10月1日 わたしの「テリトリー」わたしの「領域」を守ること。本のアイデア

・世界を一枚の紙の上に描きたいという「欲望」について考えること

・歩いていたら蛾が止まっていたり、公園があって喫煙所があったり、地図をもって本の中を歩いていくような本

・一万円拾ったときに警察署で言われた「一万円札の持ち主」という言葉。お金を所有するという言い方。HAPSのプロジェクトで食事をしているとき、食べているあいだは不思議なことに、食事を楽しむ消費活動というよりは、ほとんど労働をしているような感覚であったこと。
・かきなおしたかった地図
ロングのウインドライン、シチュアシオニストの地図、村上の地図、友人たちの地図、知人の地図
からだ
・土を口にしただけでお腹壊した話
・街は内臓であるという話
・気化熱の冷房
快適さとは何か
「暑いけど、この暑さは納得できる」ことの重要さ
体調(腸内細菌たちの複雑な運動。自分は「結果」しか意識できないこと)
食事(能動的にたべること。情報は食べられない)
時間
蛾の話
記憶(時間をランダムアクセスにとらえる。過去は現在にあること。現在を引き伸ばすこと)
お金
銭湯の脱衣所で硬貨を「汚い」と思うことと、コロナ下、お金を使う場所ではマスクを求められることが多いこと
言葉
21美ムン&チョン展フライヤーの「彼女たち」という主語の話、「彼ら」ではなく。隠れた差別意識
嫁、と言ったことで目覚めた何か
高松次郎の作品のこと
移動
移住を生活すること。
時間は線形ではない。現時点から360度広がっている。場所のようにたずねることができる。我々は思い出すというときに時系列順に遡って思い出すのではなく現在からある点へ、その点からまた別の点へとランダムにアクセスしている。そして思い出すとき、それはもはや過去のものではない。その過去は現在に持ってこられている。つまり現在からある場所へ行き、何かをここれ持ち帰るようにしながら我々は生きている。過去を思い返すことが苦しみとなるとき、その人はその喜びの過去も殺している(ヴェイユ)
・イメージと正体の調査報告(付録)
・年賀状が印刷物に成り下がった話
・メディア、媒介者としての貨幣。金を使う場でマスクをつけている自分に気がついたこと
・なぜ「自分の地図をかく」ではなく「かきなおす」なのか
・与えられた地図の暴力性と、自分の地図をつくることの暴力性
・「確かに”地図"は測量のために歩き回った人の生の痕跡を消すようになっています」(インゴルド)
・しかし地図論を書きたいわけではない

・「とほうもない時間のなかの点としての今の生活」みたいな
・アナキズムとしての実践
・日々の生活への応用篇
・「地図を燃やせ」
・「今からどこででも、どんなふうにでも生活を始めることができる」あべこうたさんの言葉

・タイトル

 思いがけない名刺と動詞の組み合わせ
「蛾とは約束ができない」「情報は食べられない」
お金を「払う」とは意地でも言わない。「交換する」と言う
デジタルとアナログ
貨幣とコロナとマスク
労働することは、体をデジタルに見ること
レシートと支払い
結婚式のご祝儀を電子マネーで払うこと。ご祝儀はお金のモノの側面を強調する
amazonギフト券を買うことと、アナログからデジタルへの変換
・松村圭一郎「くらしのアナキズム」に引用されているジェイムズ・スコットの「文字それ自体が距離を破壊するテクノロジー」という言葉。例えば「徴税」や「戸籍」のシステムに従うことが国からの管理に従うことであるというような視点を持つのは簡単だが、「文字」それ自体が支配のテクノロジーであるという視点は、さすが人類学というか、壮大なちゃぶ台返しを目の当たりにした気持ちになる。学校の歴史の授業なんかでは国の識字率が上がることは良いことだと習うけれど、それはある意味では奴隷根性の現れでもある。
・また稲作が国家にとって重要なのは税収の予測が立つからだという考え方、これもよく言われていることなんだろうけど、ここから、なんらかの予測を立てると言う営み自体が、奴隷根性の現れであると考えることはできるか。保険とか?保険という商品の考え方は、いわば国家の支配を後押しするものなのか。過去に日記で書いた、計画と無計画の話もつながるか。
・フィクションと嘘について。あるいは一人称でエッセイを書くことについて。五所純子さんの本
・広告収入を消化する
・「魂のある食べ物」について
・奥能登でやった「移住生活の交易場」で、店の裏で聞き耳を立てていたら客がみんな誤解して帰っていった話。特に二人組だと、二人で憶測を話し合うことによって思い込みを強化することがよくわかる。また買い方もバラバラで面白い。二三味でコーヒーとカフェオレとケーキ2個買ったレシートを見て、お代わりしたんだろうな、それがたまらないと言って買っていった人もいるし、誕生日だからと買っていった人もいるし、このきれいな桜貝なら数百円ならほしいと純粋に物で買う人もいるし、システムが面白いと買う人もいるし、こんなに安くていいんですかと、美術作品として買う人もいる。そして、こんなものによく値段つけられるなと言う人もいる。「俺もやろう」とか言う人もいる。ポロックの絵をみて「俺もかける」とかいうのと同じように。
・インゴルドの『ラインズ』。印刷技術のおかげで我々の「表面」に対する認識がかわったという話があって、手書きで書かれたテキストを声に出して読んでいた中世の頃、本を読むということは先人の「足跡」を探しながらたどるような感覚だったんだけど、印刷されたものを黙読する現在においては、あらかじめ全てが見渡せる地図を眺めるような感覚に近いと言っている。確かに「地図」は測量のために歩き回った人の生の痕跡を消すようになっています。熊本市から阿蘇山を通って大分県臼杵市に続いている57号線の道路を家と一緒に何度か往復して九州を東西に反復横飛びするように動いて同じ場所で違う出来事を引き出すようなことができるかなと思った。
・頭の中に地図がどんどんできてしまう。僕の無意識が、目的地への最短ルートとか、善悪の価値観とか、あるべきお金の使い方とか、年齢に相応しい年収とか、年齢に相応しい振る舞いとか、習慣とか常識とか思想とかを勝手に作ってしまう。「かきなおせ」ではぬるいかもしれない。
・「学び」とか「気づき」とかそういう、意味ありげなことについて。意味ありげなことを書く恥ずかしさに向き合うこと。「意味を問う」とは?授業中教科書に描く落書き。階段の手摺にお尻を載せて滑ること。道で石ころを蹴って歩くこと。踊ること。道の石ころを蹴るようなものを書きたい。ただ踊っているようなもの。
・スマホを家に置いて、方位磁針と歩数計を身につけ、バインダーを手に地図を描きにいく。

・地図は「亜空間」に現れる
・地図の定義。他の人がイメージできる要素がひとつでもあり、それが3点以上記されていれば、それは地図になる。たとえば「あ」という字だけを街の中であるきながら探すと地図ができる。
・「移住生活の交易場」も地図である。値段という共通要素によって。

Posted by satoshimurakami