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つつじヶ丘の書原が閉店するという悲しいニュースを受けて久々に本を買いに行った。ウェルベックの新作『滅ぼす』を見つけて、いつもならウェルベックの新作というだけで迷わず買って読んでいるのに、タイトルに怯んで買うことができなかった。最近の世界情勢があまりにも暗く、タイトルからパレスチナのことを連想してしまって、読む気になれなかった。いまは、こういうのはいいかなと思ってしまった。このところ展覧会の準備で身動きがとれないほど忙しいが、この日はPARAに行ったあと、国会正門前での抗議運動にもすこし参加して、タチアナさんというパレスチナにルーツがある方のスピーチを聞いてショックを受けたばかりだったというのもあるかもしれない。パレスチナの少年が母親について書いた言葉をタチアナさんは読み上げていた。その母親は、自分の子供たちの腕や足など体のいろいろなところにその子たちの名前を書いたという。爆撃などで殺されて体がばらばらになってしまっても、誰の体かわかるように。なんてリアルで痛ましい話だろう。スピーチを聞きながら涙ぐんでいる人もたくさんいた。パレスチナ問題についてすこしずつ勉強しているが、すればするほど本当に理不尽で、こんな状態になるまで放置してしまった責任の一端は明らかに、私たちにものしかかっている。どこに寄付するべきか迷ったが、いくつかのニュースを見たうえで国境なき医師団に少額ながらお金を送り、また署名と、イスラエル関連商品のものを買わないように気を付けること。とはいえ限界がある。銀行に預けているお金もおろしたほうがいいのだろうけど、すぐにはできない。私の生活は破壊の推進に組み込まれてしまっている。一方で停戦を願い、寄付と署名をして、また一方では戦争に加担している面が否めない。頭では平和を望みながら、私の腕は人を殴り、私の足は人を踏みつけている。
侵略を望む人たちがその手で人を殺すわけではない。その場にはいない人たちが命令をし、その命を受けた兵士たちが返り血を浴びている。
問題の緊急度と深刻さが違いすぎるので、あまり身近な問題に引き付けて考えるべきではないのだろうけど、東京の木々も、その場にいない人たちが伐採を命じ、その命を受けた下請けの人たちがチェーンソーを握って木端を浴びている、という構造がある。せめてそれを望むひとが自分の手でやってくれと思うが、そうはならない。