前で、今日眠る敷地をどうしようと思って「にじのとしょかんの敷地で夜を過ごすことはできませんか」と聞いてみたら、「いま管理してる責任者がお盆でいないからなんとも・・」とのことで、一応センターの事務の人(この施設は人権センターという公共施設の一部。ここらはもともと同和地区だったらしい。)に聞いてみてくれたらしいが「村上さんのことはテレビで見たことある。ここに泊まるのはダメ」と言われたらしい。やっぱりこの国は公共施設の敷居が高い・・。

そのやりとりを聞いていたにじのとしょかんの職員の方(4日にここで行ったワークショップイベントでほぼ僕のアシスタントとして大活躍してくれて、別れ際に僕の本を「買うわ。絶対買う。」と言ってくれた(あの言い方は嬉しかった)タケルくんのお母さんでもある。)が、「うちの庭広いですよ!ちょっと遠いですけど主人がトラックを運転してくれれば!また明日は大阪市内にいくようなのでロスも取り戻せるかと!」と言ってくれて、さらに僕が進む予定の北方面で敷地を貸してくれる友人がいないか色々聞いてくれ、最終的に家はにじのとしょかんに預けたまま、僕だけその家族の家に泊まらせてもらうという「外泊」に落ち着いた。

和歌山県の県境にある山の中の小さな町にある一軒家で、近くには阿弥陀堂という安産祈願で有名な綺麗でかわいらしいお寺があり、泳げそうな綺麗な川が流れている。山の緑もとても綺麗。蝉が鳴いている。アブラゼミが多いけど、ミンミンゼミと、クマゼミもいる。WiFiも。

この家には二人の子供、中2年生と小学6年生がいて、僕が着いた時二人とも宿題をやっていた。宿題を見せてもらって驚いた。量が。すごい量だ。

国語は漢字学習ノートと読書感想文とドリル、数学英語もドリル(丸つけ、やり直しまでやって提出らしい)、英語はドリルが2種類ある。理科は問題集と自由研究、社会も問題集。美術もある。料理をつくる、という宿題もある。さらに職場体験も、レシピコンテストやらも、作文も2種類。出し過ぎだ。大阪は特に多いらしいのだけど、これはちょっとひどいので「先生に、出し過ぎですよって言ったほうがいいよ」と言った。ちなみに作文のテーマの一つは「人権作文」だった。こんな宿題出されたら遊ぶ暇ないだろうに・・。かわいそうだ。川も寺もブランコもあるのに。ブランコというのは、着いてすぐ、タケルくんに近所を案内してもらったときに教わった。地元の小学生の案内で、近くの川へ降りる曲がった小道を通ったりお寺にいって「ここにはよく子供遊びにくる。ブランコあるからな」と教えてもらったりするのはとても贅沢で楽しい時間だった。

夕方車で和歌山県に入ったところにあるかつらぎ温泉に連れて言ってもらったのだけど、小ぶりな山がぼこぼことたくさんあって、かなり独特な景観だった。和歌山県は初めて足を踏み入れたけど、ここは地形を調べたら面白そう。

タケルくんが露天風呂に入ってしばらくたったあと隣にいた僕に

「けっこうのぼせやすいほうやからな」

と言ってきた。こいつは面白い男だ。

「のぼせやすいの?」

と聞き返したら

「うん」

というので

「出ていいんだよ」

と言ったら

「のぼせやすいな」

と関西なまりで話しながら露天風呂から立ち去っていった。その背中をみて僕は一人で笑ってしまった。この交流そのものに価値があるのだ。未来はここでは出る幕はなくて、この瞬間そのものが愛おしい。彼に会えてよかった。この先また会えるかどうかとかはすごくどうでもいい。とりあえずいま、とても良かった。そんな気分だった。

もしかしたら、僕は辛くない方法を無意識に探しているかもしれない。この移住を生活する、はそれ以前の生活のパターンが辛くてたまらなくなり、もう一つ作ろうと思って始めたのはいいが、これは生活の過程で人の「世話になってしまう」ということが時々あって、僕は旅行文学みたいに本に出して完了というわけではなく、過程そのものも作品化したいので、人の世話になるということ(何をやっても世話にはなるのだけど、ある種の世話のされ方)はできれば避けたい・・。つまりやっぱりお金のことをプロジェクトとして考えないといけない。一緒に考えてくれる人や企業を見つけたい。しかし今はとりあえず全部その出来事のままで受け入れながらも、能動的に前に進め。これしかない。

この家は「まちライブラリー」という個人の図書館のようなプロジェクトのメンバーらしく、全国にたくさんあるらしいので「まちライブラリー」で検索すると敷地が見つかりやすいかも、と言われた。さっそく今回の金沢への移動で試してみたい。

さっきタケルくんに僕の描きかけの絵を見せたら

「すごいなあ。建築家はそれぐらいやらんとなあ」

と言っていた。

こんにちは。村上慧と申します。1988年、昭和63年東京都生まれです。この「家をせおって歩く」の話をしに来ました。

まずこの本を読んだ人はどれくらいいるのか?

僕はこれを作品としてやっているんですが、すこし噛み砕いて説明すると「もう一つの「住み方」を身に付けている」と言えるかもしれません。いま僕は東京で借りている家と、この発泡スチロールの家の2種類の「住み方」を持っていると思ってください。ちなみにいま3種類目を準備中なんですが。それの性質上、協力してくれるスポンサーが必要で、いまそれを探すのに手こずっています。もし詳しく聞いてみたいという方がいたらあとで声をかけてください。

(本の説明)

大阪に初めて来たとき、奈良県から暗峠という、ものすごく急な坂道を通って大阪府に入ったんですが、へとへとで東大阪市に入って、子供から木の棒を投げられました。それで大阪の子供はやっぱり違うなーと思いましたね。

僕は東京のアトリエから新幹線でここまで来ました。新幹線は時々乗ると、そのスピードにびっくりします。驚くべきスピードです。2時間半で着いちゃいます。この家は新幹線に載せることはできません。この家があるかぎり、僕は歩いて移動しないといけません。ちなみに、さっき調べたんですが東京の僕のアトリエからここまで、途中フェリーを使ってちょうど498キロあります。この移動にはたぶん、歩くと40日間くらいかかります。なのでもし僕が東京から家を持ってきて今日ここで話すためには、今から思えば、涼しかった頃の6月下旬に東京を出発し、7月の半ばごろに浜松でうなぎを食べて今日ようやくここに到着したという感じになるでしょう。そしてここから東京に歩いて戻るとして、今月の終わり頃に富士山の麓を通って9月半ばごろに東京に着くと思います。すると、ここで1日話したりするために僕はきたわけですが、ここにくるための移動に80日間くらい使うことになります。すると、何が起こるかというと、ここで1日話すために歩きはじめたはずが、途中から、歩く最中に起こるいろいろなことに巻き込まれて、そちらのほうが面白くなってきてしまいます。これはヘンリーデイビットソローという僕が好きなアメリカ人の作家の言葉ですが、

「誰にも出し抜かれない生き方がある。それはゆっくり歩くことだ。」

「さて、今から徒歩で移動すれば、夜までにはフィッチバーグに着くだろう。以前このペースで、1週間歩いて旅をしたことがある。君はその間働いて汽車賃を稼ぎ、明日、あるいは幸運にもかきいれ時ですぐ仕事が見つかれば今夜にも、そこへ着くだろう。フィッチバーグを目指して歩く代わりに、君は1日の大半をここで働いて過ごすわけだ。ということは、鉄道が世界を一周したとしても、僕は常に君より先を行っていることになる。さらに、その地方を見物し、いろんな体験ができることを考えると、とても君のやり方に付き合う気にはなれないね。」

これが意味するところ、皆さんも考えてみてください。

でも今回、この家は東京から来たのではなくて、韓国の釜山からきました。一ヶ月間くらい釜山にこの家を使って住んでいました。先日まで釜山にこの家と一緒に行っていました。そういえば釜山からフェリーで帰って来たとき、不思議な体験をしました。(夜景の話)こうやって、作家を思いもよらない考えに至らせたり、どこか場所に連れて行ってくれるもののことを僕は作品と呼んでいます。

きっかけ、という質問をよくされるのですが、僕はこのプロジェクト以外にもいろいろつくっていて、このプロジェクトは自分の「生活をつくる」という作品なだけであって、なぜこんなことをするのかと聞かれたら僕は作家だからとしか答えられないのですが、アイデアの種とかモチベーションは色々あって、もともと建築を勉強していたときに、なにかをブラインドされてやらされているという感覚が拭えず、住み方そのものをもう少し考えたいと思っていました。ブラインドというのは、なにかとてもおかしなことをすっとばして、当たりだというふうに思い込まされているという感覚です。例えば、別荘の課題がありました。別荘の空間を設計すればいいんですが、そもそも別荘をオーダーする人がどういう人で、なにを「別荘」に求めているのか、ばあいによっては別荘という解決策以外にもっといい方法があるんじゃないかとか、もっと個人的に思ったのは、都心に家を一つ持っているのに、山の木を切り倒してもう一つ家をつくるという以上、都心とは違う住み方をしなければいけないと考え、縁側と屋根と雨どいのようなものしかない、不思議な家を作ったんですが、おもしろけど施主としてはこんな家を設計する建築家には頼みたくないと教授に言われまして。そうやって色々言われたり普通に過ごしているうちにふつふつと社会に対する怒りのようなものが湧いてきて、なにか作らないと生きていけないと思って作品のアイデアを出すようになりました。体のつかいかたといってもいいんですけど、いまの社会、住み方がとても限定されているような気がしていて、この1パターン(家賃を払うか、家を買うか。でも家を買うってどういうこと?とも思うんですけど)しかないことが我慢ならないというか。被災地でダブルローンの人々をたくさんみました。これは何かおかしくないかとおもいました。家というのは、シェルターの機能と、社会に自分を登録するためのポイントになる機能があります。トレーラーハウスでは住民票が取れないといっていた石巻の女性がいました。ようするにうごかれては税金が取りにくかったり管理しにくかったりするわけで、その元で生きているわけです。住民票を持たないことはこの国では罪になります。罰はないようですが。でもこの住み方ゆえに怒っている色々な問題があるんじゃないかというか、住み方はおよそ全ての問題につながっているんじゃないかと思います。あと仮設住宅で辛そうな人もたくさんみて、なんというか、全然違う住み方をやってやろうと思いました。

いまPANSTAR CRUISE FERRYは下関の関門海峡を通過している。僕のiPhoneはとっくに日本の携帯電話会社の電波を拾って、メールの送受信を始めている。船のデッキには下関の夜景を見ている人たちがいる。僕もさっきまで夜景を見ていた。一番最初に目に入った日本語は「餃子の王将」だった。夜景は綺麗だ。釜山の夜景もソウルの夜景も、下関の夜景と全く同じ綺麗さだった。奇妙だ。僕は韓国で船に乗り、数時間経ったら日本の夜景を見ている。その夜景は釜山でみた綺麗さと同じだった。やっぱり飛行機という乗り物は他の乗り物と比べてすこし特殊なのだと思う。一度陸を離れてしまうことで、経験が切断されてしまう。それに比べて船は、ずっと地続きというか海続きなのでずーっと経験が持続している。この釜山と同じ夜景のもとで、人々は全く違う言語を話して違う法律のもとで生活していると思うと、とても奇妙だ。僕はついさっきまで釜山にいて、昼が夜になったら日本の夜景になっている。船旅はこの奇妙さは経験してみるまで知らなかった。

今僕は船内にあるカフェでビール(もうハッピーアワーじゃないので6000ウォン、円だと600円になっていた)を飲みながらこれを書いている。先ほど、ハッピーアワーの時はウォンで支払った(その後余った1000ウォン札で水を買った)。いまは同じビールを僕は円で買って飲んでいる。

WiFiのパスワードを教えてもらったが、繋がらない。

釜山最後の瞬間はバタバタだった。昨夜は釜山現代美術館の館内に家を置いて眠り、今日のお昼は「あなたのスタミナのために」と、釜山現代美術館の館長とキムさんとアーティストのジンさんがカルビタンをご馳走してくれた。美術館からピックアップトラックでジンさんに家を釜山国際フェリーターミナルまで運んでもらい、ジンさんとはそこで別れた。ジンさんはイングランドのチェルシーカレッジで彫刻を勉強していたらしい。イングランドに六年くらい住んでいたようだ。鉄とは何かを考えながら、彫刻作品と作ったり、彫刻作品のような楽器を作ったりしながら、ミュージシャンにもなりたいと思っていた元プロバドミントンプレイヤーの彫刻家。ガタイが良くて、野太いハスキーボイスで色黒で、快活かつとても思慮深い最高の人だった。また会いたい。家が一部壊されながら(その部品はミリさんの提案でキムさんにプレゼントした)も、どうにか船に積み込むことができた。3万ウォン取られた・・。大阪で税関を担当していた男と同じ人じゃないか?というくらいそっくりなオーラを纏い(同じ仕事をしている人間は年月を経るごとに似てくるということだ)、同じような大きさのテーブルで仕事をしている男にカードで3万ウォンを払って、キムさんとミリさんと別れ、バタバタと船に乗船した。1ヶ月前に大阪で同じ船に乗ったはずだけど、あの時に比べて僕は確実にフランクな人間になっている・・。韓国の力か旅行の力か。手元には現金でウォンが4100ウォンほどのこっていて、どう使おうか港で迷って缶ビールを買おうとしたが船の中でなにか帰るだろうと思って買わなかったのが正解だった。いま大きなプラカップにいっぱいそそいでもらった生ビールを飲みながらこれを書いている。3時から5時まではハッピーアワーで3000ウォンだという。あと1100ウォンある。何かに使えるだろうか。

船は快適だけど一つ心配なのは同じ部屋の韓国人のタンクトップで短パン姿のカラフルなおじさんがちょっと面倒臭そうだ。同じ部屋だからと思って挨拶程度に少し話したら「大阪に行ってショッピングをします。嬉しいです。成人製品をいろいろ買うつもりです。」というテキストをiPhoneの翻訳アプリで見せてきて、笑っていた。読み上げ機能も併せて。

日記の続き。翌日は戸田郁子さんに暑い中案内してもらい、暑い中朝から夕方までかけて仁川を見てまわった。仁川は港からすぐにフェリーに乗って大連など中国まで行きやすい。昔から中国人の出入りが多く、大きなチャイナタウンもある。戸田さんは中国にも八年ほど住んでいたらしく、中国料理も食べられる韓国の街で日本家屋を改装した家に住んでいる。

戸田さんが住んでいる家は90年以上前に日本人によって建てられた家を改装したもの。「日帝時代」(とこちらでは呼ばれる)に朝鮮総督府のもと、仁川につくられた日本人街の一角にある。かつてここらには長屋づくりの日本家屋がたくさん並んでいて日本人がたくさん暮らしており、解放後は韓国人がその長屋を改装して住みはじめ、今でもそうやって住んでいる人がたくさんいる。しかし日本の大工によって作られた木造の土壁の家は、日本より寒い仁川には不向きで、解放後は韓国人たちが木造の壁の外側にコンクリートを打ったりモルタルを塗ったりして外壁を作り直したものがほとんど。なので見た目はいわゆる日本の家とはすこし違っていて、しかもその違い方がそれぞれの家で個性があってとても面白い。ただ、これら日本人によって建てられた家は、戸田さんによるとほんの十年くらい前までは「敵産家屋」と呼ばれており、基本的に日本人が建てた家に住むのよくないことだとする雰囲気があったという。そのなか、戸田さんたちは家が新しく一軒建てられるほどの予算を費やしてこの木造の家を、その構造が見えるようなかたちで改装し、ギャラリー兼ゲストハウス兼住居として使っている。この家の歴史をつたえたいと戸田さんは言っていた。戸田さんの文筆業も、戸田さんが住む家も、歴史を伝えるという一点で一貫していると思った。

「敵産家屋」という呼び方は少しショックを受けた。いま釜山市立美術館で開催中の展覧会の中で画家の安藤義茂が朝鮮で描いた絵が展示されているのだけど、それがなぜすごいかという戸田さんの話もすこしショックだった。つい最近まで日本人の画家が「日帝時代」に朝鮮半島で描いた絵を韓国国内で展示するなんてことはできなかったらしい。それはつまり、日本人からプラスの影響を受けたということを公のものとしたくないという感情からきている。日本人の画家がかつて朝鮮半島で絵を描いていたという事実は、韓国の公の立場からしたらあまり見たくないところなんだろうと思う。とても複雑な感情だと思う。

戸田さんは、仁川は残された街だと言っていた。良い意味でも悪い意味でも。新しい支庁がかつての仁川中心街(つまりこのエリア)からすこし外れたところにできた結果、このあたりは街が寂れてしまったという。結果的に街の中に古い家と、それを改装して住んできた人々が残り、新しい公共文化施設もたくさん生まれて、とても面白い街になっている。街を歩いていると、人の移動の痕跡が全て家の改装の跡になって残っていて、とてもダイナミックな気持ちになる。12以上の個人博物館(歯医者の待合室が、朝鮮戦争で志願して戦線に向かった兵士達を記念した博物館になっていたり、19-20世紀はじめの時代の日用品を大量に集めた個人の博物館があったり、世界中の消防車や救急車のミニカーを集めた個人博物館があったり、半端じゃない公共マインドを持った人々がたくさんいる街でもある)・公共博物館に加えてアートプラットフォームという綺麗なレジデンス施設まである。

港の近くにはタルトンネというスラム街がかつて存在し、そこには北朝鮮からの避難民や仁川国際空港の建設労働者達が住んでいた。今でもその一部が残っていて、人も住んでいる。ここも案内してもらったのだけど面白かった。人の家なのであまりジロジロ見るのも失礼なのだけど、自力で建てられた家がどんどん建て増しされて隣の家とつながって全体で一体化していて、生き物の中にいるようだった。

役所はこのような「見栄えの悪い家」を相手に、「屋根を直す代わりに壁にペイントをさせてくれないか」という事業も行っているらしく、その一角をすこし見ることもできたのだけど、パステルカラーに塗られた壁に鳥や花などが描かれていて、その家全体が醸し出しているセルフビルドっぽい雰囲気と混ざってなんとも言えない風景を作っていた。

戸田さんとのツアーは暑さもあり、夕方16時ごろに解散となった。戸田さんには暑い中大変な思いをしながら色々と説明していただいた。ありがたい。

その日の夜は戸田さんが紹介してくれたモーテルに宿泊。翌日は久々に、一人で涼しいところに1日中いられる日だったのでほとんど外出せずにずっと部屋に引きこもっていた。

いまソウルから釜山に向かうKTXの座席の中でこれを書いている。釜山駅でおりて、そこから地下鉄+徒歩20分ほどで釜山現代美術館にある自分の家まで戻って眠る。明日には家とともにフェリーにのって大阪に戻る。韓国滞在もいよいよ終盤になった。KTXは快適だ。今回の座席は電源もある。WiFiも飛んでいる。シートは倒せないが隣にいた人が前の駅で降りたので横にもなれる。

 

2018年7月24日〜29日부산광역시사하구하단2동낙동남로の부산현대미술관

日記をさぼってしまった。今日は7月26日。午後10時を過ぎているけど、今日は宿からほとんど出ずに、ずっと部屋でiPhoneを見たりパソコンで音楽を聞いたりしながらずっとごろごろしていた。久々に丸一日誰にも会わず、何も生産的なことはせず、ご飯もコンビニで買ってきて済ませただけという日。日記を書かなければと思いつつ結局こんな時間に。一昨日、家を美術館に預けた。これでもってとりあえず引越し釜山編(「家の動詞形」という展覧会でもあった)はお終い。

午前中に「看板図書館」のためのインタビュー採録(これにもキムさんや社長さんが熱心に協力してくれて、釜山現代美術館の館長さんと社長さんとお茶屋さんの3箇所に取材できた。キムさんも、異業種への取材を結構面白がって色々質問してくれた。)をやって、午後3時10分ソウル発KTXに乗って仁川へ向かった。前の晩にあまり眠れていなかったのもあり、座ってすぐにぐったりと寝落ちしてしまった。今回KorailPassという制度を使ってKTXを使ってみた。iPhoneの画面上でしかチケットを見せることができない状態だったので若干不安だったけれど、結局チケットの確認はされなかった。到着した日のソウルは釜山よりも暑かった。寝不足で疲れていたので、暑さが絶望的で、これから地下鉄にのって仁川までたどり着けるだろうかと思った。ソウルで地下鉄に乗り換え、またこの地下鉄が冷房があまり効いてなくて辛かった。多分30分くらい乗って東仁川駅についたのだけど、途中立っていてクラクラする熱中症のような症状が出て、とても疲れていることがわかった。

まず仁川官洞ギャラリーのゲストハウスに。作家の戸田郁子さんがやっているギャラリー・ゲストハウス。戸田さんは、馬喰町アートイートで出会ったぱくきょんみさんに紹介してもらった。戸田さんの「中国朝鮮族を生きる」という本を読むと、朝鮮半島の人々の移動の様子と、その移動にかつての日本がどれだけ深く関わってしまっていたか、「関わる」なんて生易しいものではなく、彼らに内面化されてしまっていたかがよくわかる。戸田さんがゲストハウスをやっていると聞き、さらに仁川の町を一緒に歩くツアーもやっているということだったので、せっかく韓国にいくなら仁川まで行ってしまえと思ってコンタクトをとってみたら快諾していただいた。戸田さんに会うのは少し緊張していた(たぶん1ヶ月くらい前がピーク)はずなのだけど、着いた頃にはもう疲れはてており、緊張する余裕もなく、今思うと失礼な言葉遣いをしていたかもしれない・・。なので着いてすぐに戸田さんに紹介していただいた焼肉屋さんで一人テジカルビを食べて、シャワーを浴びて眠った。ゲストハウスにはクーラーはなかった。最初はそう聞いてひるんでしまった。「暑いのでクーラーがある宿を紹介しましょうか」と言われてそうしようかと思ったがせっかくここにきたので一泊泊まってみることにしたのだけど床が「オンドル」という床暖房になっている床で、これがスイッチを切っているとヒンヤリとしていて、扇風機もありぐっすり眠れた。

2018年7月23日부산광역시사하구하단2동낙동남로の부산현대미술관

眠い。昨日は横になった時は風があって涼しかったのにしばらくしたら風がなくなってしまい、湿度も上がってきて寝苦しくなって、うとうとしながら朝を迎えた。海が近いせいか蚊も多かった。でも4時間くらいは眠れたと思う。

昨日はチムジルバンを出てオフィスに寄って家に帰る途中ご飯屋さんに一人で入りでビビンネンミョン(ビビン冷麺)を食べ、家のあるササンナショナルスポーツセンターに戻ったらそこのブックカフェにキムさんとミリさんがいたのでアイスチョコレートを飲みながらすこし話した。二人は文化新聞という新聞を読んでいたので見せてもらった。以前から思っていたけど、こちらの新聞記事には時々漢字が混ざっている。最近のことらしい。例えば「停電」という漢字をキムさんは読めるみたいだったけどミリさんは読めなかった。

111年ぶりの高温を記録したらしいこの夏の高温の記事や、その気温のために原発の稼働を増やした(?)記事、「脱原発」という文字も見えた。そういえばツイッターでうらあやかがつぶやいていた韓国の原子力発電所での放射能漏れの事故のことを知っているかと聞いてみたらミリさんもキムさんも知らなかった。

それから釜山では最後の引越しとなる移動を夕方4時ごろから開始して、6時過ぎごろに家の「最終目的敷地」である釜山現代美術館に到着。職員は6時には退勤するみたいで学芸員室にはキムさんの他は誰もいなかった。ついてすぐにシャワーを借りて、キムさんとご飯を食べに。キムチチゲ。「トイジャンチゲ」と「キムチチゲ」が一番伝統的な家庭料理だと言っていた。思うに韓国は鍋料理が進化してる。漬物の小皿をたくさん並べることからもわかるように、みんなでテーブルを囲んで食べる文化があるかもしれない。またこっちの食堂では昔からそういう伝統らしく、どこに行っても金属製の器、箸、テーブルを使っている。特にご飯を入れる容器は大体どこもコンギと呼んでいる、大きさや形が同じで蓋がつくものを使っている。韓国にきて驚いたことのひとつに、韓国料理屋さんが多いことがあるけど、さらに驚いたのは大衆食堂のような店でもWiFiが使えたりすること。また店員をボタンで呼べる食堂も多い。フリーWiFiはとてもたくさんあって、街中ではインターネットに困らない。みんな韓国料理を昔からの方法・雰囲気で食べつつ、ITしっかりやってる。拭いた紙を便器に流さずにゴミ箱に捨てるタイプのトイレもけっこうあるけど、WiFiはしっかり通ってたりする。面白い。

僕はたぶん明け方5時くらいから美術館のロビーにいるのだけど、6時半には美術館の電気がつき、自動ドアが開いて入れるようになった。ここも恐ろしく早起きだ。ロビーの床に座って柱にある電源のそばで作業していたらカニがパソコンケースの中に入ってきた。海が近い。こういう公共施設は開館時間以外も出入りできるものなのか?日本では確かに試したことがない。もしそうなら閉館後の公共施設で清掃員をやるのも面白そうだ。掃除はやったほうがいい。予算が足りなくて掃除ができない分を僕が綺麗にしてあげようと思う。職員の人(多分警備の人)が「シャワーもありますよ」というのをわざわざ携帯電話で日本語訳を調べて伝えてくれた。そしてこれから、黒澤さんからのメールがきっかけになって急遽「看板図書館」釜山編のインタビュー採録のための打ち合わせをキムさんとやることになった。

2018年7月22日부산광역시사상구학장동가야대로の사상구국민체육센터

今日もオフィスにいる。냉정近くにある「A Twosome Place(11:00~23:30)」の一階の席。昨夜は床が硬かったので背中が痛い、その上まだすこし眠い。疲れている。疲れているが、エレファントカシマシのWake Upを聞いて何でもやってやるぜという持ちにもなっている。

昨夜は、床が硬いかわりにしい環境で眠れた。なぜ床が硬いかというと、昨夜は夜8時ごろに敷地から地下で一いったところにある「泉ビル施設」にお風呂に入りにいったのだけど、そこが24時間在できるチムジルバンがあり、そこでになってるうちに23時になり、このままてしまおうということにしてそのままてしまった。チムジルバンというのは、眠できる場所という意味だけでなく、スチムサウナがあるスペスも指すらしい。そこには60度とか45度とか35度とかいろいろな度のサウナ室がんでいた。

そのチムジルバンの床が石張りの硬い床だった。ほかに2,30人はになっていた。タオルケットのような毛布のようなものが棚に大量においてあり、それをとって床に敷いてになるスタイル。1枚敷くだけでは床の硬さが緩和できないので僕は最初2枚取り、になってみたがまだ全然硬いと感じたのであと2枚取りに行き、3重にしたうえに腰の部分にはタオルケットを二つ折りにして敷いた。その上さらにあと2枚とってて、掛け布とした。6枚使っている。周りを見渡してみたが6枚も使っているのは僕だけのようだった。みんな床に1枚敷いて、多い人でも2枚。3枚の人も一人確認した。何も敷かないでている猛者もいる。タフな人たちだ。僕なんか本は15枚くらい敷いて柔らかい布にしたいところだった。

昨日はオフィスから家にり、国楽院を16時前に出して17時半ごろに今の敷地である「ササンナショナルスポツセンタ」に着いた。ここは金さんが。現代美術館(今日は現代美術館までく)と、国楽院の間で良いところがないかとシチョン(市)の人に聞いてみたら紹介された場所らしい。「私もよく知らない場所なんですよ」と言っていた。金さんは引越しの時には僕の家まできて「ここから〜キロくらいです。だいたい〜時間〜分くらいです。」着いたら「明日は〜時くらいに出にしますか。私は〜時にます」といろいろ案をしてくれる。そういえば写真美術館でった人は国会議員じゃなくてあの写真美術館の財長だったらしい。彼は「シニアキュレ」と言っていた。彼がマグナムフォトの展覧会を企したということだったのか。

スポツセンタはついた時にはもう閉まっていて警備員も誰もいないような態なのにドアは開いていて中に入ることができた。不思議だ。国楽院も朝6時すぎくらいにはにドアが開いていて中に入ることができた。夜ご飯に韓では夏の定番料理だという「ネンコンカルグクス(냉콩칼국수)」(冷たい豆乳スプのうどんのような食べ物)を食べて、金さんは車でろうとしたところスポツセンタの駐車場のシャッターが閉められていて、車を出すことができる警備員もだれもいないのでどうしようもなく(一人、係者らしき男と話したけど非常に不親切な人でこちらの話を聞くがない子だった。韓語のやり取りだったので細かくはわからないが)、地下でヘウンデの自宅までっていった。

そしてチムジルバンに行き、夜を明かした。10000ウォン。昨夜僕は室を二つ持っていた。昨夜も29度だったので家で眠ったら苦しかっただろうけどチムジルバンと違って柔らかい床は手に入ったはずだ。眠るのにちょうど良い場所を夏の釜山で見つけるのは難しいらしい。朝ごはんにこの近くのセブンイレブンでカップラメンとチョコを食べてこのオフィスに出勤した。今日は夕方からいよいよ釜山最後の引越し。現代美術館に行く。

2018年7月21日부산시부산진구연지동の국립부산국악원

オフィス(EDIYA COFFEE)にいる。昨夜は夜中になっても気温が29近くあり、とても寝苦しい夜だった。日中の太陽光を浴びて熱を帯びた地面の上にヨガマットの床を敷くので、横になっているとじわじわと床下から熱が伝わってくる。昨夜横になった際には蚊除けの薬も塗らず、耳栓もしなかったのだけどあまりに寝付けないので、真夜中に思い立って、足に蚊除けの薬を塗って耳栓もつけて横になってみたら眠れた。割と静かな敷地だったけど、やっぱり環境音が睡眠を阻害していたらしい。眠る時には耳栓をつけたほうがいい。このことは何度も学んだはずだけど忘れてしまう。

このオフィスは冷房が効きすぎていなくて良い。向かいのテーブルにはおばさん五人と小学生くらいの男の子(茶髪)がいちごのかき氷を食べている。隣では丸いメガネをかけた僕と同じくらいの男性がパソコンを凝視しながらなにか考え込んでいる。その隣は30代くらいの女性がノートと何か本を机に広げてペンでなにかを書いている。その向かいのテーブルにはスポーツウエアを着たまた30代くらいの女性が本を読んでいる。一人客は僕を除けばこのカフェではその3人。他はみんな二人以上のグループ。6組くらいいる。ほぼ満席。一人客は僕を含めて全員、4人がけのテーブルを独り占めしている。僕はこのカフェに入ってもう1時間半くらい経っていると思うけど、隣の男性は僕が入る前からこのカフェにいる。グラスの飲み物は空になっている。

朝ごはんはコンビニGS25でマック&チーズバーガーと飲むヨーグルトをクレジットカードで買って、バーガーは冷たいまま食べた。ウォンが入れてある財布を家に忘れ、韓国で初めてクレジットカードを使うことになり、レジで何の滞りもなくカードが使えた喜びでレンジでバーガーを温めるのを忘れてしまったからなのだけど、ちょうど体も熱くなってしまってるし、ちょうどいいやということにして冷たいまま食べた。結構うまかった。

昨日は写真美術館で国会議員の方(彼は釜山および東京で行われたマグナムフォトの展覧会にも関わっていたらしい。気さくなおじさんだった。)と会ったあと、16時半ごろに出発。2時間半で10キロほど歩いて今の敷地の国立国楽院にたどり着いた。汗だくで、Tシャツ(「無理してない人」と書かれている)が自分の肌みたいになった。しかし夕方「国会議員」を待っていたおかげで出発が夕方になったので、着く頃にはいくらか気温はマシになっていた。国楽院はガラス張りの長方形の巨大な建物で、韓国の伝統的な雅楽や舞踊などの公演を行なっている国立の文化施設らしい。着いてすぐにスタッフの女性と会って、シャワーを貸してもらった。キムさんははじめ、このすぐ隣にあるもと米軍基地だった市民公園を敷地にしようとしてくれていたらしいが、そこは夜門が閉まるので厳しいと言われたらしい。釜山博物館はやはり特別だったみたいだ。警備のおじさんが僕にジェスチャーを交えながら「ファジャンシル、ヤランシ、クローズ」と教えてくれた。公衆トイレは11時に閉まるということらしい。ここのトイレには石鹸がある。これは助かる。またゴミ箱も家から数十歩のところにある。シャワーを浴びた後キムさんと一緒にご飯にいったのだけど、たまたま見つけてキムさんのオススメで入った「カンジャンケジャン」の食堂で食べた「カンジャンケジャン」(カニの醤油漬けのようなもの)が驚くほど美味しかった。ご飯泥棒と呼ばれているらしく、その名の通り白米にとても合う。こんなにご飯に合うものが韓国で生まれていることに衝撃を受けた。こっちにきてベストの食べ物。やはり彼らは味噌やら醤油やらを研究してきた人たちだ・・。どうにか日本で作りたいと思ったけど、レシピが複雑そう。

朝は7時ごろには起きたのだけど昨夜は寝苦しくてあまり眠れておらず、朝ごはんをクレジットカードで買って食べた後も何もやる気が起こらず、国楽院のあまり冷房が効いていないロビーでうとうとしてしまっていたので思い切って近くのチムジルバンを検索していってみることにした。昼寝目的で。チムジルバンというのは、仮眠室のような場所を指すらしい。今までスーパー銭湯のような店のことだと思っていた。家から10分弱歩いてたどり着いたこのチムジルバンが大正解で、6000ウォンで仮眠できた。そこからこのオフィスに出勤した。

今はまだゴウン写真美術館にいるのだけど、なんと今から釜山の国会議員がここを訪問するらしく、僕にも会いたいと言ってくれているようで、それを待っている。日本の国会議員にも会ったことないのに。

2018年7月19日〜20日부산광역시해운대구중동の고은사진미술관본관

昨日は日記を書いてない。すこし滞りがちだ。今は、釜山で3度目の外泊となってしまったヘウンデビーチ近くのCANVAS HOSTELというホステルのロビーにいる。釜山に来て17日目で3回目。週に一度のペースで外泊している。でも昨日はすこし身の危険を感じるほどに疲れていた。外で絵を描いていたらクラクラしてきて、幼い頃熱中症で倒れた時の症状を思い出したので泊まってしまうことにした。それにしても釜山は無理なく外泊できるやすい宿がたくさんある。

朝ここでご飯(トーストやジャムやバターや乾燥麺やシリアルが置いてあり、自分で焼いたりして食べて食器も自分で洗うセルフスタイル)を食べて、ここまでの地図をまとめて、さっきチェックアウトをしたところ。すこし冷房が効きすぎていて、半袖短パンの身には寒い。でも外のテラス席は31度だ。ここで作業しつつ、時々外に出て体を温めるスタイル。ここはカーテン付きの2段ベッド(布団で分厚い上に柔らかすぎて眠りにくかったけどそれが贅沢な悩みだ。とても清潔で良いホステルだった。)のドミトリーで13500ウォン。西成みたいな値段だ・・。

一昨日の日記から遡って思い出してみると、APECハウス付近を15時半ごろに出発。これもジョンさんが撮影に同行した。そういえばジョンさんは、釜山の地下鉄の切符売り場のところですこし迷っていたらすぐに韓国人のおばさんに話しかけられて、行きたい駅を一緒に探してくれたらしい。さらにその券売機が1000ウォン札しか使えないものでジョンさんは10000ウォン札しか持っていないことがわかったらおばさんは自分の財布で両替しようとしてくれて、それが足りずに両替できないとわかったらこんどは1000ウォンぐらい私が払ってくれると言って払おうとしてくれたらしい。ジョンさんはそれは大丈夫と言って遠慮して、もう一度よく探したら1000ウォン札がみつかり、無事に切符を買った後もおばさんは「アイスコーヒー飲む?」と言ってアイスコーヒーを買ってくれて駅で一緒に飲んだらしい。「私は見た目がアメリカ人だから。韓国の人親切にしてくれる。25年前に釜山に来たときもそうだった。村上さんは見た目が日本人だから、わからないかもしれないけど」と言っていた。

とにかくジョンさんと、それと写真家のリーさんも同行しながら次の敷地である「ゴウン写真美術館」に向かった。2キロ弱。途中まで道を間違えていてヘウンデビーチのど真ん中を通過してしまった。ヘウンデビーチは完全なる海水浴場という雰囲気の海水浴場だったのだけど、それ以上にビーチから見える建設中の超高層ビル(あとでミリさんに聞いたらこれはアパートメントだと言っていてさらに仰天した)が、全くもって合成写真のように景色の中に浮いていて、怖いほどだった。本当にびっくりして韓国人のクルー達にその驚きを伝えようとしたのだけどあまり伝わらなかった。この高層アパートメントのセンスは、日本人にはない。聞けばこちらに来て僕が知り合った韓国人は全員アパートメントに住んでいる。みんなヘウンデ周辺だ。16階に住んでいたり、22階に住んでいたり、27階に住んでいたりする。「釜山には古い建物がなくて、高いビルばっかり建っていてそういう景色はあまり好きじゃない」と彼らはいうけど、このセンスこそ彼らのカルチャーなのではないか。ジョンさんもこの高層アパートメントについては”very” interestingと言ってた。

ゴウン写真美術館のスタッフも例に漏れずみんな女性だった。綺麗な美術館で、日本の写真家達の企画展が開催されてた。東松照明の太陽の鉛筆シリーズとか、石内都さんのアパートメントシリーズとか。

そこに家をおいてすぐ裏にあるバーガーキングでキムさん、リーさん、ミリさん、ジョンさんと五人ではやめの晩御飯を食べて韓国チームとは解散。ジョンさんが「ホームプラス」という商業施設のようなところに行ってダイソーを見つけ、そこで夜間撮影用のLEDライト(「日本で買ったものと全く同じものを買った」と笑っていた。1000ウォンだったらしい。)を手に入れているあいだ、僕は家から歩いて10分くらいのところにある沐浴湯に行って、夜に再会して二人でTHE BAY101でビールで打ち上げ。その晩、家では静かに眠れた。写真美術館の門は閉館時間中はしまっているので明け方に家を揺すられたりすることもなかった。

そして昨日、写真美術館の前でしばらく絵を描いて、ジョンさんは帰国。僕はホームプラスの中にあるAngel in us Coffeeでパソコン作業をしつつこのホステルを予約。夕方にチェックインしてお昼寝したあと、写真美術館のスタッフの女性陣+写真家のリーさんと、焼肉屋さんにいった。りーさんは「ゴウン写真美術館は韓国では最も素晴らしい写真美術館の一つだ」と言っていた。ハングルと英語と日本語がごちゃまぜの(一人のセリフの中に英語も日本語も混ざるような、文字通りの)楽しい席だった。写真美術館のスタッフのなかに日本語がすこし話せる人が二人ほどいた。釜山にいると自分がハングルを少しでも話せないことが恥ずかしくなる。そのくらい、話せる人がよくいる。そのあとこのホステルに戻り、洗濯物をフロントに預けて眠り。今に至る。

今日は9キロほど歩いて「釜山市民公園」に引っ越しする。いよいよ釜山編ラストスパート。23日には家共々、釜山現代美術館に到着予定。

2018年7月18日부산광역시해운대중동동백섬の누리마루Apec하우스

ジョンさんはGo ProやGoProを腕や頭や胸に巻いたり壁に貼り付けたりできるアタッチメントグッズや、高性能の音声レコーダーなど色々記映像機材を持ってきてくれていた。例のA Twosome Placeというカフェ(ジョンさんは、僕が利用するカフェを「ユアオフィス」と言っていたのが面白かった。”Back to the office“とか“Find your new office”とか。これからはこういう場所のことをオフィスと呼ぼう。それとそこでiPhoneやらを充電する様子をみて「your station」とも言っていた。「充電ステーションおよびオフィス」。良いね)1時間ほど打ち合わせをしたあとにキムさんと現代美術館チーフキュレーターのパクさんと合流してチャンポンを食べた後、家に機材を装着。家を肩で担ぐための木製のかつぎ棒に音声レコーダーとGoProを巻きつける。GoProは家の中から窓の外を撮影したり、僕自身を撮影したり足元を撮影したり色々動かしながら歩くことにした。それから次の敷地に向けて出発。3km1時間ほど歩いたのだけど、そのあいだジョンさんもデジタル一眼レフカメラを持って顔を真っ赤に日焼させながら僕に同行して撮影した。このプロジェクト始めてから五年目になるけど、これまでずっと一人でやってきた。誰か映像を撮ってくれたら面白いのになとずっと思っていた。今回東アジア文化都市のおかげでそれが実現した。しかも釜山で。嬉しい。Johnさんは金沢でも撮影してくれる予定。二つの都市で行ったこのプロジェクトの様子を、5~10分ほどの映像にする予定。

そして次の敷地はなんとAPECハウスだった。APECというのはあのアジア太平洋経済協力のAPEC。建物は「ヌリマル」と呼ばれている。2005年に釜山でAPECが行われた時に使われた場所で、今でもフォーラムなどに使われるらしいけど基本的に観光地のような場所になっているらしい。これまで役所とか美術館とかいろいろ公的施設を渡り歩いてきたが、ついにAPECに到達した。

ただし翌朝イベントがあるらしく、8時には門の外に出てくれと言われた。それ以外は、トイレは12時まで管理人がいるから使ってもいいですよとか、ときどき夜蛇がでるから気をつけてとか、いろいろ親切にしてくれた。さすがAPECの会場なだけあって、景色は絶景だった。太平洋が見渡せる。レレインボーブリッジのような綺麗な橋と、釜山でいちばんの金持ちが集まって住んでいるという高層マンション郡が見える。18時以降は人がいなくなってこの景色を独り占めできるとは贅沢極まりない。

夜はそこからほど近い、海沿いのデッキの上にテラス席がたくさんならんでいて色々な種類のビールが飲めるThe Bay101というところで四人でビールを飲み(ビールも食べ物も高かった。ギネスの生ビールが500cc弱で14000ウォン。MAXという韓国のビールをみんなで飲んだ。奢っていただいた。ありがとうございます。)、解散してそこからまた歩いて10分くらいのところにあるSPA(お風呂場)へ。フロントで最初から英語で話しかけ(コンビニやレストランなどは別として、こういうスーパー銭湯みたいなところで下手に韓国語で話しかけると韓国語で施設の説明をされた時に全くわからないので英語でいった)て無事お風呂に入れた。11000ウォン。フロントに指の指紋認証の機器が置いてあり、常連らしき人たちが次々とSPAに入ってきてはその機器に指をおいて入場していくのを見た。何かが進んでいる・・。

ヌリマルの翌朝のイベントというのがどんなイベントなのかわからなかったけど、お風呂の帰り道にたまたま目にした電柱にくくりつけられたノボリに「MINISTER OF YOUTH WORLD FORUM 7.19 APECハウス」と書いてあった。なんだかスゴそうだ。

昨夜は海のそばだったこともあるかもしれないけど、割と涼しくて眠りやすかった。そういえばパクとキムさんがUSB充電式の小さな扇風機(韓国人はみんな道路でこれを顔に当てながら歩いている)をプレゼントしてくれた。夜床と寝袋をだしたり荷物をかつぎ棒に吊したりする眠る準備と、朝起きて荷物を降ろして寝袋と床をしまって窓をあけて移動する準備と、どちらもGoProで撮影した。良いものができそうなきがする。約束通り朝8時に家をAPECハウスの門の外に出して、いまはそこから歩いて10分くらいのオフィスにいる。

金沢から映像作家のJohn Wellsさんがきてくれた。昨日。20日まで釜山に滞在する。僕が釜山でパフォーマンス(とここでは言ってしまうことにした)生活をする様子の映像をとってくれる。外からの映像ももちろん、家そのものにもマイクをつけたりGoProのような小さなカメラをつけたりしながら撮影してみたいと思っている。ジョンさんもたくさんアイデアがあると言っていた。昨夜は釜山現代美術館の館長と、キムさんとジョンさんと僕と4人で海雲台ビーチそばの、釜山の海沿いの綺麗な夜景が一望できる、でもとても庶民的な(こんな店日本にはなさそう。夜景がセールスポイントになってしまって高い店になってしまいそう)食堂で刺身を食べた。ジョンさんはアメリカ出身だが日本語もできる。館長は韓国語と英語ができる。ので、英語と日本語と韓国語が入り混じっている。色々話したけど、館長が釜山からヨーロッパまで電車で行きたいと言っていた。今は北朝鮮がああいう状態だから陸はつながっているけど、いつか行きたいと。若い世代が実現してくれるはずだと言っていた。金正恩さんとムンジェインさんの会談はとても象徴的で、韓国の人々は良い未来を見たはずだと言っていた。これまで金正恩は見えない人物だったが、いまはそれが変わりつつある。よい兆候だと言っていた。

ご飯の後みんなと別れてお風呂に入ろうと思ったが近くの沐浴湯はもうしまっていて、おととい行った新世界のSPALANDは24時まで開いてるが入場が22時半までということでお風呂には入れず。ウェットティッシュで体を拭いてTシャツだけ着替えてどうにか寝た。しかしこのとき計画を立てた。早起きしてSPALANDの朝風呂に入って、そのままSPALANDの涼しくて柔らかいソファのあるリラックスルームで10時ごろまで仮眠する。これがベスト。なので6時過ぎには起きて、SPALANDへ行った。この新世界というデパートは、当初はこんなに大きく作る予定ではなかったらしいが建てる時に温泉が噴き出してしまい、それから「世界最大のデパート」と言われるまで大きくなってしまったらしい。朝風呂は8000ウォンだった。10過ぎまでのんびりして今は家に戻ってきた。市立美術館のロビー。15分後にはジョンさんがくる。