1月24日
10時55分
昨年行った中村一義のライブの冒頭、中村さんが「犬と猫」を歌いはじめたとき、僕からすこし離れたところにいるおじさん二人の、「変わらないねえ」「そうだねえ」という、心底嬉しそうな声が聞こえてきて、それがずっと残っている。中村一義は僕よりも上の世代なので、デビュー時はとても話題になったようだけど、リアルタイムでは聞けなくて、ソロ活動をひと段落させた頃に中村さんが組んだバンドの「100s」の二枚目のアルバムが出た頃に僕は知った。そんな中村さんが体調を壊し、酒を絶ち、しばらく体を休めて、苦しい期間を経て、ソロデビュー時の歌を久々に人前で歌うところを、中村一義よりももっと上の世代のおじさん達が、「変わらないねえ」と話している声が、いま34歳の僕に聞こえてくる、あの幸福な時空間が。
15時50分
暗証番号入力を間違えすぎてしまい、無効になったキャッシュカードを再発行すべく、某銀行の窓口に来た。新宿のど真ん中にあるその店舗は、広々とした、床と天井しかないような空間だった。広さと金にここまで強い結びつきを感じるのも珍しい。モノがない、余白のある空間。なんだか「未来だ」と思った。奥の方にいくつかのブースがあり、中央と手前にはサークル状の巨大なソファや椅子が並んでいるだけ。天井からは二台ほどモニターがぶら下がっている。ほとんどのものが白もしくは薄いグレーに統一されている。エレベーターを出てすぐのぽつんとした受付に立っていた男性銀行員に要件を伝え、小さな紙をもらい、そこに書かれた番号が呼ばれるまで本を開いた。やがて自分の番が来たので立ち上がり、荷物をまとめていたら、担当の女性銀行員がわざわざ僕が座っているソファの近くまで来てくれ、「お待たせいたしました」と頭を下げた。胸くらいまでの仕切りに囲われたブースに入ると「こちらに荷物を置いていただいて、奥におかけください」と促された。事情を説明すると銀行員は「ではカードの再発行手続きになりますね。郵送で1,2週間ほどかかりますが、よろしいでしょうか」と言うので、大丈夫ですと答えた。「顔写真のある身分証明書はお持ちですか」持っています。僕は運転免許証を渡した。銀行員は「正しい暗証番号のほうも、一緒にお調べいたしますか?」と聞いた。一応、これかなぁっていう番号はあるんですけど…ともじもじしている僕に銀行員は、極めて優しい口調で「では、こちら二枚の書類にご記入いただくかたちになるんですが」と、A4サイズ2枚の紙を差し出した。僕は名前やら住所やら電話番号やらを記入し、印鑑を二ヶ所に押した。押印後銀行員は、印鑑の先端を拭くための小さな紙を渡してくれ、拭き取ったあとの紙を手で掴んで捨てるところまでやってくれる。一度書類の記入を間違えてしまい、訂正印を押したときも銀行員は紙を渡してくれ、その時は拭きとった後の紙を「ゴミはこちらにお願いします」と丸いプラスチックトレーを差し出してくれた。そこに丸めた紙を置くと、青い海に白い孤島が浮かんでいるみたいだった。銀行員はすぐにそれを手で掴み、ゴミ箱に入れた。銀行員はパソコンに何かを入力したり、脇の機械に僕が書いた書類を差し込んだりしたあと「少々お待ちください」と席を立ち、奥に消えていった。
僕は机の上にある「生命保険について説明いたします」と書かれたチラシを眺めながら待っていた。1、2分ほど経つと、今度は男性の銀行員が、印刷面が隠れる形でやさしく折られたA4の紙を持って僕のブースにやって来た。男性銀行員は、手に持った紙をちらと確認してから「村上さま」と言った。はい、と僕が言うと「キャッシュカードの暗証番号…、こちらの番号になります」と、僕に向けて紙を広げた。紙には小さな黄色い付箋が貼られていて、そこに手書きで四桁の暗証番号が書かれていた。まさか、このあらゆる装飾が排除された未来的な空間のなかで、手書きされた数字を見せるという形で暗証番号を教えられるとは予想していなかったので、瞬間的に笑ってしまった。ああ、はい! ありがとうございます! 男性は頭を下げ、紙を再び半分に折り、奥に消えていった。