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下西風澄『生成と消滅の精神史』が面白くてずうっと読んでいる。西洋編の最後メルロ=ポンティの「肉の哲学」の話が素晴らしい。世界は「肉」であり、なにかを知覚することとはそこに裂け目ができることである(裂け目ができることはつまり、こちら側と向こう側が生まれることであり、視る/視られるの関係が生まれることである)。その裂け目が生まれたときに初めて「私」というものが浮きあがる。裂け目ができる前(つまりなにかを知覚する前)は、「青空と私」、「草の輝きと私」、「風の音と私」のあいだにはなんの境界もなく、すべて地続きの「肉」である。
昔から、「暑い」とか「寒い」という感覚に対して鈍感なところが僕にはあった。友人がそのたぐいの愚痴を口にしたときは、「暑いとか寒いとか言うな」なんてむちゃくちゃなことを言っていた。
「寒さ」とは、「寒い」と知覚したときに初めて生まれるものであり、その知覚以前には、「私」と「空気」のあいだには、境目がない。この本の言い方でパラフレーズするなら「私が空気を包み込んでいて、空気も私を包み込んでいる」状態である。「寒い」と感じるためには、「私」と「空気」を切り離す必要がある。
この感覚は、完全に理解できる。僕は他の人が「寒い」と言っているのを聞いてから、初めて「寒い」と気がつくことが多い。メルロ=ポンティ読みたいと思った。まず「メルロ=ポンティ」という響きも、なんだか肉肉しい。
この本、何かを説明するときに、例として「コップ」がよく出てくる。下西さんの机の、この原稿の前には、いつもコップがあるんだろう。そんな著者の時間が流れ込んでくるような、なんだか海の音をずうっと聞いているような読中感があり、ハードコアな話も多いのだけど、不思議と重たさがなくて、すがすがしい。