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ぶんちゃん「死ぬまで俺は、このことは自分の胸の中へ大事にしまっとこうと思ったんだ。でも患って寝てるうちに考えが変わってきちゃったんだ。黙ったってつまんねえ。たったひとことで良いんだ。小せえ時からおめえさんのことが好きだったって、訳ぁねえよ。これっだけでいいんだ。これだけで気がすむんだ。だけどな、どうも俺には言えそうもねえ。だからね、酒を飲んで酒の勢いで一思いにやっつけようと思ったんだ。笑っちゃ嫌だぜおじさん。人に言っちゃ嫌だぜおじさん。」

おじさん「しかしなあぶんちゃん、おじさんに言わせると、それはよした方がよかあねえかなあ?

なげえ間、せっかく後生大事に胸の中へしまっといた事じゃねえかよ。そいつを今更何も外へぶちまける事もねえじゃねえか。うちあけられてその人は喜ぶかい?ねえぶんちゃん、人間てえものは自分の好きなものってえとすぐに自分のものにしたがったり、面と向かってあけすけに好きの嫌いのと言わなきゃあおさまらねえ。そいつは面白くねえと思うな。

例えばだねぇ。例えば、山の上の枝っぷりの良い一本松。こいつはどうにも自分のものにはならねえや。え?自分のものにならなくっても、芯から俺は大好きで、惚れ惚れまいにち眺めるんだ。無論、松はこっちの心は知らねえ。知らなくったって、そんなことは構わねえんだ。人間にだってそういう惚れ方があってもいいじゃあねえか。そういう惚れ方が、本当の惚れ方じゃねえか?自分のものにならねえのを承知の上で、こっそり誰にも内緒で黙って惚れるんだ。惚れっぱなしでお終いになるんよ。いいじゃあねえかこれでけっこうじゃねえか。なにをいまさら”わたくしはお前さんが好きでございました”。キザじゃあねえかそんなのはあ、俺は嫌だねえそんなのは。

宇野信夫「下町」というラジオドラマのクライマックス。近代はぶんちゃんをとったらしい。おじさんはいなくなった。

08140301 | 2016 | 未分類 | Comments (0)

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