地点「光のない。」
オーストリアの作家イエリネクが昨年の東日本大震災をうけて、書き下ろした戯曲を地点が演出した「光のない。」を観てきました。池袋芸術劇場。
凄まじい衝撃をくらってしまいました。いま見終わってから3時間半経っているのですが、まだ頭の体勢が崩れていて、うまく感想を書けるか分からないのですがやってみます。
まず、席について、ちょっと「おかしいぞ」とおもったのが、舞台の幕が、鉄みたいな重い質感をしていて、あれはなんだ。と思い、その時はあんまり気に留めなかったのですが。。これは後で書きます。
基本的に5人の役者(うち2人はダイビングスーツを来てヒレを付けてぺたぺた歩いてる)が身振りと言葉で劇を進めていきます。なにか筋道のたったストーリーがあるわけではありません。
「わたしたちー」という呼びかけから舞台は始まりました。「みなさーん」と呼びかけるかのように。「わたしたち−」と。もうこの瞬間から、ほぼ終幕まで鳥肌がたちっぱなしでした。
そこで、この演目で大切なテーマの1つは「当事者性」とか「主体」「客体」ということだと。わたしはあなたであり、あなたたちはわたしである。
放射能は目に見えないもので、耳にも聞こえないもので、味もしないし、匂いもしないけど、わたしたちはそれに"時間"を奪われてしまいました。とおい未来まで、ながい時間を奪われてしまいました。"その瞬間"から、わたしたちの過去も、現在も未来も、何か違う世界に連れて行かれてしまいました。
この放射能の問題は、いま、言ってしまえば"ホット"な話題であり、下手に扱うととんでもなくシラけたものになってしまう危険があると思うのですが、扱わずにいるのも難しいというか、かなりジレンマがあると思うし、そもそも「これはこういう問題である」と1から10まで認識するのも不可能なことだと思います。それを舞台に"あげてみせた"という感じがしました。
いや「あげられてしまった」と言う方が正しいかもしれません。そして「迷うことを迷わない」という意志を感じました。
全編にわたって、アクセントをズラされた言葉と、傾いた舞台と、ダイビングスーツとで演出された舞台は、「宙に浮いている」ようでした。そこでは、敵とか味方とか正義とか悪とか、"あなた"と"わたし"の区分けもなく、何があるか強いて言うと"時間(音楽)"と"運動"だけが現前して、舞台にたっていた5人の役者は、もはや"人間"ではなく、ではそれは"放射能"だったのかあるいは"他者性そのもの"だったのか、わかりませんが、ただあれは間違いなく、"人間"ではなく、最後の方なんか特に。「あれはなんだ」と目をこらしてみてしまうほどに。役者と、舞台と、演出と、戯曲と、音楽が、もはや奇跡的に舞台上で結晶していて、演劇が可能な表現の射程距離の広さを見せつけられた、というか。
そして最後、ものすごい空気が高まって最高に気持ちの良いときに、ゆっくりと幕が(気がついたら半分くらい降りていた、という感じに、静かに、でも容赦なく)おりて、舞台は終わります。あとで調べたら、このカーテンは、鉄製の防火シャッターだったのです。
僕と言う観客にとって、もはや"希望"にも見え始めた、舞台上の輝く(綺麗な光が満ちて、本当に輝いていました)"世界"が、防火シャッターによって隔たれてしまい、会場は真っ暗になり、人々の声(歌)がしばらく余韻のように響き、閉幕します。
凄まじい体験をしてしまった、という感じです。なんというか、デザインの力に頼りすぎず(例えばチェルフィッチュは、舞台上の空間を"デザインする"ような作風だと思います)、演出によって役者の個性が奪われてしまうようなこともなく、"奇跡的な"作品(あるいは"奇跡的に成り立っていると見せるような")だった。そんな気がします。
ああ、すごかったー。