スピノザと腸内環境、能動的に食べることなど

・腸内細菌検査を受けてから人生が変わった、という話を知人から聞き、それが最近の自分の興味にも近くて、しかも検査は三万円でできると聞いたので、思いきって申し込んでみた。腸内にいるどの種の菌が優位かどうかなどがわかるらしい。キットが届くのを楽しみに待っている。
最近買った『あなたの身体は9割が細菌』によると、僕の腸内には数百兆の細菌がいるし、この足の指先にもイギリスの人口よりも多い微生物がいるという。身体がなしていること、なしうることについて、ぼくはほとんどなにも知らない。この身体は無数の微生物と細胞と、細胞間の気の遠くなるほどの信号によるネットワークもろもろによって維持されており、僕はそれについてほとんど何も知らないし、意識もできない。意識できるのはそれらの運動の「結果」ばかりである。
このことを発見したスピノザは本当にえらい。これはそのまま腸内環境の説明にも使える。体調がわるくなったり、落ち込んだりするのは、いわゆる「自分」のせいではなく、腸内細菌のバランスが悪くなること(だけでなく、気圧や免疫力や、その日朝ごはんを食べたかなど様々にあるけど)によって引き起こされる機械的な運動の結果である。
つまり感情とは常に受動的なものなのだ。なぜならわたしたちの身体や精神が何かと出会ったとき、この体や精神は、その結果しか手にすることができないからだ。わたしたちはただただ、その原因に対するひとかけらの意識も持てず、起きた出来事の結果をこうむるばかりの毎日である。そりゃあ落ち込むのも無理ない。
そればかりか、その順序を転倒し、結果を原因と取り違える。わたしたちの中にある原因は意識できないから、それを外部に求める。つまり自分のせい、他者のせい、にする。
(ちなみにこの身体と共生する菌たちはわたしにとって「いい」ものである。いい出会いとは、ふたつのものが合一して、より高次の全体をなすことである。より大きな完全に近づくことであり、神を分有することである。それが「いい」もの。たいして「わるい」ものとは、自分を維持するものを混乱・破壊するものである。道端でいきなり変なおじさんに怒鳴られたりとか、毒にあたったとか、そういう「わるい」ものたちは、自分と合一することはなく、ただそれを破壊しようとしてくる。場合によっては、修復不可能なほどに)
悲しみに取りつかれそうになったとき、それは機会的に起きた必然なのだと、自ら説明してみることが大事。なぜなら「説明」とは能動的行為であるから。なんのことはない、説明している時点ですでに救われている。能動的なものは「歓び」だけだから。

そして憎しみとか悲しみとか嫉妬とか羞恥心とか、もろもろの受動的感情はしばしば、支配のために使われる。圧制者は人々のくじけた心(悲しみの受動的感情に捉えられた人間)を必要とし、心のくじけたひとびとは圧制者(悲しみの受動的感情を利用し、事故の権力基盤として必要とする人間)を必要とする。そしてそれを風刺し、嘲笑し、悲しむ人、この三種の人間を、スピノザは告発する。
支配されないためにも。いや支配される・されないという次元すら飛び越えて生を解放するためには、ただ自分がよいとおもうことのみを、よいこととすること。それが生の倫理(エチカ)。
スピノザは私たちの生が、善悪や功罪や罪とその償いといった概念によって毒されていると考える。私たちの生に敵対する、そういった一切の超越的価値を告発する。なぜなら「これをしてはいけない」「これをすべきだ」という道徳的なものの言い方は、隷属的なものだから。
同じように彼は、動物を種や類といった抽象的な概念によって定義することを、超越的規範に基づいた道徳的な視点が含まれていると考え、採用しない。すべての超越的規範を注意深く退けようとする。

・能動的に食べること。外では美味しいと思っていたペットボトル飲料を家に持ち帰って食卓で食べると、あんまり美味しくない。なにか魔法にかけられていたような、錯覚を起こしていたようなきもちになる。やはりこういうものを買って飲むこと自体(それがいかに、いくつかの選択肢のなかから自分の自由意志で選んだのだと思っていても)商品として売られているものを食べることは受動的なふるまいである。創造的でなければ能動的とは言えず、歓びもない。料理とは未来への賭けであり、能動的に食べるには必要なものだ。それがいかに味の良いものだとしても、受動的な歓びは錯覚である。

・スピノザの哲学。割り切って生きること、妥協すること、だましだましやること、死を待つように生きること、そういったあらゆる受動的態度への批判に思われる。道徳的規範を内面化させるな、と言っているように聞こえる。つまり、お前だけの歓びを求めて楽しく生きろと言っている。

Posted by satoshimurakami