2013年7月23日11時58分

 

僕がバイトに行くときに払う運賃は、電力会社や鉄道関連の財界にもいくだろう。電力会社はそのお金で高速増殖炉を動かしたり原発を動かしたりするお金になっていくだろう。僕が通る道路は税金によって整備されているものだし僕が買う服、使うシャンプー、お菓子などなどには化学でつくられたものが当然入っていてそれらを生み出す為に空気が汚されているのだろう。僕はバイトにいくためにバイトをしている。ほとんどの人は仕事にいくために仕事をしているのだ。ひとりひとりが全部考える必要の無い、民主主義、資本主義、分業の進んだこのシステムに置いてけぼりにされてしまった思考能力達がたくさんいるのだ。毎晩仕事から帰ってくる父に、あるいは毎日暑い中段ボールをたたんだり廊下にモップをかけたり階段を掃いたりしているあの清掃員に、この社会の何が問題なのか、どうすれば持続可能な営みをつくれるのか、あなたは誰に投票したのか、なにを根拠にその人に投票したのか、なんてことを問いただすのは酷なことだ。原発だって、危ないものだってことはみんなわかっているはずなのに、大きなお金が動くから、そのお金によって生活を支えられている人たちがたくさんいるから、都市部が、田舎に発電所を押しやってしまったから、原発だけじゃなくて米軍基地とかもそうだろう。だから、あとにひけなくなってしまったのだ。分りやすい黒幕なんてどこにもいない。全て不可抗力で進んでしまった物事たち。誰も悪くないとも言えるし、全員が悪者だとも言える。この大きな輪廻をもっと鮮明に認識し、逃れるために。なんでこんなことになったのかもっと勉強が必要だ。経済の世界には「脱成長」という言葉があるらしい。これは要するに経済成長なしで持続可能な社会を志向することのようだ。ここで面白いのは「脱成長」という言葉が鏡のように、「成長経済」を無意識のうちに志向してきた自分たちをうつしてくれること。

2013年7月22日25時38分

 

安倍さんに「電力が足りているとは言えない」と言わせているのは、他の誰でもない、僕だった。

 

たぶんあなたは僕だ。彼女は僕だ。彼は僕だ。あそこで雑草むしりをしている鉄道作業員は、僕だ。テレビの中で原発を動かさないといけないと言っているのは僕だ。ドームを満員にしてコンサートをしているアイドルも、それをみて騒いでいるのも僕だ。僕の前で音楽を聞きながらiPadをいじっている青年は僕だ。

「わたしたちー!」と呼びかけたいぐらいに、彼らは僕なのだ。電車で十数キロ離れたバイト先に数百円で通う為に、バイトをしているのだ。すべてこの生活の為に、この生活はあるのだ。このあらがえない輪廻から解脱するには。

 

 

参議院議員選挙で、三宅洋平というミュージシャンが立候補した。「選挙フェス」というスローガンをかかげ、うたを歌うように街頭演説し、道行く人の足を止めていた。凄いのは「選挙は賢くなるチャンスだと思うんだよね。みんなで賢くなって、みんなで国会へ行こう。俺の事は応援するな。頑張れっていうな。おれもみんなを応援しているから。」という主張。「脱戦争経済と、環境問題の解決」をやりたいこととして、意見が違う相手とも、「チャランケ(アイヌの言葉で開戦前夜の話し合いの意らしい)して、言葉の粋を尽くして、ユーモア交えてとんちきかせて、思いを相手に伝える。で、相手の主張も、相手が何に乗っ取って、自分と違う主張をしているのかもちゃんと聞く。で、和をとって、お互いに納得できるようにすすめていく。誰も傷つかないようにする。」という主張もしていた。民主主義は、有権者がちゃんと勉強しないとうまく機能しないと思っていた。社会学者の宮台さんも「任せて文句言う社会から、引き受けて考える社会へ」ということをずっと言っていたけど、社会学者という立場を守りながら言っているだけだった。今回三宅さんは、立候補という手段を使って、ミュージシャンという職業はいったん置いといて「みんなで賢くなろう」と、本気で言っていた。わざわざ全国比例区から立候補して、全国をまわっていた。

結果的に落選したけど、17万票もの支持をあつめた。僕も彼に一票いれた。そして、もっと勉強しないと、と恥ずかしくなった。

彼の演説がたくさんyoutubeにのっているのだけど、そこに誹謗に近いような意見がたくさんあった。

彼は、意見が違う人達とこそ徹底的に話し合うべきだと言っているのに、そのステージに登ろうともしない人でたくさんいる。黒人を気取っているだけだ、とか、具体的に何がしたいのかわからないヤク中だとか、好き放題言っている人達がたくさんいる。(インターネットは、世界のみんなを繋いだんじゃなくて、インターネットという別の小さな世界をつくっただけなのかもしれないなと思う)。三宅さんがいう、人との対話「チャランケ」は、どうしようもないバカの壁、認識の壁、態度の壁によって、隔たれてしまっている。なぜそんなことが起こるのか。みんな自己批判の訓練を怠ってきたから。ひとが頑張っているのが気に入らない人たちがたくさんいるから。いろいろ理由はあると思う。

みんなが熱く議論できるほど、社会は単純にできていない、心のねじ曲がった奴もたくさんいる。

三宅さんは「理想主義者」なのかもしれない。と、思ったとき、三宅さんを「理想主義者」と言いたい僕の心の動きが、彼ら「対話をしようともしない人達」を生み出しているのかもしれないと思った。理想主義者は、自分のことを理想主義者とは言わない。

まあでもとにかく、あたらしい動きがでてくるのは面白いし、僕も勉強しなくちゃいけないなと思う。いまの30代でがんばっている人達についていき、追い抜けるように。

2013年7月21日04時44分

 

バイト生活、特に清掃のバイト。毎日同じ時間に同じ場所に通わなくちゃいけないことの精神的負担。

体の一部がおおきな歯車にもっていかれている感覚。人間の身体にあっていない歯車に。

そしてこの自体を招いているのは僕自身であることに気付く。この生活を維持するために経済がつくられ、そして経済を効率的に動かすためにこの生活もまたつくられていることに気付く。この生活をささえるため、毎日毎日同じ場所に通って仕事をしなくちゃいけない。コンビニを24時間うごかすために。ハンバーガーをひとつ100円で買うために働かなくちゃいけない。この生活を維持する為に原発も動かさなくちゃいけなくなっているし、原発をうごかすためにこの生活を続けなくちゃいけなくなっているということに気がつく。

2013年7月20日21時23分

 

あのバイト生活。逃げたいとしか思わなかった。わいて来る感情は吐き気のみの生活。楽しい仕事なんて無えよ、とチーフが言っていた。なにかに見切りを付けて生きている人達がたくさんいた。

福島の事故で放射能が拡散してから、移住についてずっと考えている。「移住」というのもなんか違う。もっと「生活のありかた」そのものについて。

どこどこに行く、というと仕事はどうするの?そこで何するの?と聞かれる。生活の重心が「移動」ではなく「定住」にあり、そのせいでどこかに逃げようというきも起こらないし、土地のしがらみに振り回されたり、そのはてに思考がとまってしまう。日々の時間を費やすこと、テレビを見るとか(テレビみないで、普段なにしてんの?と言っているバイト仲間の人もいた)車を洗うとか、「旅行」にいくとか、誰が嫌だとか、誰が好きだとか、そういうことに意識が向けられてしまうんじゃないかと思った。この社会では「同じ場所に長くいる」というだけでステータスになってしまう。同じ場所に長くいるだけで、どんな人間でもそこそこの信用と力を手に入れられる。仕事を覚えて給料も上がるし、クビにされにくくなる。人が動かなくなるし、新しく入ってきた人もとてもやりづらくなる。その模様を、バイト生活で見た。

この1パターンだけが生活のありかたで、不満があれば見切りを付けてやっていくしかない、というのは我慢ならない。

もはや「ふつうの状態」という状態は存在しない世界になりつつあると思う。あらゆる状態は「状態a」「状態b」という風に並べられ、選択されるのを待っているように思う。そんな世界がみえる

 

リーダーには、リーダーの言うべき正しさがある。リーダーを糾弾するものは、リーダーを糾弾する者がいうべき正しさがある。リーダーの正しさと、それを糾弾する者の正しさは違う。

しかしいまは、そんな普通の状態ではない。歴史と未来の危機。「成長しなければ」という考えすら見直さなくちゃ行けないところにきていると思う。それに気がついている人もいるだろうに。でも、リーダーはそれを言ってはいけない。今の状態で、リーダーが「成長しなくてもいい」とは言えないのだろう。裸の王様になっている。

 

本当に面白い表現は「何かを志向している状態」のなかに宿るのだと思う。「何かをやりとげた状態」ではなくて、「何かをやろうとするその過渡的な状態が、表現に反映された」そのときに、表現は強く力をもつのだと思う。

2013年7月18日23時53分

 

ガーデンの方のバイトはこちらのシフトを申告することができるから、まだマシなのだけど、清掃のバイトの方は、僕の体調、予定、精神状態、天候に関わらず、必ず平日の毎朝に行かなくてはいけない。このストレス、精神的負担は尋常じゃない。この社会を動かしている歯車。人間の為につくられたものなのに、人間の身体を無視して設計された大きなシステムに、体の一部を奪われてしまった感覚。

どこかの企業に就職したら、こんな感じの生活になってしまうんだろう。そんなのどうかしてる。なんでみんな平気なんだ。どうでもいい。真剣に議論するに値する事なんて、滅多にない。どうでもいいことばかり。それをみんなで必死に話し合っている。トイレ清掃の時間短縮とか、日々の売り上げ獲得についてとか、バケツの排水のし忘れは連帯責任だ!とかなんとかかんとか。ほんとどうかしている。

 

目は、澄んできている。感覚は鋭くなっていると思う。中途半端につくられたもの、ごまかしがあるものがわかるようになってきた気がする。このバイト生活は、それ以前のぼくの作家生活を相対化してくれている。いまのバイト生活のほうが、彼女との関係がよくなったり、「応援しているよ」と言ってくれる人が増えたような気がしないでもない。増えた、というかその声がよく聞こえるようになってきた。みんな、自分より弱い者が立ち上がるのを待っているのだ。みんな驚きたいのだ。特に、自分より弱い者が立ち上がる事に驚きたいのだ。この時期に、何者でもない僕の事を応援してくれる人達のことを、一生大切にしていきたいと思う。

 

僕は理想主義者なのかもしれない。建築は人が使うものをつくる仕事だ。そこに自分の思想をのせて何かを表現しようとする人達。自分の傲慢を他人におしつける建築家たちと、それをもてはやしてスターに祭り上げる建築界の雰囲気が許せなかった。そこに入っていく事ができなかった。

現代美術家として活動してみて、ただ生きることを繰り返す日々から逃れるためにやりはじめたのに、それがまたするにルーティンワークになっていくことに気がついた。自分をコンテンツ化する作業。生産と消費の追いかけっこをする覚悟が足りなくて、自分の制作へのモチベーション維持に危機感を覚えた。自分で自分の作品を濁しているような感じがあった。作品の中に詰め込む「覚悟」が薄くなっていった。自分をおいつめるために、バイト生活をしてみようと思った。社会にまみれてみなければと思い、バイト生活を始めた。展示をいくつか断った。コンペや助成金などに応募するのをやめた。共同アトリエを出た。

ブコウスキーの詩にこんな感じの言葉があった

「俺は生きているけど働いていない

彼は働いているけど生きていない」

「働いているけど生きていない」という感覚。いまは、日々内圧が高まっているのを感じている。表現への欲求とか、有名になりたい気持ちとか、僕のことを笑っている、あきれてみている人達を見返してやりたいという欲求。

お金を稼がないと生きていけないということは知っていた。噂では聞いていた。

「目」は澄んでいった。何がヤバくて、何がヤバくないかを見極める目を磨く努力を怠ってはいけない。

 

最近読んだ本

遠藤周作「沈黙」「深い河」

ジャックケルアック「路上」

ジョンクラカワー「荒野へ」「空へ」

チャールズブコウスキー「ポストオフィス」「酔いどれ紀行」「尾が北向けば」「モノマネ鳥よ、俺の幸運を願え」

2013年7月9日24時25分

 

あっというまに夜になってしまう。

明日からはまたガーデンのバイトだ。

今日、家でずっと作業していることに耐えられなくて、渋谷までいって想田和弘さんの「選挙2」をみてきた。三時間ちかくある大作だったけれど、あっというまだった。「民主主義」にせまる。という側面よりは、「ジャーナリズムやドキュメンタリズム、当事者性と他者性、主観と客観などなどの、そういったかんじのもの」と「議会制民主主義・あるいは選挙というシステム」との関係にせまった映画という感じがした。映画を観ているぼくは当然、主人公の山さんに感情移入して、応援したくなるのだけれど、結局最後は(山さんの戦略不足もあって)9人中5人

が当選する選挙で落ちてしまう。という無情な結果に終わる。それが選挙なのだ、と思う。以前、衆議院議員選挙で自民が圧倒的勝利をおさめた時にも感じた絶望に似ている。自分達が、実は少数派なのかもしれないという不安。多数がどこにいるのか分らない感じ。投票率の低さ。

みているぼくは、山さんが当選するか落選するか「本当に分らないなあ」と思いながらみていたけれど、ふたをあけてみると、得票数は最後から2番目か3番目の、完全敗北だった。これをスクリーンの前のぼくは「これは結果がわからないなあ」と本気で思っていたのだ。

 

そして帰ってきて、9党の党首討論をやっている。安倍さんが一番まともに現実的なことをいっているように思えてくる。実際に政治を動かしているという自覚が、言葉から感じられる。それにしても、本当にこの社会はうまくできているなと思う。敵をつくることによってしか満たされない欲望は人間みんなが抱えていると思う。それを、実際に暴力にさせないで、敵を作りながら、国を発達させていくしくみというか、それがとてもよくできている。

外山恒一さんが言っていた「議会制民主主義は、革命や維新を防止する為のシステムである」。この民主主義の範囲内でいくらがんばって立ち回ったって、本当に革命がおこるわけではないのかもしれない。選挙では何も変わらないという感覚はここからきているのかもしれない。政治に飽きているというか、茶番に見えてきてしまっている、という感覚が(それは恐ろしい感覚だ。できれば持っている事を認めたくない)少なからずある。東浩紀さんがいつだったかツイッターで言ってたことが思い出される。

 

この国は、成長せずにはいられないようにできているらしい。本当の事をいう政治家が一人くらいでてきてもいいと思う。もうこれ以上の経済成長を望むのは、酷なことだと思うのに。

2013年7月9日(火)10時17分

 

表現者なら全員尊敬できる。

「命を救われた」というのは大げさかもしれないけれど、発狂せずに生きていられるのは、彼らのおかげだと思っている。

転覆を志向するアクティヴィストやピエロのような存在にはなりたくない。アクティヴィズムは、転覆への志向性そのもののなかに宿り、転覆が成功してしまったらそこで終わりだ。彼らのことはとても尊敬しているけれど。

ただ移動をしつづけ、土地や共同体への参加と脱退を繰り返し、たくさんの生活圏、コミュニティ、個人の感覚を、複数化していくこと。着陸したら出発し、出発したらすぐに着陸する。着陸したと思ったら、それは出発であったり、出発したものだと思っていたら、それは着陸であったりする。

 

 

この社会はお金を払う方が、サービスを提供する方よりも偉いという考え方があまりにも一般化している。

一週間という考え方を「人間」にあてはめたときの取りこぼしが多すぎる。

例えば「ある名付けられる以前の状態の存在。それは四つ足で、尻尾があり、足が早く、人や物を運ぶ事が出来る」を「馬」と名付けたときに取りこぼしてしまうものたちのために美術はある。

 

 

そのうち「全席優先席車両」なんかが登場して、働く者たちは狭い車両に押し込まれ、年老いて働かなったものたちが、ゆったりと席に座るのが当然のようになっていくかもしれない。

2013年7月8日(月)23時28分

 

毎日、同じ時間に同じ場所に通うことが、人の心に及ぼすもの。

「誰にも気付かれなければ、本人にさえ気付かれなければ、殺しは許される」

休む事は許されない。体の不調や、精神の不調で休むことは許されない。「あなたの都合で」休むことは許されないという無言の、強力な圧力。遊びの誘いを断る時でさえも「今日はなんか気分が乗らないからパス」という風に答えづらい。それはこの風潮、この圧力が人の心に及ぼした影響だと思う。

2013年7月5日(金)09時36分

朝の、清掃のバイトが辛くなってきた。毎日同じ時間に同じ場所に通うということが、こんなにも人を疲れさせるのか、と思う。

寝不足というのもあるけど、それ以上に、同じ場所に今日も明日も明後日も行かなくちゃいけないということがとても重荷に感じる。しかも、そこで僕は一人でただ作業をこなすのみだ。まずビルの裏口から暗証番号を入力して、中に入り、正面入り口を開け、エレベーターで地下一階に下り、鍵をとり、管理室の扉をあけ、そこで着替えて、ゴミ袋と掃除機とモップと、タオルやスポンジや洗剤が入ったバケツと、「清掃中」と書かれた黄色い看板をもって、二階に上がり、2階に入っているテナントの扉をあけて、なかのゴミ箱を全部ゴミ袋にうつし、掃除機をかけ、流し台をあらい、机をふき(ビルに入ってからここまで45分くらい)、おわったらテナントの扉を閉める。2階共用部のトイレを掃除(トイレは男女各五分以内がベスト)したら、1階に降りて、ロビーに掃除機をかけて、ガラス戸をふいて、1階のトイレを掃除し、地下に降りる。地下のロビーも掃除機をかけ、トイレも掃除し(地下にはテナントが入ってないから、トイレの掃除を毎日する必要はないはずだ)、そこまでおわったら、今度は1階と地下1階を結ぶ外階段に置いてある灰皿を掃除する。帚とちり取りをもってビルの周りを「拾い掃き」する。以上でおわり。これに加えて、火曜日は、ビルのオーナーの住居部分の掃除がある。

これを一人でこなすのみ。それを週に五日間毎日やる。一ヶ月で20回として、一年で240回やる。2階のゴミ箱は、8個くらいあるから、1年間で2400回ゴミ箱を空にしている計算になる。

僕は一年間もこの仕事を続ける気はないけど、当然これを続けている人達がたくさんいるのだ。世の中には、一年間で240回も灰皿を交換して2400回もゴミ箱を空にしている人達が、たくさんいることがわかる。

このバイトから帰ってくるのが、一日の中でいちばん辛い時間になっている。朝の9時の時点で、僕はへとへとになって、体をひきずっている。

僕は、こんな仕事には就きたくないと思うし、頼まれても就職なんてしたくない。でも、この会社にもたくさん社員はいるし、それを生涯続けたひともいるだろう。

それは才能なのかもしれない、と今日作業中にふと思った。僕には清掃員の才能は無い。という言い方ができる。清掃員の才能がある人がいる、という言い方ができる。仕事の多様性は、そのまま人間の多様性と重なる。でも、人間の多様性はもっともっと無限のものだし、仕事の多様性と重ねてしまうのがもったいないという考え方も出来る。とにかく、この社会は本当によくできているなと思う。

 

僕たちが移動と生活を分けて考えてしまうのは、家を持ってしまっているからだと思う。最近、ビアガーデンのバイト現場に、新しい人が2人はいってきた。新しい人が入ると、それまでいた人達は、「あたらしい人」という共通の対象が生まれる。そうすると、それまでぎくしゃくしていた関係がうまくまわりはじめたりする。人の移動と、それによる心境の変化を見逃さないこと。日々、参加と脱退をくりかえすこと。