“均衡”について
art itの「連載 田中功起 質問する 7-6:片岡真実さんから3」
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/TH0tOK4LpPr1fkQDhW7J/
というところを読んでいて、キュレーターの片岡真実さんが"均衡"という言葉を使っていました。
「均衡」について
僕はいつも作品をつくったり、アクションを起こす時に"主体を複数化したい"という欲求があることに最近気がつきました。それはどうしてなのか、考えてみたら、それはもしかしたら1つの理由として
僕は小学生の頃、寝る前に布団で、自分が死んだときのことをイメージしていたら、(いま生きているという実感も、いまどこにいるという認識も、自分がなにものであるという意識も全部なくなって、永遠の暗闇のような"無"の中に放り出される感覚)その事実に耐えきれなくなって「死ぬのがこわい」と母親に泣きついたことがあります。最初にこれをやったときの恐怖は、いまでも覚えています。
そして死ぬときのことをイメージするのは、いまでもときどきやっています。
それをすると「生きている自分」というものが相対化され、「いま生きている、これからも生きていくという意志」につながってくるから。ともするとだらけてしまいそうになる自分を、相対化するために「死」に対抗しうる唯一の手段としての「生」を、「生者としての自分」を「死者としての自分」と"均衡させる"ような感覚です。
それがもしかしたら、相対化とか、相対化をもっと推し進めた"複数化"というかたちにつながってくるんじゃないかなと思った。暴論かもしれないけども。
“生"を複数化させるには、"死"を提出することに加えて、他の「"生"たち」と相対させないといけないような、それがお互いに均衡しあうような。そんな感覚。