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今日は暖かい。明け方もそんなに冷えなかった。日差しもあって、昨日に引き続き春みたいな陽気。家は動かさなかった。

大和郡山っていうところに住んでる人からメールがきて、奈良駅で待ち合わせた。僕の日記を読んで る人で「近くを通ったら敷地使ってください」って言ってくれた人。一緒にご飯を食べて、Out of Placeに案内してみた。その人は奈良の人だけど
「こんなところ歩いたことないです」
って言ってた。ギャラリーの隣のコーヒー屋さんにも寄って帰っていった。僕はその人にとっての新 しい場所の開拓を手伝えたのだ。嬉しかった。

夜、津嘉山さんと一緒におでん屋さんに行って色々話した。津嘉山さんは幼少時の経験をヒントに過去に荒川修作の研究をしていて、インタビューもしたことがあるらしい。僕の「歩くってのは土地と ダンスをすることだ」っていう話とか「轢かれた蛇の死体を見つけたら報告するようにしてる」っていう話を聞いて、荒川さんのことを思い出したらしく、いろいろと話が盛り上がった。そこで僕はとても大切なリンクを得た。 僕が大学生の時に散歩サークルの「東京もぐら」をやって考えていたことから現在考えていることまで、知らず知らずのうちに身体の問題とつながっていて、それは荒川さんがやっていたこととほとんど直結してるみたいだ。いろいろなことが、身体の問題にすこしずつ繋がっていく。この社会装置が、当人の無意識のうちに、人の身体にその社会での「振るまいかた」を学習させてしまう、ということに対しての抵抗を荒川さんはやろうとしていたってことが分かってきた。

僕は、たとえ半年前のことでも、日記を読んだり自分の家を置いた場所の写真をみたり、そのとき描いた絵を見たりすると、その日の天候とか空気の感じをからだで思い出せる。前にも書いたけど、電車とか車で平行移動した時におこる「断絶」は、土地と土地を切り離してしまう。それは「ある土地の時間」と「別の土地の時間」を切り離すことにもなる。
僕はほぼ歩いて移動しているので土地と土地の断絶がおこりにくい。今いる奈良県と青森県を完全に同じ地平上でイメージできる。なんで「奈良」と「青森」って呼び方を変えるんだろうとさえ思う。

それは「日本全体が自分のからだになっていく感覚」って呼んでもいい。だから「移動している感覚」もないし、天候とか空気を思い出す事もできる。天候が思い出せるのは、そのときの状況が写真 や描いた絵でイメージできた時だ。「何月何日だった」とか「なんていう名前の町にいたか」とか、 そういうことじゃない。「あの雨の日で、靴が濡れていて海が右側に見えて…」ていうイメージか ら、そのときの「感じ」をからだが思い出す。
歩く事は土地とのダンスだ。それが荒川修作と繋がってくるなんて。ミックジャガーとシチュアシオニストとヘンリーデビットソローと坂口恭平と荒川周作が全部つながってくる。ブコウスキーも「日 雇い労働から文章のつくりかたを学んだ」みたいなことを言ってた。

いま、電車がとまったり車がとまったりすることを「事故」と呼び、それを排除するのが正義とされているけれど、それはある「事故」にであったときの身体の学習の可能性をつぶす事になる。それに
抵抗するために荒川修作は、床が傾いてでこぼこで、あちこちに変な突起があって色がやたらカラフルな家を設計したのだ。

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柿が洗濯物と一緒に干されてた

Posted by satoshimurakami