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お昼前、車で二人でコインランドリーに行って洗濯機に洗濯物を入れて、一度閉じたらなかなか開かない踏切を渡らないようにするため駅前の駐車場に車を止めて、でも車を止めた瞬間に踏切が開いた。涼ちゃんに「踏切、渡れたね」と言われ、「でもこれで踏切を渡りに行ってたら、未来は変わったかもしれないから」と返したら、「君はすごいね、普通の人はまず地図があって、その上でこうしようとかああすればよかったとか思うけど、君は地図が描きかわるからね」と言ってくれた。
車をわざわざ駐車場に停めたのは「見聞録」のつけ麺を食べるためだったのに、「見聞録」が開いてなくて「どうしよう」となり、一応落ち込んだ顔をして、日高屋にいこうかと言ったら涼ちゃんが「弁当を買って車で食べれば20分(駐車場料金1周分)で食べられるんじゃないか、ちょうど水ももってるし(コインランドリーで小銭を崩すために自販機で買った)」と言い、「パズルがつながっていく!」と僕は盛り上がったけど「そんなに繋がってない」と笑われ、弁当を買って車に戻って食べた。弁当を買って車に戻る途中「これで見聞録が開いてたらすごいね」「そうだね」「開いてたら嫌だから、見ないようにして車に戻ろう」という話もした。
弁当を食べながら、人生のほとんどのことは「作業」のフォルダにいれることができるという話をした。ご飯を食べること、寝ること、トイレや風呂など、下手したら映画を見たり居酒屋へ飲みに行ったり、美術館へ行くのも、ときには旅行すらも作業になってしまう。しかし「ギリシャへ行く」は作業ではない。台湾やインドネシアに行くのは、時として作業的な意味合いが出てしまうが(なぜだろう)、しかしギリシャに行く、というのは、なぜか作業という感じがしない、という話。なぜだろう。
しかし旅行も細かい作業の積み重ねと言える。そこで「旅行」を、「作業か作業でないか」という考え方で組み立てるという方法を提案する。ホテルを予約して、移動して、チェックインするまでは作業として、そこから晩ごはんをどうするかは現地で決める、とすれば、晩御飯だけは作業という魔物から逃れられる。晩ごはんまで前もって調べてしまうと、すべてが作業になってしまう。

Posted by satoshimurakami