2月14日
退屈で死にそうだった五歳の女の子がロックンロールに救われる、あの名曲を聴きながら、踊るみたいにして歩いてたら、緑色の制服を着た配達員が、携帯電話を首に挟んでなにか仕事の話をしながら「東京オリンピックをみんなで成功させよう」と書かれたキャリーを早足で押していた。オリンピックなんてとっくに終わっているのに、そのロゴが入ったキャリーを新しいものに交換するのを後回しにしているのか? と思った。もしそうだとしたら、悲しいほどの余裕のなさ。時間に追われながら、社名の入った制服を着て、オリンピックという名前まで背負わされて、立ち止まっての電話すらやる時間もないままに、頼まれた荷物を運ぶ。重すぎる。荷重オーバーではないか。ひとりの人間が背負う量ではない。
偶然目についた、『ララランド』と『花束』を、「努力と競争のアメリカ」と「ぬるま湯の日本」における男女の関係という対比で語っているツイートのことが思い出される。アメリカと日本で括っている時点で古いし、『花束』は良い作品だとは思わないが、リアリティには人それぞれに固有の切実さがあるので、比べることなんてできない。もう、一人の人間がスターになるような時代ではないし、アメリカのエンタメ界のような、苛烈な競争と努力の世界が標準だとは思わないし、そもそもいまの日本がぬるま湯だとも思わない。何者かになりたい、という欲望は多くの人が持っているとして、「努力」をしない人間のことを悪く言う前に、この配達員に背負わされた荷物のことを考えるべきではないか。努力ができる体制を、全員が整えられるわけではない。