1月1日
実家にいるが、母親だけがてきぱきと働いていて父親や祖父や弟はソファに座りっぱなしという状況を見せつけられるのはきついものがある。今日は朝、父親が食卓のテーブルに広げたままにしていた年賀状を、ご飯の準備があるからと母親が「年賀状広げっぱなし〜」と、片付けるようお願いしたことに対して、父親は「すみっこに簡単に寄せられるだろう。やればいいじゃないか」と、なかなか威圧的な感じで言い返していた。その後自分で片付けていたが、「なんでいちいち…」と愚痴りながらやっていた。母親も「なにいってんだか、自分でひろげておいて」とぼやいていた。まったく正論だと思った。普段はとても仲がよいぶん、こんな例は珍しいので、結構なショックを受けてしまった。実家で家族社会学とか文化人類学のフィールドワークをしているような気持ちになっている。母親が働くことが、父や祖父はもちろん、母にとっても当たり前なことになりすぎていて、母が作った煮物や黒豆や紅白なますやお雑煮を食べて「おいしい」と感想を伝えることは誰もしないし(これは、かつて僕もそうだったのだろう)、感想がないことにたいして母親も何も言わない。ただ淡々と、手が4本くらいあるのかと感激するほど、家族から寄せられる複数の要望を同時並行でこなし、一人で機転を利かせまくっている。たぶん、母親はまわりの人間がなにを求めているか察知することと、それを先回りして手を打つことに関して、相当高いスキルの持ち主になっている。家族仲はよいし、みんな全然悪い人ではないからこそ、この状態はきつい。誰かが悪いだとか、そういう話ではない。僕もここにいたのだ。みんなと同じように、母親が毎日のご飯をつくっていること、「おいしい」とか「ありがとう」と労われなくてもつくり続けていることに、なんの疑問も持っていなかった。
また父親がなかなか謝らないところに、自分と似たものを感じる。同じ食卓の席で、口に絡んだ痰を出すような、結構な大音量の所作を、僕や母親がご飯を食べているすぐ隣でしており、母親が「ご飯食べてるとなりでやんないでよ〜」と、角が立たないような口調で言っていたのだが、「咳をするよりはいいだろ。咳を止めようとおもってやってるんだから」と、瞬時に言い訳をしており、その反応速度の速さにちょっとびっくりしつつ、普通に謝ればいいのに、と普通に思った。日常生活の中で「謝る」ことに対して抵抗を感じることはある。僕はたぶん、自分が完全に悪いと納得できないと謝りたくない癖がある。実家の雰囲気に影響を受けてのことかもしれない。