12月21日
「わたしは概念の中に入り、概念を掘り返すことができます、概念はすべてわたしにとって使うことのできるものです、そのほとんどをわたしはこれまで知ることがなく、すべてが結果のないままになっています、まるでほしいものはすべて見つけられるけれど、まだなにがあるのかわからない店のように。」「…自然はわたしたちの概念の能力を逃れ、わたしたちには理解できない言葉で話します…カタストロフィの発生はまた、いかなるコントロールをも逃れます、それどころか言葉と思考によるいかなる分類をも逃れます。カタストロフィは起きます、同時にカタストロフィは起きませんでした、なぜならわたしたちにはそのための言葉が欠けているからです。」(イェリネク『光のない。』自作解説)
「カタストロフィは起きます、同時にカタストロフィは起きませんでした」
この言葉には、一見対立しているように見える、散文的でロジカルなものと詩的なものとのあいだを埋める橋が隠れている。世界を言葉として捉える、ではなく、むしろ言葉の世界に住まうこと。言葉に包まれながら、同時にそれを包み返すこと。言葉に翻弄されながらも、粘土のように可塑的なものとして扱うこと。常に言葉に対して先手を取りつつ、言葉を使った途端にこぼれ落ちるものについても考えること。