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久々に街に出かけて、絵本のためのドローイングを宅急便に預けた足でongoingに行って展覧会に行って来た。ストレートな政府批判の作品という情報を事前に入れていたけどそうは見えなかった。手や耳や口を塞いだ小さな人のような石膏像がたくさん置かれていて、”現実を見ていない人々”を皮肉りたかったのだろうと思うけど、それが作品として売買されていて、それが一番皮肉だった。この石膏像が誰を指すのかよくわからず、帰りに井之頭公園にいって犬の散歩をしてる人たちや鬼ごっこをしている子供達を眺めながら、この人たちのことを言っているのかと思うと、あんな単純な構図ではないと思った。昨日はPOISON-言いたいことも言えない世の中じゃ-という曲の歌詞について考えていて、この曲もこの作品と同じように、とかく自分の外側(にあると、作者が思い込んでいる)のもの(”世の中”とか”世間”とか)に対しての表現は、紋切り型というか、だいたいどれも同じようなメッセージになる。中心が空の、ドーナツのような物体を見ている気持ちになる。”中動態の世界”からいくと「誰かに騙されること」と「自分を騙すことなく生きていくこと」の境界は実はものすごく曖昧で、物事を見る側の網膜がレディメイドになってしまっている状態を解体しようとしたデュシャンから50年経っても、こんな感じなのかと思った。「中動態の世界」の対極にあるものとして、POISONや、今回の作品を考えてみると良い。テレビドラマのバックアップのもと、国民という”空想の総体”に向けて作られたもの。デュシャンはそれを暴こうとしていた。しかしpoisonに関しては、反町は俳優で芸能人であることを考えると、もっと複雑な話になってくる。。反町がこの歌詞を本心から思っているかどうかは関係なく、俳優としてのアイデンティティと個人としてのアイデンティティを分けて考えていて、つまり「死ぬまでピエロ」を決め込んで生きている可能性もあり、それはそれで「かっこいい」と思ってしまうところだが、それは本当にかっこいいことなのか?「死ぬまで語らず」的な「最後まで役者だった」的なそれ。そういうものを美徳としてしまう考え方も、単なるイデオロギーなんじゃないか?それはなんとなく「ブラック企業」を思い起こさせる。

12021659 | 2018 | 未分類 | Comments (0)

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