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高松次郎「世界拡大計画へのスケッチ」
空間にも時間にも、無限大の数にのぼる軸があるように思われる。二つの異なった空間を並置した場合、そこで互いに衝突する方向に進んでいる二つの物体は、絶対に衝突しない。時間にも、本来離れた物体の間に同一の時刻などというものはない。(離れたところにいて、決して会うことも、コミュニケーションすることもない二人の人間が、ある特定の同一の事物を意識したとしても、二人にとってのその事物は、何らの関係をも持たない。)
(1967・7・1)
意識はチューブのような形をした器である。それは何ものをもそこにとどめるすべを知らないし、またその必要性をも知らない。
(1968・8・5)
相手の武器で戦うこと。望みもしないで生れてきたといわれている人間がすべての事でそうしているように。
(1968・8・27)
人間には、厚みも巾もない点のような、「現在」は存在しない。もしあるとしたら、音楽の演奏中に、音をバラバラに分解して聞くこともできるだろうし、映画を見ながら、フィルムのカットを一つ一つ見ることができるだろう。
(1968・9・27)
高松次郎「“不在体”のために」
若いビジネスマンのAは終業時刻が近づくにつれてビジネスは求心性の焦点からはずれていき、ベルが鳴り、駅に急ぎ、電車に飛び乗って吊り革に手をかけるがそのときの彼には数十分後に会うはずの恋人の笑顔がすべてなのだから、刻々進行しているそれらの現在としての時間はあくまでも仮の手段としてのものに過ぎず、デパートの包装紙のように無価値ですぐにクズ籠の中に捨ててしまうべきものだと思っているであろうが恋人に会い、微笑を交わし、歩き出すころには、彼は早く食事を取り、次に映画を見ることでいっぱいなので、彼の<完璧な現在>としての時間は、数分後、数十分後のレストランや映画館の中にあるという具合に”内時間的未来”が現在を追払い、すべてのしぐさ、すべてのものごとが投げ捨てられていき、それから二人に最高の歓喜がもたらされたとしても事情は同じであって、そこに於ける瞬間が<現在>として完璧であることはなく、ものごとのガラクタ地帯の砂嵐が容赦せずバラ色の愛の密室にも入り込んできて二人の肌をザラつかせ、そしてその感触を追い払うことでそこでもまた<現在>を追い払ってしまうが、だからといってカラッポになるのはバラ色の密室であって、彼自身なのではなく、彼はまたさまざまなものごとを吸い込み、排出してはまた吸い込みながら、しばらくすると必ずや数時間前に彼が不毛を感じながら彼の求心性から遠ざかっていたビジネスもまた或る程度の輝きをみせながらもどって来て、再び彼の焦点に近づいていき、自分がビジネスに熱心な人間であることを意識しながらそのことに集中し、また明日の会社のことを考えるという具合に一つの旋回がその輪をとじる訳だが、結局Aの恋の一夜はネジの一ピッチであることをしか明らかにせず、いったいそのリング上に何があったかといえば刻々”現在性”のものごとのガラクタ性を追い払いながら、何ものかに向かって進むその速度だけであって、ものごと的エッセンスとしての”素粒子”は決してものごとそれ自身であることはなく、それは分裂の極限であるがいつも<現在性>のものごとの中をすり抜けていき、あやつるのは詐欺師だけで、我々をとらえ、ひきつけ、かり立て、ガラクタ置場の厖大な倦怠から救ってくれるのは決してものごと自身ではなく、ものごとが発している放射線的エネルギーであり、それは、現在としての時間をすり抜けるという意味で非空間的なものであり、また時間の流れの中でとらえようとすると、いつも無限の前方に輝いているだけでとうてい触れえるしろものではないような非時間的なものであって、自己の内側に向って、つまり反省的に考えるならばそれは<期待>とか<不安>という状態の原因であり対象である未来性、非固定性、不可逆性の原点としての未決定の存在、つまり蓋然性そのもの、例えば不可解な事件の迷宮性その浮標がいままさにピクピク動き出した釣り糸の見えない先端、届いていまだ開けられていない小包、電話のベルの次の瞬間の耳もとの音声、未知な自然のさまざまな空間、いろいろなスポーツの賭の勝敗、といったものである。
(二行目)