今日お昼頃に九州芸文館に関わる人たちが打ち合わせをしに牛嶋さんのところに来たので、そのトラックに家を乗せてもらって筑後市まで運んでもらった。木村崇人さんというアーティストが12月から芸文館をやるらしく、木村さんが滞在しているレジデンスの施設の一角に家を置かせてもらった。いつもなにかのおまけとして、すみっこに僕の家がある。この感じが好きだ。
(こうやって日記を書いているとき、無意識のうちに頭で推敲してしまっている。ウェブで人に公開する文章であることを意識してしまっている。このストッパーを外したい。推敲せずに、とりあえず文章としてあらわす訓練をしたい。「書くことの凄み」を体現してみたい。これからは意識的に、一度書いたものは消さずにどんどん残していこうと思う。)

牛嶋さんと別れた(またすぐに会えそうな気がする)あと、トラックの一行は一旦木村さんのレジデンスに行って家を置いた後、また別の滞在施設に行って、木村さんが作品の素材として集めてきた自転車をトラックから降ろすのを手伝った。そこには韓国のアーティストと日本の上岡ひとみさんというアーティストと、そのコーディネートをしている人がいた。上岡さんはベルリン在住で、彼女いわくベルリンは天国のようなところみたいだ。「一つも悪いところがない」くらいの勢いで素晴らしい街だと言っていた。ビールが30円くらいで飲めるし、子供が3人くらいいる家庭は国からの養育補助のお金で暮らせるので働かないで子育てに専念できるという。アーティストもいっぱいしるし、クラブもたくさんある。住みたい。
とにかくその施設ではその韓国と日本の二人が共同生活をしながら制作している。筑後市はなんだかレジデンスとか、美術の展覧会のプログラムがたくさんある。不思議だ。芸文館の目の前の筑後船小屋駅というところは新幹線も停まる駅らしいけど駅の周りは田んぼや畑が広がっている。芸文館だけが現代的なデザインのとんがった建物で、異様な存在感を放っている。隈研吾設計でまだ築4年くらいみたい。本当は駅の周りも開発して活性化させたかったらしいが、予算がなくなったみたい。
ちなみに今は木村さんと学芸員の人が滞在している施設(家が置いてあるところ)でこの日記を書いているのだけど、この家も古民家をやりすぎなくらい綺麗に改修しただだっ広い家。相当お金がかかってると思う。立派なお風呂もある。こんな素晴らしい施設で滞在制作できたら夢みたい。でもお金をかけて改装してるのがわかりすぎて絵に描く気にはならない。

上岡さん達が滞在してるところも居心地の良さそうな、古民家を改修したレジデンスだった。そこでいろいろ立ち話をしたあと、お腹が空いたのでお勧めしてもらった「ジャングルスープカレー」というカレー屋さんに一人で行ってちょっと高いけど美味しいキーマスープカレーを食べたあと、芸文館まで歩いて言って木村さん達と合流した。木村さんは「ぬくめ細工」という長崎県の砂糖細工を紹介してくれて、彼らが展示の打ち合わせをしている最中僕はそれを絵に描きながら食べていた。ぬくめ細工の名人だった方が最近亡くなってしまったらしく、木村さんは長崎に滞在している時にそれを見つけて、それをつくるワークショップをしたらしい。見た目は綺麗な白で、すごく甘そうなんだけど食べてみるとちょうど良い甘さでもちもちしていてとても美味しい。もち米と砂糖でつくるらしい。
木村さんは他に雑草が美味しいと教えてくれた。なんでも冬を越して春に出てきたやつは栄養価が高くて美味しいらしい。スギナはカルシウムが豊富で、お茶にすると良い。生で食べるとまり美味しくない。カキドオシもお茶が良い。クズは根っこと新芽が食べられる。新芽は春-夏に出る。イタドリは初夏に生でも食べられる。ちなみに雑草じゃないがタガメはマンゴーの匂いがする。僕は雑草を食べたりとか昆虫食とかそっちのほうはまだ未開拓だけど、道端に生えてるものからビタミンやカルシウムがとれるなら覚えておきたい。木村さんはウインナーにアルミホイルを巻いて100vで通電させて焼いて食べたりするパフォーマンスもやっていたりして、そのパフォーマンスが生まれた経緯がフランスにいた時に寮に住んでいて寮で使える電気プレートが限られていて人が使い終わるのを待たなくちゃいけなかったからなんとか待たずに食べたいからと言って直接ウインナーに通電させたら美味しく焼けたというエピソードも最高。

 

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今日は寒い。東京・松本では雪が降ったらしい。ここ久留米も空気が冷たい。外で絵を描いてるのがしんどい。手袋をリュックに入れておけばよかった。朝は、曇っているのに日が差していて、牛嶋さんの家からは久留米の盆地が結構遠くまで見渡せるのでとても綺麗だった。寒いので空気も澄んでいる。牛嶋さんの家の中には町会の放送が流れてくるスピーカーがついていてそれが毎朝7時に放送があって、それで一回起こされる。お昼の12時半くらいには「広告放送」といって女性のおばちゃんが「今流行っています。オリーブオイルを贈り物にどうですか」という放送や「寒くなってきました、風邪などひきませんように。値引きしてお待ちしております(寝具屋さんの広告)」という放送なんかをやってる。

昨日熊本に向けて移動する予定だったけど、牛嶋さんの奥さんのオーギさんの制作現場(今週末「まちなかアート」みたいな展示に参加するために久留米の廃ビルの2階で制作していた)に立ち寄って、現場での制作が2日間しかできないということで僕も何か手伝いたいと思ったのですこし手伝わせてもらい、そのままもう一泊させてもらうことになった。この「まちなかアート」という企画は週末の二日間だけの企画なんだけど、やたらたくさんの作家が参加していて、たくさん会場がある。こんなに会場を設定しちゃって管理は大丈夫なんかと心配になる。それにしてもこうやってドメスティックに人知れず行なわれているまちなかアート企画は全国にどのくらいあるんだろう。
夜は牛嶋一家に「一味」という久留米ラーメンの店に連れて行ってもらった。久留米ラーメンは細麺で豚骨で、博多に似てる。博多ラーメンの起源は久留米ラーメンらしい。

久留米から15キロくらい南下したところの筑後という町の、筑後船小屋という素敵な名前の駅の目の前に芸文館という建物があって、そこが結構アーティストが展示をしていたりレジデンスのプログラムがあってアジアのアーティストが滞在していたりするらしい。そこなら敷地を借りられるということなので、そこに行くことになった。もうすぐその芸文館の人が別用でこの牛嶋さんの家に来るので、彼らのトラックに僕の家が載せられるスペースがあれば載せて行ってもらうことになった。もし乗らなければ、牛嶋さんに久留米の市街地まで家ごと乗せてもらって、そこから筑後にある芸文館まで歩く流れになる。どちらにしても今日は天気が良いので気持ちが良い。

福岡はアジア美術館があり、実際に朝鮮半島と距離が近いのもあるんだろうけど、他のアジア諸国との距離が感覚的に近いので、アジア(日本以外のアジア)のアーティストにはよく知られているみたいだし、こっちの基準も東京とか日本というよりもアジアにある感じ。

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昨晩、1ヶ月と13日ぶりに久留米の牛嶋さんのところに戻ってきた。九州はあったかい。冬用のふかふかの寝袋を持ってきたけど、まだ春用でも大丈夫だった。もしかしたら逆に暑くて寝付けないかもしれない。昨日の夜なんか半袖でも大丈夫なほど。特にあったかい日だったらしい。この1ヶ月牛嶋さんに家を預かってもらい、本体はバスや飛行機やフェリーであちこちに行って制作をしたりリサーチしたり作品を片付けたり掃除したり人と話したり、あと松本で店番したりと移動しまくった。久留米→熊本→小豆島→大阪→松本→東京→札幌→東京→小豆島→大阪→松本→東京→久留米。
今年は家との移動は少なくて、僕本体だけが作家として移動することが多い。家は小豆島から久留米まで移動しただけだ。制作の仕事のために移動しているのにお金がなくなっていく。絵本でもらった原稿料で二年くらいは生きていけるかと思ったけどもうなくなってしまった。変化が大きい。
今日から熊本に向けて歩く。家と一緒に。なぜか気持ちとしてはのんびりしている。予定に追われながら飛行機とかで高速で移動するのと全然違う。でも緊張はしている。今年最後の家の移動になると思う。熊本に着いたらそこでまた家を預けて、また東京に戻り、それ以降冬のあいだは家を移動しない。そういう予定がもう立ってしまっている。こういう動き方についていつか振り返りたいけど、とりあえず今は駆け抜ける。そんで引きこもる。
昨晩、牛嶋さんたちと熊本までの道についてグーグルマップを見ながら話し合った。柳川を通って有明海を右に見ながら大牟田の工業団地を通って熊本に行くルートか、山を越えて行くルートか。有明海ルートのほうが面白そうだ。この辺りの人はみんな有明海の干潟でムツゴロウをとったり潮干狩りをやったりしたことがあるらしい。だいたいゴールデンウィークくらいの時期に筑後川から漁師さんが操縦する船にのって有明海の沖まで漕ぎ出し、そこで干潮を待つ。潮が引くと船が干潟の上に乗っかる。それから船を降りて潮干狩りをする。潮が満ちないと船が動けないので、それまでずっと潮干狩りをやり続ける。それが長くて「早く帰らせてくれ」という感じになるらしい。でも貝が大量に取れる。潮が満ちたら、船に乗って、競争するように一斉に川に戻っていく。有明海はかなり沖の方まで干あがるらしい。一回見てみたい。

世界を図式的に(ダイアグラムとして)解釈して、からだでおこす。意外と。図式と概念。

言葉にすることと図式的に解釈することが近い

「テーマ」という言葉

作品を言葉にすること

言葉によって裏打ちされた作品

脈々と続いているもの

愛とは何か:

虚数単位の”i”と”愛”。あるかどうかわからないけどなくてはならないもの。

iがを代入すれば3次方程式がとけるがiは2乗したらマイナスになる。🔜愛

愛とは対象に興味を持つこと

記録媒体としての雑巾。USBでもなくディスクでもなく雑巾:

記憶と雑巾の類似性。脳と雑巾は似た性質を持っている。

見えなかったものを可視化するもの。汚れを

僕たちは重力村の住民で、重力弁をしゃべっている

二藤健人さんと話していて、家族を持つことや長生きモードに移行することについて考えた。

飛行機のスピードは必要ないと言いつつ飛行機を使うこと。

2016年11月7日の夜にじいちゃんから聞いた話のメモ
父方のじいちゃんのそのまた祖父は村上源三郎(源一郎?)という人で、淡路島の人だった。北海道の親戚からの手紙によると源三郎さんは船大工という話だったけど、じいちゃんの話によると船大工だったのは源三郎さんの息子の村上宗吉さんという人の奥さんの小田シゲさんたちの家系らしい。宗吉さんは源三郎さんの三男か四男で、源三郎さんが淡路島で何をやっていたかはよくわからないけど、長男しか家を継げないので「お前は自分で道を切り開け」という流れで北海道に開拓民として行った(じいちゃんは淡路島の村上家は農業やってたんじゃないかと言っていた。「農地もあまりないから北海道に行ったんじゃないか」と)。このとき宗吉さんは多分20歳くらい?
小田シゲさんは兵庫県の人で、赤穂浪士の人たちがいた城の近くに住んでいた。
宗吉さんが小田シゲさんといつ結婚したかはわからないけど、シゲさんの家は船大工だったので、北海道に引っ越しても船大工の仕事のために海沿いに住む必要があった(シゲさんの家族が宗吉さんと一緒に北海道に来たということなのか?このへんはよくわからない)。宗吉さんたちは青森まで言って、そこから船で函館に渡り、苫小牧を通って日高に着いた。最初は日高に住んでいたらしい。そのあと野塚という小さな町に移動した。宗吉さんは馬喰で、馬の売買や牧場をやっていたりしたらしい。
野塚で忍じいちゃんが生まれた。忍は宗吉さんの10番目の子供で、6番目の男の子で、末っ子だった。
じいちゃんは野塚で小学校に通った。そこではアイヌの子供達も一緒に勉強した。アイヌの子供達はみんな貧乏だった。勉強もあまりできなかった。お昼の時間に弁当を持ってきていなかったし、服も寒そうだった。長靴を持っていなかった。みんな羽織の着物を着ていた。アイヌの子達はお弁当の時間になるとどこかにいなくなった。多分どこかに食べ物を食べに行っていた。学校では一緒に遊んでいる人もいた。「学校ではみんな仲良くしましょう」と言われた。物が盗まれたりすると「アイヌの人が盗んだ」と言った。「でもアイヌはしょうがないか」と落ち着いた。
「ひとつ印象深いことがあってねえ」と言っておじいちゃんが話したこと。
『おじいちゃんが住んでいた家は旅館もやっていて、そこではショウチュウという安い酒を売っていた。ある日そのショウチュウを落としてガラスが割れ、道路にこぼしてしまった。道路は馬の糞やらがあってとても汚かった。そこにアイヌの大人たちがやってきて、道路にこぼれたショウチュウを飲んでいた。それをみてじいちゃんは「大変な生活してるんだな」と思った。』
また、アイヌの熊送りの祭りを家族みんなで見に行ったこともあった。声の出し方や踊り方が独特であまり面白いものじゃなかった(これが野塚での事か広尾での事かはわからない)。ちなみに白老には大きなアイヌの村があった。
小田シゲさんは結構なやり手のお母さんで、宗吉さんは「勉強なんかしなくてもいい」という感じだったけど、シゲさんがそれを許さなかった。子供達みんなに勉強させた。長男(じいちゃんのお兄さん)のトミタロウさん以外はみんな(?)師範学校に行った。トミタロウさんは師範学校にはいかなったけど、誰よりも勉強してブンケン(文部省の学力テスト)に合格して、根室高等女学校の校長先生にもなった。師範学校というのは学校の先生になるための学校で、お金をもらいながら勉強をすることができた。「頭の良い貧乏が行く学校」だった。師範学校にはお寺のこどもや旅館の子供も多かった。師範学校では帽子とマントをもらった。また毎月7円50銭もらうことができた。当時は7円で米を一俵買うことができた。みんな「家にお金が送れる」と喜んでいた。
じいちゃんは18歳になって赤紙をもらい太平洋戦争に駆り出されそうになったけど、8月15日生まれという誕生日が幸いして、戦争に行く前に太平洋戦争が終わった。村上家は野塚から広尾に引っ越した。大きな家を建て、旅館を経営した。旅館はシゲさんが先導してらしい。
じいちゃんは札幌の師範学校で民主主義を勉強した。6ヶ月間勉強して「准訓導」になり、大樹小学校で先生をやった。そのあと帯広の高校の先生を一年半務めた。(ちなみに千枝ばあちゃんの出身地は帯広。千枝ばあちゃんとどうやって知り合って結婚したかは聞いていない)
そのころじいちゃんは29歳。「東京に行きたい」と思っていた。東京に行きたいと思ったのは4月だったので、もう仕事を探すのは難しい。「あと一年は北海道にいないとダメかな」と思ったけど、(勢いで)東京に行ってしまった。千枝ばあちゃんも説得して一緒に上京した。東京での仕事のアテはなかった。
東京に行ったら、たまたま高等学校の先生から「音楽の先生で2名の追加募集がある」というようなことを聞いた。その追加試験に合格した。それで中学の音楽の先生もできることになった。金町中学校の音楽の先生になり、お花茶屋に住み始めた。

2016年11月8日に父から聞いた追加の事
父によると、じいちゃんは東京に来て日大の芸術学部の音楽学科で音楽の先生になるための勉強をしたらしい。その後じいちゃんは足立の伊興中学校の校長先生にもなった。父は東京で生まれた。日大の経済学部を出て時計店でスチールと皮のバンドを取り扱っていた。当時はバブル期で、数百万~一千万円する高い時計も売れた。残業は150時間だった。給料よりも残業代の方が高かった。25歳の時に喧嘩して時計店を辞めて音楽の勉強のためにセイセン音楽学校に入った。そこで母と出会った。母は沖縄から歌をやるために上京してきていた。「卒業したら音楽の先生になるから」というセリフで両親を説得して出てきたけど先生になるつもりはなかった。
27歳の時に父は専門学校を出た。母は新宿でOLをやっていた。僕が生まれるまで父は正規の先生じゃなくて講師として働いていた。教員採用試験はとても厳しく、なかなか受からなかったけど、僕が生まれた後に合格し、正規の先生になった。
僕が小さいころ一緒に住んでいた渋谷ミスエさんは、千枝ばあちゃんの母親。ミスエさんはばあちゃんの父の再婚相手で、ばあちゃんには兄弟がいたけどミスエさんの子供は千枝だけだった。なので東京で一緒に住んでいた。

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話をうけて
僕はミスエさんがなんで一緒に住んでたのか、これまでに聞いた事があるのかもしれないけど全然覚えていなかった。結構すごい事だ。
アイヌの大人たちが道路に溢れたお酒を飲んでいるのをみてじいちゃんが「大変な生活をしている」と感じたのがひっかかる。

札幌で展覧会に参加しています。

◯さっぽろアートステージ2016
アートストリート「それぞれの時間」
会場:チ・カ・ホ(札幌駅前通地下歩行空間)
会期:2016年11月05日(土)〜2016年12月04日(日)9:00 – 21:00
参加作家:玉山拓郎、ケビン・ガフニー、山城大督、地主麻衣子、佐藤雅晴、高橋喜代史、鈴木悠哉、張小船、進藤冬華、村上彗、櫻田竜介
http://www.s-artstage.com/2016/artstreet

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看板をつかって色々やりたいと思っていて、いろんな人にプランのアイデアのPDFを見せていたら、屋上に白い看板が余っている建物に出会った。大阪の谷町6丁目駅から歩いて5分くらいのところにある「上町荘」という建物で、建築家の山口陽登さんを始めとした建築家や学生と一緒に掃除から始めた。
今回は看板の内部空間をギャラリーに改装して、看板で得た広告収入で中のギャラリーで展示をするというもの。ギャラリーをまわしていけたら良い。上町荘は1階がイベントスペースのようなところで、2階と3階に建築家やデザイナーの事務所がいくつか入っています。
10月16日に掃除とサビ落とし。11月11日に内部の鉄骨のペンキ塗りと「広告募集」という字をモップで書いた。今はスポンサーを待っている状態。せっかくなので学生を含めた少人数のチームをつくってやっていこうということになった。

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今はフェリーに乗っている

今度は気がついたらバスに乗っている

気がついたら飛行機に乗っている

札幌での展示に参加するために北海道にいる。広大で平らな土地。空の色と、山の森林の色がとても綺麗だ。紅葉していることもあるけど、木の種類が多くて色々な色が見える。
アイヌ民族博物館(ポロトコタン)。アイヌの人々は農耕はやっていたけれど、(こちらの時代でいう)江戸中期にはもうやめてしまい、儀式に使うものをつくるためにやっていた程度だったらしい。彼らは弥生ではなくて縄文文化を選んだ。でも移動生活をしていたわけではなく、各々の村には各々の狩猟場がきめられていて、そこで狩りをやって生活をしていた。鮭の燻製をつくり、冬に備えて備蓄したり交易で漆器(われわれ「和人」からの輸入もので、これを一つ得るには鮭が何百匹も必要だったり熊の毛皮が数頭分必要だったらしいけど、これをたくさん持っているとその家はまわりから尊敬されたという)や木綿と交換したりしていた。定住で、かつ狩猟採集生活をしていた。鮭の皮やアザラシの皮で作った靴や、オヒョウという木の皮を剥いで、裂いて、煮て、また裂いて2,3ミリの糸状にして、それを編んで着物をつくって儀式に使ったり、熊の皮で毛皮の服をつくって冬を越したりしていた。彼らの村や土地の名付けかたが、「大きな湖のある場所」とか「大きな乾く川」とか、なんというか自然本位で、北海道の地名とその意味を眺めてるだけで瑞々しい。文様とか、カムイ・ユーカラ(神謡)の日本語訳とかを眺めていると純粋に美的な感覚に優れていて、これが全然敵う気がしない。たぶん、雨が体にあたったり、葉っぱが落ちるのを見たり、鳥が飛んでいくのをみたり、そういうちょっとしたことから大きなイマジネーションを得ていたんだろうということがビシビシと伝わって来る。カムイ・ユーカラを見てたら宮沢賢治の詩を思い出したりした。アイヌの中にも色々な文化圏があるようなので一概には言えないだろうけど。
最初は普通に交易していた僕たち和人が彼らを「遅れた民族・土人」と呼んで本格的に植民地化しはじめたのは150~100年くらい前で、ちょうど僕のひいひい爺さんが淡路島のあたりから北海道に渡ってきたらしい時期と重なる。おそらく開拓民のうちの一人だった。北海道には古い建物はあまりない。それは当然北海道に僕たち和人が入っていったのがたかだか150年前程度で、歴史の蓄積がまだ全然ないからだ。彼らの視点になったつもりで日本を眺めると、自分の足元が揺らぐのを感じる。博物館で自分が着ている綿の服を改めてよく眺めたらとても奇妙なものを着ている感じがした。

天神山アートスタジオの最寄駅である澄川駅から札幌駅へ向かう地下鉄の中。白老のアイヌ民族歴史博物館と苫小牧の美術館博物館にいくために乗っている。

半径3メートルの人に届くように考えるとか、半径10メートルの幸せだけを考えるとかそういう話をよく聞くようになった。そういう時代らしい。でもそうやって割り切っちゃうのも駄目だと感じる。

考えてみたら、その人にとっては当たり前にできることをとりたてて「こうするときはこうする」ということを書きたてるのはそれだけで差別的になる可能性があるな。虫や魚を観察しているようになってしまって。

熊本市の現代美術館の裏の地下にある「珈琲人」という喫茶店のカウンター席にでパソコンを開いてる。店主がめちゃ良い感じのおじさん。昔からある喫茶店ぽい。僕が入った時はカウンターに常連客っぽい人が座っていて、その人が帰ったらすぐまた同じ席に男性の常連客っぽい人が座った。テーブル席がよかったのだけど店内が混んでいてカウンターしか入れず。今日は日曜日で街に人も多い。アーケード商店街には「シャボン玉に入ろう」というブースとかダンスをするステージみたいなのが組まれてて、ビデオを回してるお父さんやお母さんがたくさんいたりする。今日はとても涼しくて過ごしやすい。

熊本は初めて来た。市街地は時々屋根が崩れてたり壁のタイルが剥がれてたり、古い家は大きく傾いてて立ち入り禁止と書かれてたりする。建物の壁に青や赤の紙が貼られていて紙には建物の状態によって「危険」とか「注意」と書かれている。全体的には街並みは保たれてて、日本は地震に強い国だなあというのが率直な感想。でももっと東の方にいくと酷く傷んだ地域がある。

一昨日のお昼頃幼稚園の駐車場を出発して10キロくらい歩いたけどなんだか体が疲れてるのを感じて八幡の駅近くにある図書館の駐輪場に家を置いて、図書館のロビーに一人がけのソファがたくさん並んでてそこではリラックスした老人方がうとうとしてたので僕もそこに仲間入りして休憩することにした。気がついたら30分くらい寝ていて、もうここから家を動かすのもしんどく感じた。ダメもとで頼んでみようと思って、図書館の司書さんに家をここに一晩置かせてもらえないかと聞いてみた。そこで寝るのは無理だろうから僕はどこか近くのネットカフェとかで寝ればいい。

司書さんが事務所みたいなところに連れて行ってくれて館長に会わせてくれた。館長を見た瞬間「ここはいけるかもしれない」と思った。館長に「事情をお聞かせ願えますか」と聞かれたのでいろいろと事情を説明したら割とすんなりOKしてくれ、建物の裏の一般の人は来ないところに家を置かせてもらった。それから50分くらい歩いたところにあるネットカフェに行って寝た。

翌日朝9時ごろ図書館に家を取りに行って近くの公園に置いて100円ショップで買ったドライバーで家を解体して紐で縛り(解体して縛るのに1時間以上かかった)八幡駅から久留米行きの電車に家を乗せて出発。筑後草野という駅まで言った。電車を降りて家を再び組み立ててそこから15分くらい歩いたところにあるアーティストの牛嶋均さんの家へ。牛嶋さんは来年スウェーデンで参加するOpenArtで一緒になるアーティスト。鉄工所を経営してて公園の遊具などを作りながら制作活動をしている。受注した仕事としてやるのと同じラインで作品もつくるらしい。牛嶋さんのところに着いてしばらくしたら豪雨が降り出した。

豪雨の中、グラインダの回転音と溶接の音と、時々鉄と鉄がぶつかる音。

夜に焼き鳥屋に連れて行ってもらい(久留米は人口に対する焼き鳥屋の比率が日本で一番多い焼き鳥激戦区らしい)、帰ってからも夜中までいろいろと話した。とても良い時間。その日は牛嶋さんの家に泊まらせてもらった。

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出張の用事がいろいろできたので家をどこかに預けたかったのだけど、ありがたいことに牛嶋さんのとこで預かってもらえることに。朝には牛嶋さん家族と家と別れて、電車で熊本まできた。目当ては下関で毎日新聞の記者に教えてもらったオレンジというカフェに行くのと、上町郵便局の近くで展示されてる自分の作品を見るのと、熊本地震の跡を見るのと、人に会うのと。オレンジというカフェは今改装中らしく入れなかった。

 

とにかく街に人が多い。人口や駅の規模の割に街にいる人が多いと感じる。みんな外に出て話したり飲んだりするのが好きらしい。

マルショクという複合スーパーの休憩コーナーにいる。休憩コーナーは世界で一番面白い場所。

目の前に2台の飲み物の自動販売機と17アイスクリームの自動販売機がある。外との仕切りが全部ガラス戸で、この店の駐車場が見える。空は曇ってる。

隣にココカラファインというドラッグストアのエリアがあるんだけど、そこからcocokarafine-free-wifiというwifiが飛んでいてインターネットが使える。ドラッグストアでネットが使えるとは驚いた。まだ朝なのに眠い。さっき近くの幼稚園に家とともに突入して、「地震が来たらどうするんですか」「逃げます」「キノコが生えたらどうするですか」「食べます」「雷が落ちたらどうするんですか」「雷が落ちたら死にます」と幼稚園児から洪水のような質問を浴びまくった。しかもアベマTVのカメラが回っていた。アベマTVはテレビ朝日がやってるインターネット放送局らしい。昨日の昼過ぎからずっとついてる。

昨日は台風も過ぎ去って良い天気のなか、長府のお寺を出発して関門海峡を目指した。途中、長州藩の大砲を見ようと思って下関市立博物館にいったけど、移転準備のために休館していた。目の前に「下関市立歴史博物館」という真新しい建物が建っていたのでこっちに移るらしい。それは11月18日オープンらしい。残念。

歩いてる途中でトラックに乗ってヘルメットかぶったおじさんと

「引っ越しですか?引っ越しされとんですか?」

「引っ越しです」

という1往復の会話。

関門海峡近くに来て、長州藩の前田砲台跡を見てたら近所のひとらしきおじさんが話しかけてきた。

僕の家をみて「これどこにつけるん」と聞いてきた。砲台跡のどこかに設置すると思ったらしい。彼は昔タンカー船に乗る船乗りで世界中の海を回る仕事をしていたけど、退職してから「どこに住もうかな~」と考え、この近くの海が見える家を買って住んでる。「なんで下関にしたんですか」と聞いたら「下関が発祥の地だから」と言ってた。

そのあと関門海峡につき、人道トンネル(下関と門司のあいだの関門海峡は短いところで700メートルしかなく、人が歩いて通れる海底トンネルが通ってる)の入り口まできたらそこで茶色い作務衣のような服を着たおじさんと会った。「そこで紙芝居やってるんだけど見に来ない?」と。「歴史体感紙芝居 “動けば雷電の如く・・・風雲児高杉晋作」という紙芝居。下関の観光PRとしてボランティアでやってるらしい。長州藩が攘夷のために連合軍に砲撃するところから始まり、奇兵隊が結成されたり、船に乗る坂本龍馬の後ろ姿の絵と共に薩長同盟が結ばれたりして、27歳で結核で亡くなるまでの高杉晋作を描いた紙芝居。途中でマイクの調子が悪くなっておじさんの声が車にかき消されてよく聞こえなくなったりした。おじさんの話し方や立ち振る舞いから、もう長いことここで紙芝居をやってることが伝わってきた。

紙芝居みてから人道トンネルを渡った。一緒に渡った男性の話によると、このトンネルは国道2号線で地下50メートルで長さ800メートル。ひたすらに一本道。この上に海があると思うとあまり長居はしたくないトンネル。途中で4、5人とすれ違った。トンネルと途中で山口県と福岡県の県境があった。海を境にして別れるんじゃなくて、海の中まで入っていって県境を決めている。このトンネルがどこか破損して、それが福岡県側だったら福岡の行政が直したりするのか。

門司港に渡ったところでアベマTVのクルーと合流して、わかしんさんという人とか菊池さんというタレントの人とかと話したりしてから小倉方面へ歩く。

途中でマックのドライブスルーを見つけてシェイクが飲みたいと思ったのでドライブスルーに家で行ってみるかと思い立ち行ってみたら、注文までは普通にして受け取る時に店員のお姉さんから「基本的には中でアレしてください」と言われてから渡された。中でアレしてください。とは

眠い。これを書きながら何度も寝そうになっている。休憩コーナーの後ろの席に座ってるおじさんが繰り返しくしゃみをしてる。

カメラの質問に答えながら歩いてるといつのまにか暗くなってしまって、門司駅と小倉駅の間で敷地を探すためにお寺を回ったが、どこも誰もいなかったり住職がいなくて判断できなかったりして、夜の住宅街の路上でTVのクルーの人たちと途方にくれてたら、通りすがりの女の人が家を見て「これはなんですか?」と話しかけてきた。事情を説明して「いま敷地を探してるんですよ」と言ったら、そこを通りかかったまた別の人にその人が話しかけて、いろいろやってるうちに、あとで通りかかった人が近くの幼稚園の園長先生で、その幼稚園の駐車場なら「寝てもいいですよ!」ということに落ち着いた。行ってみたらなんと隣がコイランドリーの最高の立地。家はそこに落ち着き、番組のディレクターの人と近くの「銀座カレー」という、超ローカルなのに入りやすくてしかも超安い最高のカレー屋さんで一緒いんご飯を食べ、ロケ車で3キロ戻ったところにある門司駅近くの「楽の湯」というスーパー銭湯に送ってもらってお風呂に入って歩いて幼稚園の駐車場に置いた家に帰って寝た。

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叩き起こされた。

「誰か入っとんかー」という声とともに家がバンと揺れてまた「誰か入っとん?」と声がしたから「はい!」と声を出したら「入っとんか」と行って去っていった。窓からみたら幼稚園の送迎バスの運転手だった。彼は幼稚園の人に「あれ何なん?誰かはいっとるけど」と聞いて、園の人が説明してくれていた。今は幼稚園の中の不思議なスペース。畳敷きの居間のようなところにいる。日本人形のようなものも飾ってあったりテレビがあったりタンスがあったりこたつがあったりするので、ここだけみると完全に誰かの家に居るようだけど、隣から幼稚園児たちのにぎやかな声が聞こえたり職員さんが話す声が聞こえる。スタッフのおばちゃんがご飯と味噌汁の朝ごはんを準備してくれている。ありがたい。

すっかり良い天気になり、風もだいぶなくなった。今日は動けそう。昨日家は移動させなかった。

家はお寺の山門を入ってすぐ左の小さなお堂の軒下に置いてあるんだけど、目の前が芝生になっていてそこに桜の木とか紫陽花など色々植えられている。中サイズの蜂らしきものが何匹も飛んでる。朝の陽の光を受けて、蜘蛛の巣がきらきら光ったりもする。昨日の台風の名残として、桜の木の枝が何本か地面に落ちている。植物と一緒に小さな灯籠が二つ置いてある。発泡スチロールの窓を開けると、ちょうどその灯籠が二つ並んで正面に見えて気持ちが良い。

ジョイフルHOTEL AZ店にいる。いかにも労働者という感じの男臭い男性が多い。出張でこのホテルに泊まってるみたい。みんなビール飲んでる。このあたりはブリヂストンの工場もある工場地帯で、たぶんそのどこかに勤めてる人だろうと思う。台風は今日の明け方に襲ってきた。かなりの風と雨で、家もすこし揺さぶられたけど、けっこうあっという間に過ぎ去っていった。朝になってからだったから助かった。夜だったら寝付けなかったかもしれない。台風が過ぎたあとは気温と湿度が上がり、家の中にいるのが辛いほど暑くなった。

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2016.10.5 山口県下関市長府金屋町

山陽小野田市の家に飼われていたうさぎの大ちゃんは、子供の誰かが外泊で家からいなくなったり風邪をひいたりすると、体調を崩して病気になってしまうらしい。また忙しくて餌をあげるだけの日々が続いてしまったりすると仮病をして寝床の家の中から出てこなかったりもする。頭が良くて、寂しがりやでうさぎを飼うのも色々と大変そう。