チョコバナナパフェ
チョコバナナパフェを食べながら、メロンソーダを飲みたいです。
こういう"喫茶店アイテム"的なもののリアリティというか、共通認識っていつから定着したのだろう。
日本的なもの。とか、わたしたちのリアリティ。とか
昨日地点の「光のない。」を観て、「わたしたち」とは誰かを考え直さなくちゃいけないなと思った。
“アート"とは、西洋で生まれた1つのジャンルで、言ってしまえばヨーロッパの人達の「私達が世界の中心であり、価値基準である」というような態度のもとに普及しているものです。これまではそう思っていました。
これに対抗したのがスーパーフラットという運動だったと認識しています。村上隆さんは、「もう欧州中心の世界ではない」という言説を唱えるのも、結局ヨーロッパの人達であるという事実。結局世界はある一定の方向に進歩しているもので、その最先端に居るのが私達であるという、結局ヨーロッパが世界の中心である、という考えから離れられない、救いようのない病的な体質に対しての怒りを、「私達日本人は、彼らからしたら人間扱いされていない、怪物である。怪物であるが故の表現者であるということを提示する」という衝動がスーパーフラットであったと思っています。
それは、"彼ら"のアートワールドの中に自らを投げ入れて戦う方法。そうして"西洋の美術の文脈に日本的なカルチャーを投げ入れることによって、ヨーロッパの美術を(逆説的に)相対化する"というやりかた。
それは例えば、日本の相撲界にモンゴルやらロシアやらの力士がたくさん入ってきて、彼らが国内で(時に日本人以上に)力を発揮する。というようなこと、を狙ってのこと。のような気がします。
そうして生まれたものは「わたしたち日本人のリアリティ」ではないかもしれませんが、1つの存在証明のかたちであったような気がします。
あと、他に、うまく言えませんが「そこから逃げる」ような態度が考えられるかなあと思います。それは、"わたしたち日本人には、わたしたちにとってのリアリティがあればよいのだ"という考え方。純粋に"面白いもの"を探していけば良いのだ、という態度。そこまで振り切ってしまうと、それまでの歴史によってその存在が担保されて、ここまで発達して来た"美術"に対しての背信行為のような気もしていまって、僕はどうにもそこに振り切る事ができません。あと、それはひとつの引きこもりのような態度にも見えてしまっていました。
それは例えばモンゴルとかで、相撲から発展したような"なんらかの競技"が生まれたとして、それをモンゴル国内でどんどんレベルを高め合っていくような。感じですか。ちょっと違うかな。考えてみれば、わざわざ"相撲"というルールに乗っ取って、日本の中に飛び込んで戦うようなことはしなくても良いのではないか。とも思います。"そこに迷いがでてきてしまったのであれば"
でも、昨年、地震があって、津波がきて、原発の事故が起きてしまって、放射能という、見えない不安がまき散らされてしまったこの世界において、そもそも"わたしたち"って誰なのか。ジャンルとか国籍とか、そんな区分けとは無関係にあちこち飛び回る"見えない不安"が現実の世界に表れてしまった以後の、この世界において"わたしたち"とは誰を指せば良いのか。それが分からなくなってしまったというか、"わたし"とか"あなた"とかっていう区分け自体、最初から存在しなかったんじゃないか、と思いました。
もしかしたら、これから先何か1つのものが"わたしたち日本人としてのリアリティ"として提示されるなんてことはないのかもしれません。例えば宇川直弘さんとか、坂口恭平さんがやっていることは、いわゆる西洋発祥のアートワールドとしての"美術"の範囲には収まらないかもしれないし、"わたしたち日本人にとってのリアリティ"とは言い切れないけれども、とても面白いと思うし、新しいと思うし、歴史に対して目をつぶっているような態度にも見えない。それは、彼ら本人のキャラクターによるところが大きいと思いますが。
うん