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展示のために金沢に滞在して居るときに、まあいつものことだけど狭い路地を自動車が結構なスピードで通り抜けて行くことに強い違和感を感じて、そのときメモとして「車は速いけど、なにかを逃している。歩くことのなかには明らかに時速60キロメートルとは違うはやさがある」と書いたのだけど、いま宇沢弘文先生の自動車の社会的費用という本を読んでいて、あの違和感の正体がひとつ腹に落ちた。宇沢先生は霞を食べて生きていそうな仙人のような風貌をしていて、まずそれが凄まじいエネルギーを発しているのだけど、この本を読んでそのエネルギーの出所を見たような気持ちだ。とても古い本なのだけど40刷以上されている。自動車が爆発的に普及した背景を

「自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する」

「自動車の保有台数が増えてきたのはなぜであろうか。さきにふれたように、そのもっとも大きな要因は、自動車交通によって第三者に大きな被害を与え、希少な社会的資源を使いながら、それらに対してほとんど代価を支払わなくともよかった、ということをあげることができる。すなわち、本来、自動車の所有者あるいは運転者が負担しなければならないはずであったこれらの社会的費用を、歩行者や住民に転化して自らはわずかな代価を支払うだけで自動車を利用することができたために、人々は自動車を利用すればするほど利益を得ることになって、自動車に対する需要が増大してきた」

「自動車の普及によって、他人の自由を侵害しない限りにおいて各人の行動の自由が存在するという近代市民社会のもっとも基本的な原則が崩壊しつつある」

と言い、ここから

「どのような社会的費用を発生させているか、ということに十分な配慮がないまま、各人がそれぞれ自らの利益をのみ追求しようとする一般的傾向を生み出してきた」

と批判している。そしてこの本の目的として、自動車の社会的費用を具体的に算出し、さらにそのことを通じてより人間的な意義のある経済学を探ろうとしている。

70年代に書かれた本であるおかげで、問いかけがとても根本的で、読んでいて色々と思い出したことがある。「道路とはそもそも歩行者のための場所だったこと」「日本の都市部は欧米諸国と比べて公園が極端に少ないけど、それを道路で補っていたということ」「なので、『自動公園をつくる』ということも自動車の社会的費用とするべきだということ」

また『鉄道は鉄道会社が持っている土地とそこにおかれるレールを、利用者の運賃によってまかなうという自然な方法をとっているのに、自動車が走る道路は、自動車に乗らない人も払っている税金によってつくられているという理不尽がまかり通っているのはなぜか』という至極当たり前の疑問もわいてくる。そのようにして作られた車道なのに、歩行者は自動車から隠れて歩かないといけないという始末。なんでこんなことになってしまったのか。最初のルール作りを間違えてしまったために、色々と変なことが当たり前になってしまっていて、さらに宇沢先生も言うように、そういう習慣が知らず知らずのうちに僕たちの心に作用して、己の利益のみ追求するという雰囲気を育んでしまっているという可能性はないか。

09290000 | 2018 | 未分類 | Comments (0)

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