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土地を所有するとはなんなのか/『建築雑誌』23年7月号 岡部明子さんのインタビュー概略

 近代的な「所有」概念を初めて唱えたジョン・ロックの念頭には、「王権が強すぎる、つまり王権神授説に対する疑問」があった。神の信託によって地上の土地が王様のものとされることによって、人々の自由な活動が行われていないという問題意識があった。それで、土地は誰のものでもない。というところからスタートするが、とはいえ人が土地を利用するときに、今日耕した場所で明日には違う人がなにかをやっているという状況では困るわけで、そこで汗水たらしてやったことが報われるような仕組みを作るところから始めよう、という文脈があり、「労働価値説」が出てくる。
(これは後にマルクスの「労働価値論」へと引き継がれ、対資本家の労働者の権利闘争へと歴史的には展開していく)
 つまり自分の労働力を費やして耕したり家を建てたりした土地には、その人に所有権が生じる。これが所有権のルーツ。
ロックは『統治二論』のなかで、所有権には二つの制約があると述べている。それが「十分性」と「腐敗」。十分性とは、自分が生活していくために十分な量に限定して土地を耕すことで所有の正統性が認められると言うこと。腐敗性とは、土地を抱え込みすぎて、結果的に腐らせるようなことがあれば、それは所有の範囲を超えているということ。
 しかしやがて社会は、労働価値説ではなく、法的に所有権を保証する、という方向に流れていった。それが生活に必要かどうかとか、無駄に遊ばせていないかとか、そういうことが問われなくなってしまった。
 法社会学の分野で「権利の束」という考え方がある。所有権は、不可分ではなく束になっていて、切り渡して譲渡することができる。(近所にマクドナルドができるとき、街のシンボルだった桜の木が切られるということがあったが、それはマクドナルドが所有権を持ったのだから桜の木を切るのは自由である、という「絶対的な所有権」に基づいて行われた行為だが、そうではなく、桜の木に普段から親しんでいた近隣の住民にも、木が生えている土地に関してそれなりの権利がある、という考え方)
 もう一つ、時間軸で所有権を考えるという方向もある。所有権は遡行的にしか存在しないという考え方で、人類学のなかで出てきている議論。何年もその土地で草を刈ったり、畑をやったり、家の手入れをしたりしてきた人には、たとえ法的な所有者でなくても、「この土地の将来をちゃんと考えなくてはいけない」「未来に責任を持たなくてはいけない」という意識が芽生える。「遡れば所有している」という考え方。遡って見えている権利というものがあるから、その先に責任と義務というものが見えてくる。
 いずれにしても、「所有」と「行為」は、本来分かち難く結びついている。土地に価値があるのではなく、土地と関わる行為そのものに価値を認めていくこと。さらに、デヴィッド・グレーバーは「価値」は「行為」に根ざしている、と言った。人が土地(自然)と付き合うことに価値がある。

Posted by satoshimurakami