03121236
予定していた愛知行きが雨予報で延期になったので、清原惟『すべての夜を思いだす』をユーロスペースで観てきた。お昼過ぎからひどい雨とのことだったので、朝起きてすぐに家を出て10時の回。他に客は10人くらい。そういえば昨日も渋谷に行った。映画館を出て、このあいだリサイクルショップで買った帽子を被って街を歩いた。視界の上のほうに帽子のつばが広がって、屋根みたいになっている。そんなふうに風景を見ていてふと、この帽子の前の持ち主もこんなふうに、帽子のつばごしに世界を見ていたのだ、と気がついた。同じ家の窓から外の景色を見る別の人のように。自分の目で世界を見るとき、その視界に自分は入らない。誰にとっても。とすると、仮にいまここにある私の視点が、以前の持ち主の視点にすりかわったとしても、映像としては特に何かが変わることはない。自分以外の誰かがその切り替わりを映像として眺めたとしても、帽子を被っている人間が変わったことには気がつかない。『すべての夜を思いだす』のなかで多用されていた風景を映している長回しのショットは、誰かの視点を思い起こさせた。ただ、誰がその主体なのか、さっきのショットと今のショットで主体は切り替わっていないのか。映像だけを観ている自分にはわからない。画面の中で進むストーリーと同じくらいに、これは誰の視点なのかを考えてしまう映画だった。だから観おえたあと、ロビーでパンフレットを買おうとスタッフのひとに声をかけたとき、自分の視界の「後ろ」から(自分の)声が出てきたことにちょっと驚いてしまった。映画のなかでそんなことは起こらなかったから。加えて、スタッフの人が私に向かって金額を告げたときは、画面の中にいるひとがカメラに向かって話しかけてくるような奇妙さもあった。そんな場面が映画の中でも一度だけあった。このカメラ自体が人の視点みたいだと思い始めたころ、いきなり画面の中にいる二人から話しかけられ、鳥肌が立った。『すべての夜を思いだす』を二時間みたことによって、映画の視点が現実の自分の視界に重なってしまうような感じ。奇妙だけど、不思議と嫌な感じはしない。ふだん私は自分の視界のことなど特に意識せず、そこに映っている人間に向かって話しかけ、自分の声を視界の「後ろ」に聞きながら会話をしている。当たり前のことだ。でもいっぽうで私は、以前別の人間がかぶっていたリサイクルショップの帽子を被り、同じ窓から世界を見てもいる。
同じ家の窓から違う人が風景を見るみたいに、自分も世界を見ているのだとしたら、そこでいう家ってなんなんだろう。