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2016年11月7日の夜にじいちゃんから聞いた話のメモ
父方のじいちゃんのそのまた祖父は村上源三郎(源一郎?)という人で、淡路島の人だった。北海道の親戚からの手紙によると源三郎さんは船大工という話だったけど、じいちゃんの話によると船大工だったのは源三郎さんの息子の村上宗吉さんという人の奥さんの小田シゲさんたちの家系らしい。宗吉さんは源三郎さんの三男か四男で、源三郎さんが淡路島で何をやっていたかはよくわからないけど、長男しか家を継げないので「お前は自分で道を切り開け」という流れで北海道に開拓民として行った(じいちゃんは淡路島の村上家は農業やってたんじゃないかと言っていた。「農地もあまりないから北海道に行ったんじゃないか」と)。このとき宗吉さんは多分20歳くらい?
小田シゲさんは兵庫県の人で、赤穂浪士の人たちがいた城の近くに住んでいた。
宗吉さんが小田シゲさんといつ結婚したかはわからないけど、シゲさんの家は船大工だったので、北海道に引っ越しても船大工の仕事のために海沿いに住む必要があった(シゲさんの家族が宗吉さんと一緒に北海道に来たということなのか?このへんはよくわからない)。宗吉さんたちは青森まで言って、そこから船で函館に渡り、苫小牧を通って日高に着いた。最初は日高に住んでいたらしい。そのあと野塚という小さな町に移動した。宗吉さんは馬喰で、馬の売買や牧場をやっていたりしたらしい。
野塚で忍じいちゃんが生まれた。忍は宗吉さんの10番目の子供で、6番目の男の子で、末っ子だった。
じいちゃんは野塚で小学校に通った。そこではアイヌの子供達も一緒に勉強した。アイヌの子供達はみんな貧乏だった。勉強もあまりできなかった。お昼の時間に弁当を持ってきていなかったし、服も寒そうだった。長靴を持っていなかった。みんな羽織の着物を着ていた。アイヌの子達はお弁当の時間になるとどこかにいなくなった。多分どこかに食べ物を食べに行っていた。学校では一緒に遊んでいる人もいた。「学校ではみんな仲良くしましょう」と言われた。物が盗まれたりすると「アイヌの人が盗んだ」と言った。「でもアイヌはしょうがないか」と落ち着いた。
「ひとつ印象深いことがあってねえ」と言っておじいちゃんが話したこと。
『おじいちゃんが住んでいた家は旅館もやっていて、そこではショウチュウという安い酒を売っていた。ある日そのショウチュウを落としてガラスが割れ、道路にこぼしてしまった。道路は馬の糞やらがあってとても汚かった。そこにアイヌの大人たちがやってきて、道路にこぼれたショウチュウを飲んでいた。それをみてじいちゃんは「大変な生活してるんだな」と思った。』
また、アイヌの熊送りの祭りを家族みんなで見に行ったこともあった。声の出し方や踊り方が独特であまり面白いものじゃなかった(これが野塚での事か広尾での事かはわからない)。ちなみに白老には大きなアイヌの村があった。
小田シゲさんは結構なやり手のお母さんで、宗吉さんは「勉強なんかしなくてもいい」という感じだったけど、シゲさんがそれを許さなかった。子供達みんなに勉強させた。長男(じいちゃんのお兄さん)のトミタロウさん以外はみんな(?)師範学校に行った。トミタロウさんは師範学校にはいかなったけど、誰よりも勉強してブンケン(文部省の学力テスト)に合格して、根室高等女学校の校長先生にもなった。師範学校というのは学校の先生になるための学校で、お金をもらいながら勉強をすることができた。「頭の良い貧乏が行く学校」だった。師範学校にはお寺のこどもや旅館の子供も多かった。師範学校では帽子とマントをもらった。また毎月7円50銭もらうことができた。当時は7円で米を一俵買うことができた。みんな「家にお金が送れる」と喜んでいた。
じいちゃんは18歳になって赤紙をもらい太平洋戦争に駆り出されそうになったけど、8月15日生まれという誕生日が幸いして、戦争に行く前に太平洋戦争が終わった。村上家は野塚から広尾に引っ越した。大きな家を建て、旅館を経営した。旅館はシゲさんが先導してらしい。
じいちゃんは札幌の師範学校で民主主義を勉強した。6ヶ月間勉強して「准訓導」になり、大樹小学校で先生をやった。そのあと帯広の高校の先生を一年半務めた。(ちなみに千枝ばあちゃんの出身地は帯広。千枝ばあちゃんとどうやって知り合って結婚したかは聞いていない)
そのころじいちゃんは29歳。「東京に行きたい」と思っていた。東京に行きたいと思ったのは4月だったので、もう仕事を探すのは難しい。「あと一年は北海道にいないとダメかな」と思ったけど、(勢いで)東京に行ってしまった。千枝ばあちゃんも説得して一緒に上京した。東京での仕事のアテはなかった。
東京に行ったら、たまたま高等学校の先生から「音楽の先生で2名の追加募集がある」というようなことを聞いた。その追加試験に合格した。それで中学の音楽の先生もできることになった。金町中学校の音楽の先生になり、お花茶屋に住み始めた。

2016年11月8日に父から聞いた追加の事
父によると、じいちゃんは東京に来て日大の芸術学部の音楽学科で音楽の先生になるための勉強をしたらしい。その後じいちゃんは足立の伊興中学校の校長先生にもなった。父は東京で生まれた。日大の経済学部を出て時計店でスチールと皮のバンドを取り扱っていた。当時はバブル期で、数百万~一千万円する高い時計も売れた。残業は150時間だった。給料よりも残業代の方が高かった。25歳の時に喧嘩して時計店を辞めて音楽の勉強のためにセイセン音楽学校に入った。そこで母と出会った。母は沖縄から歌をやるために上京してきていた。「卒業したら音楽の先生になるから」というセリフで両親を説得して出てきたけど先生になるつもりはなかった。
27歳の時に父は専門学校を出た。母は新宿でOLをやっていた。僕が生まれるまで父は正規の先生じゃなくて講師として働いていた。教員採用試験はとても厳しく、なかなか受からなかったけど、僕が生まれた後に合格し、正規の先生になった。
僕が小さいころ一緒に住んでいた渋谷ミスエさんは、千枝ばあちゃんの母親。ミスエさんはばあちゃんの父の再婚相手で、ばあちゃんには兄弟がいたけどミスエさんの子供は千枝だけだった。なので東京で一緒に住んでいた。

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話をうけて
僕はミスエさんがなんで一緒に住んでたのか、これまでに聞いた事があるのかもしれないけど全然覚えていなかった。結構すごい事だ。
アイヌの大人たちが道路に溢れたお酒を飲んでいるのをみてじいちゃんが「大変な生活をしている」と感じたのがひっかかる。

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