「重力と恩寵」超やべえ本だと電車で読みながら渋谷に行って偶然と想像を観た。面白かった。笑えるんだけどふと笑ってる自分がちょっと恐くなるような。中島の存在感と声も良かった。パンフレットで小川哲さんも書いてるし最近宇宙誕生についての講義動画を観たのもあって、偶然生まれたものに対してフィクションを立ち上げたくなる人間の想像力それ自体を扱っているものだと思う。偶然てフィクションでは扱いにくいことだけどそこを振り切ってしまうことでこんなに面白くなるのかという。重力と恩寵と偶然と想像という韻が踏める並びの偶然に、つい重力と偶然、恩寵と想像について考えてしまうシモーヌヴェイユが「真空」と読んだものを「偶然」と読み替えてみると、彼女が言った「真空を受け入れること」「真空を埋める想像力を働かせないこと」はフィクションの否定とも読める彼女は多分「想像するな」と言っている。真空を真空のまま受け入れることで、大きな恩寵が降ってくると。

シモーヌ・ヴェイユは真空を求めてはいけないと書いた。真空からのがれるのもいけないとも。来年はそれを実行する。

世界で最後の一人になっても洗濯物を畳むのか

川村記念美術館「ミニマル/コンセプチュアル」さいこうだった最初の部屋初っ端のカールアンドレの作品から涙ぐんでしまった。工業的に切り出されたただの鉄の立方体を使ってることで、ダンフレヴィンやソルルウィットの作品よりも手仕事感がなくて、ただ、ものがそこに存在していることが感動的に思える奇跡が起きていた。リチャードアートシュワーガーという人のことを知れたのも良かったし、ローターバウムガルデンも良かった。リチャードロングの「歩行による線」が見れたのも良かったしロングの最初の個展のDMがダサかったのも良かった。スタンリーブラウンの作品をみて、自分の歩幅を1単位として、メートル法とかそういう既存の単位を使わないで東京を旅してみようと思った。「東京を旅する」は良いアイデアかも知れない。河原温のI am still aliveシリーズが始まる前に送られた3通の電報のことは知らなくて、「自殺しようとはしていない心配するな」という電報を一人に送ったことがきっかけで「私はまだ生きている」という電報を知人に送るようになったという話は、彼の作品と彼の日々の生活が思っていた以上に地続きになってることがわかって良かった。心にオン・カワラを飼う。ワンミリオンイヤーズも実物見れた。企画展もだけど川村記念美術館自体もさいこうでロスコの部屋ではもう絵が見えなくなるくらい泣いてしまったやる気出ないとか言ってすいませんと思った魔法がかかっていた近くで見ても離れてみてもどこが細部かわからない。魔法としか言いようがない

宝くじの、当店の高額当選!赤い文字の張り紙を見ると江戸時代みたいな気持ちになる。

好かれたら嬉しい人は居る。好かれているかもしれないということだけで元気が出てくるような人は居る。性別とか年齢差とか仕事や趣味の一致とか関係なく。

宇宙の最初は10のマイナス25乗cmとかそのくらいの大きさしかなかったと考えられる。

しかも宇宙にははじめ、水素とヘリウムしかなかった。私達の体を構成する炭素や窒素や酸素や鉄等は全て星の内部で作られ、超新星爆発によって宇宙にばらまかれた。

「私達は星屑でできている」

宇宙においては、遠くを見れば過去が見える。138億光年先を見れば、138億年前のビッグバンがまだ見える。
星の中の酸素が燃え始めたらその星の寿命はあと半年。ケイ素が燃え始めたら、あと一日。寿命を迎えたら、超新星爆発が起こる。
オリオン座のベテルギウスが、近い将来爆発するんじゃないかと言われている。ベテルギウスの見かけの大きさが15年で15%も小さくなっているから。
原子核の周りを電子がまわるためにはヒッグス粒子の力が必要。ヒッグス粒子は宇宙のどこを見てもギュッと詰まっていると言われている、空気のようなもの。

「ヒッグス粒子が今この瞬間になくなったら、私達の体は約10億分の1秒でバラバラになる」

太陽までの距離は光で8分。今この瞬間に太陽がなくなっても、我々は8分間はのほほんと生きている。
太陽は毎秒40億kg軽くなっている。文字通り身を削って光を放っている。そこから放たれるニュートリノが毎秒100兆も私達の体を通り抜けている。
宇宙が生まれてから三分後にはヘリウムが生まれた。
地球は毎秒30kmで回っているが、慣性の法則で我々は振り落とされない。太陽系は毎秒220kmで銀河系を回っている。なぜ中心からふっ飛んでいかないのかわかっていない。星の重力だけでは足りない。暗黒物質の力だと考えられている。

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同じ山を登りたい人

美術館でぱしゃぱしゃと写真撮ることの、その態度が許せない。映画館で上映中に隣で携帯をいじるのと同じ。作品をなめている。自分の目もなめている。人間の目なめんな。上から目線、消費者精神、自分の価値観を揺るがす気がない。極論かもしれないがそういう人には美術館に来ないでほしい。自分が寄って立つ足場を揺さぶられる気のないひとには来ないでほしい。シャッターをきることの怖さをしらない。書くことで忘れてしまうのと同じで、撮ることで忘れることをしらない。ナメんなと思うのだが、しかし美術館側がそれを後押ししているところがある。来場者が増えるからか。今後世界のトレンドがいかに変わろうとこれには断固反対するせめて一回の展示で1回までとか音はナシとかルール考えてくれ

「自分の行先に前もって荷物を送るタイプの人間」と「自分の行先に前もって荷物を送らないタイプの人間」の二種類がいるとすれば、自分は「送らない側の人間」に分類されるだろう。間違いなく。

その理由のひとつとして、自分には、いわば「押されて押されて生まれるオリジナルの形態」への美学があるからだと思われる。

フランシス・アリスのメキシコでの写真作品(とんでもない量の風船を抱えて歩いている行商とか、どんでもない高さまで荷物を積み上げた自転車を走らせている人とかの写真)が好きなのもその美学に即しているからだ。

例えば僕は先月始まった京都の展覧会の準備のために、10日に京都に着かねばならなかったのだけど、その際9日の夜まで制作作業をやっていた。作った木製の什器を自分の手で運ぶために分解して、その部品である長い角材をスーツケースに突っ込んだ。すると、長さ2mの細い角材数本と、長さ1mのツーバイーフォー材が2本飛び出た、冗談みたいな姿のスーツケースができあがった。僕はそれを引きずり、10日の電車に乗った。(きっと「荷物を送る側の人間」たちは、8日ぐらいには制作を終わらせて、9日は梱包・発送作業をして、10日には身一つで京都に行くのだろう。そして荷物を京都で受け取る)

目の前の仕事を一生懸命、締め切りのぎりぎりまでやって、やべーもう出ないと間に合わない!とか言って、取り急ぎ手持ちのバッグに突っ込んで出かけた結果生まれた姿は、作ろうと思って作れるものではない。そこに美学を感じている。

もう一つ「そこには僕も行くのに」という理由が考えられる。

「荷物を送る」ということは、「自分以外の誰かがそこに行く」ということだ。でも「そこ」には僕も行くのだ。二人も行く必要はないじゃないか。

だから僕は「自分が行かないところに荷物だけ送る」ことに抵抗は感じない。その場合、僕はそこに行かないから。「そこ」に行く人間は一人でいい。

そもそもみんな、荷物を送るということは、誰かがそこに行くことだ、ということを忘れていないか?なんか、電子データ送るみたいな感じで荷物をおくってはいないか?荷物がそこへ行くには、ドライバーが車を運転する必要がある。多分このことをみんな忘れている。ドライバーは透明人間になっている。

この問題は、ひいては介護士とか保育士とか、再生産労働者(あるいはエッセンシャルワーカー)など、社会に必要な職業であればあるほど、給料が低いという問題にもつながる。みんな、自分の生活のために人を使うことにそれほど大きな抵抗を感じていないし、なんなら、やってもらって当然だと思っている。

建築家が建築事務所でやっているような、プロジェクトごとにかっちりと頭を切り替えてアイデアを出したり考えたりするようなことが苦手だ。というか、一人では難しいことなのかな?他に人がいれば、その雰囲気にのって切り替えられそうだけど一人では…。キュレーターとか編集者とかも担当している作家と打ち合わせをするごとに頭を切り替えてるんだろう。自分がシングルタスク脳なのか、あるいはそもそも困難なことなのか。文なら割と瞬時に切り替えて書けるのだけど、文とアートプロジェクトを同時に考えることはできない。一つのことを思い続けてしまう。終わらせないと次に進めない。SNSで見た偉そうな白人の先生風に言えば、水の入ったコップをいつまでも持ち続けてしまう。

昨日午前中に二回目のファイザーワクチンを打って、昨日はびびりつつ熱なんかはでなかったので、今日は普通にアトリエで書き物をやっていたのだけど、なんだか体がいつもと違う。熱はなさそうだ。だけどインフルエンザなんかの症状に近い感じで、体が重たくて、頭の命令が四肢に伝わるのが遅いような気がして、多分いま走ってもいつもよりだいぶ遅いと思うのだけど、そのくせ神経が過敏になっている。いま腕をぶつけたらいつも以上に痛く感じそうな、神経質になっているような感じ。でもこの感じは嫌いじゃない、とも思う。

子供のころインフルエンザで寝込んだ時は天井がパズルみたいにガチャガチャと動いていた

ワクチン打ったあと、休むと決めて家で鍋を作って食べたりするのにふさわしい、良い天気だ。