なぜわたしに、はるか遠くの国で起きている問題の責任があるのか

アイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』(岩波現代文庫)から「なぜわたしに、はるか遠くの国で起きている問題の責任があるのか」を考える。

 

わたしたちは「自ら行為することで諸制度の運用に参加しており、その積み重ねが特に、不正義を生み出すということになる」。例えば同じ服が二つの店で売っているとして、わたしたちは安いほうを選びがちだが、しかしそれは企業間の価格競争のゲームに参加していることを意味し、服を生産している工場の労働者が低賃金で働かされる不正義を助長することになる。

特にアパレル産業においては、そのような事態を改善するため、「反苦汗工場運動」というものが起きた。「苦汗工場」とは次のようなものである。

「多くの衣類、靴、その他こまごまとした商品の生産は()先進国以外の国ぐにの比較的小さな製造業拠点で生産されている。()そうした製造業施設の労働条件は(…)つぎのことが典型的に見られる。労働者のほぼ全員が女性であり、しばしば十三歳か十四歳といった少女たちだ。彼女たちが上司から支配され虐待的に扱われるのはよくあることで、しかもセクシャル・ハラスメントは日常茶飯事である。繁忙期には一日一〇時間から一六時間も当たり前に働き、会社が納期に遅れていれば、徹夜で働くことを強要されることもある。一日の長い労働時間内でのトイレ休憩やその他の休息の機会は限られている。休暇を願い出ることも、祭日休暇も一般には許されない。()工場の気温はしばしば耐えられないほど高く、換気もなく、照明も不十分で、消防機能もほとんど備わっておらず、避難出口はふさがれ、衛生設備も不備で、食堂やトイレは不衛生で、清潔な飲み水さえ準備されていない。()抗議したり、組合を組織しようとしたりする労働者は、脅迫され、解雇され、ブラックリストに載せられ、殴られ、殺されることすらある。そして、しばしば政府は、積極的にであれ消極的にであれ、そうした組合つぶしを支援する。

)一般的に労働者は、正式な雇用契約を結んでいないことが多く、また、雇用主は被雇用者が実際に働いた時間をきちんとつけていないか、全く記録しないでいるために、支払いが不十分であっても、請求することができない。」(p227)

だがこの不正義は、産業があまりにも複雑であるため、構造を理解しにくい。まさか自分の服が、そのような環境で生産されているとは気が付きにくい。

「グローバルなアパレル産業の構造は、苦汗工場の労働条件に対する責任を分散してしまっている。・・・異なる多くの場所で製造された衣服を、人びとがじっさいに購入する店舗へと運ぶ、それぞれ別個の契約をしている数知れない業者や人手が関わる生産と流通の複雑な連鎖が存在している。

)生産と流通のこの複雑なシステムの中で、衣類を作っている労働者は、この連鎖の最底辺にいる。彼女たちが稼ぐ賃金は、一般的に一つひとつの製品の小売価格のほんの一部にすぎず、六%以下であることが多い」

そこで反苦汗工場運動の活動家たちは「大量に服を購入する市役所や、大学のようにその名前やロゴをつけた服を売る諸機関に対して、こうした衣類が生産される工場での過酷な労働条件に対して責任をとるよう要請した。()また、ギャップやナイキ、ディズニーといったブランド・アパレル店や、さらには()一般の衣類小売店の前で、店で売られている衣類のほとんどが、苦汗工場という劣悪な環境において製造されていることを説明するリーフレットを配布した。」(p225)

 北米とヨーロッパでは、「こうした運動のおかげで、自分たちが購入する衣服の多くが遠い国ぐにでどのように生産されているのかについて、消費者の意識がとても高くなった」という。「以前はアパレル産業の労働者たちのことなど全く考えたこともなかった人びとのなかで、自分たちと労働者たちがつながっているという意識が芽生え、結果として、より多くの消費者が「フェア・トレード」消費に関心をもつようになり、典型的な労働条件よりも公正な条件で働く労働者たちと直接的に取引する会社を通じて製品を購入することなどを始めた。」(p237)

とはいえ問題はアパレル産業に限らない。世界には「不正義」が多すぎる。ひとりの人間が使える時間は限られており、世界のすみずみのことにまで気を回せなんて無理な話だ。

「わたしの行為が手を貸している構造上のプロセスから生じるあらゆる社会的不正義に対して、もし多くの人びとと責任を分有するのならば、それによってわたしは、非常に多くのことに関して責任を負うことになるだろう。たしかに、そう考えると、途方に暮れてしまう。

)さらには、この責任の射程が自分の居る場所、つまり国家によって制限されていないのならば、その程度はさらにもっと圧倒的なものとなるだろう。というのも、こんにちの世界における多くの不正義は、潜在的には地球大に広がる構造上の社会プロセスから生じているのだから。」(p221)

しかしヤングはこう言う。

「最初に指摘しておきたいのは、それがわたしたちが立ち止まるべき真実である、ということだ。()つまり、この世界は深刻な不正義状態にあり、その算出にわたしたちは手を貸しており、さらに、他者とともに戦ったとしても、その状態は、わたしたちの誰かが正せるようなものではないかもしれない、と。わたしたちは、そうした責任の極点で立ち止まるべきである。」

さらにヤングは、ひとりひとりの人間が負うべき責任は、それぞれの不正義への加担の度合いによって異なるのではないか、という意見に反対する。

「わたしは、それぞれのひとが、構造的不正義への加担の度合いに応じて、程度も種類も異なる責任を負うという議論にはくみしない。(…)責任が分有されるということは、わたしたちのすべてが、その責任を、分け隔てなしに個人として担う、ということを意味している」

ヤングは、人びとが「構造的不正義」への責任を回避するために使う言い訳パターンとして、以下の四つを挙げている。

(1)物象化 (2)つながりの否定 (3)直接性の要求 (4)不正義を正すのは自分の役割ではないと主張すること

(1)物象化

これは「いろいろな力が働いているから、いましているように行為する以外には選択の余地がない」というもの。

「物象化は、あたかも特定の社会関係における人間の行為の産物をモノや自然の力のように扱ってしまう」(p277)

例えば2018年に大阪で施工不良のブロック塀が倒壊し、子供が死亡するという事故が起きてしまったが、その施工現場において、上司の命令とはいえブロック塀に補強用の控え壁を入れずに作ることでいつか悪いことが起こるかもしれないと従業員が思っても、あるいは上司も同じく問題が生まれるかもしれないと感じていたとしても、「ブロック塀に控え壁を入れない」という行為は、ひとつの必然として、コントロールすることができない天候と同じように、上司と従業員それぞれの目の前に現れる。

(2)つながりの否定

「ひとは典型的に、他の多くの人びとや事象によって媒介されている制度やプロセスの中で、ともに行動している遠くにいる他者とのつながりを否定する。」(p285)

しかしいくら願っても、現実において私たちは他者とつながってしまっている。なぜならわたしたちの日々の行為には、たくさんの「前提」があるからだ。

「一枚のシャツを買うという、この単純な行為によって、わたしがすでに前提としているのは、綿花を育て、布を織り、裁断するひとと裁縫するひとを集めて布を衣服にすることに関わるすべての人びと、裁断師や裁縫師自身、さらに、衣服を輸送し、わたしが容易に手にすることを可能にしてくれている人びと、これらすべての人びとの行為である。通常これらの人びとは、わたしの関心の外にいる。しかし、もし問われたならば、それらの人びとがいなかったら、ここでわたしの目の前にある既製服は存在しない、と認めるだろう。わたしがより安価なシャツを買おうとするさい、生産力と流通力を高めるためだとされるアパレル産業のこれらの実践が行われただけでなく、労働コストを最小化しようとする圧力や競争があらゆる過程であったことが推測できる。そして、その結果、労働者が被害にあっている限り、安価なシャツを買うというわたしの意図は、その危害に関与しており、それは、わたしが労働者に危害を加えようとしているわけでもな(い場合であっても)そうなのだ。」(p287)

(3)直接性の要求

わたしたちは目の前のこと、つまり直接出会う人びとのことで精一杯なので、遠くのことまでは考えられないよ、という主張。

「わたしの目の前にいる人びとすなわち、家族、友人、同僚、取引先や顧客、バスの中で、路上で、お店やカフェで、参加する教会やクラブで出会う人びと、わたしの日々はそうした人たちでいっぱいだ。わたしは、耳を傾け、ニーズに配慮し、丁寧に、敬意をもって、そして協力的であろうとする。

直接的な相互行為から生じる道徳的要求は、必要に迫られていて、間髪を入れず、そして時に、際限がない。このような相互行為から生まれる責任に(構造的)不正義に関する対する責任を追加することが、わたしにあまりに多くを求めすぎているのは確かだ。」

(P290)

直接的な関係からくる感情と、遠くの人びとを思うことからくる正義の感覚のふたつがあり、「それぞれが他方の道徳的要請を曖昧にしてしまう傾向がある」。日常生活では、直接的な関係によってわたしたちのエネルギーは消耗してしまうので、より広い社会的見地をとる余裕はほとんど残らない。その見地が、直接的に関係する人たちに、より危害を加えないために必要だというのに。

とはいえ私たちは特権的な立場にいる。もしわたしたちが直接的な要求を優先してしまったら、その構造的な特権を再強化してしまうことになる。

「直接的な関係における要求と正義に関わる要求との間にある緊張は、なくすことはできない。だが日常生活において関係しあう人びとが、構造的不正義をすこしでもなくしていこうと自らを組織化し行動に向かうとき、他者に個人的に応答するために費やすわたしたちのエネルギーは、同時に、正義を実現するためのエネルギーになる。」

ようするに、これは解決できない問題だが、話しあうのが超大事だと言っている。

(4)わたしの仕事ではない

たしかに不正義はある、だがそれはわたしの仕事ではない、と私たちは考えがちだ。しかしそれは「誰だかがなにかをしなければならない、と言っていることに等しい。」p300

「ロバート・グディンが論じるには、不正義が存在していると多くのひとが認めながら、その問題に対処する任務を割り当てられたものが誰もいないといった状況は、まさに国家が行動するに相応しい状況である。」p301

しかしこれには二つの問題がある。ひとつは「国境をまたぐ構造的不正義に応えていない」p303)。

ふたつめは「正義を助長する国家の力の多くは、その努力に対する市民からの積極的な支援にかかっている」p305)という認識が欠けていることだ。

以上の4つ戦略によって、「構造上のプロセスの変革に積極的にならなくてもよい、そして、変革という目的のために共同行為を展開するにはいかに政治的に他者と関わっていくべきかを考えなくてもよい、そのような口実がアクターたちに与えられる。」p306

そんな口実を使う人たちを、不正義の是正に目覚めた人たちはしばしば非難しがちである。しかしヤングは、不正義への責任の放棄は「罪、非難、あるいは過失にはあたらない」(p306)と言っている。なぜならわたしたち一人ひとりのミクロな行為を、マクロな社会的プロセスに結びつけるのは、とても困難だからである。

「非難という実践はしばしば暗に、非難する者を非難される者よりも優位に置く働きをする。これが、非難することは権力への意志の行使だとニーチェが考えた理由だ。」p307)

私たちに責任はある。だがその解決に向かおうとしない人のことを非難してはいけない。批判することや説明責任を求めることと、非難することは区別すべきである。非難することは、「相手を支配したい」という欲求の現れだからである。

Posted by satoshimurakami