1月24日24時55分

隅田川まで歩いていくと、僕の家がある台東区側にはビニールシートでできた家が並んでいて、そこにすむおじさん達は、アルミ缶を集めたりして生活している。川の反対墨田区側には、首都高速が通っていて、そこを走っている車が、台東区側からはよく見える。大体いつ見ても(中でも夜は特に)ほとんどがトラックで、いろんなものを、いろんな運搬業者が運んでいる様子がよくわかる。高速の向こう側にはアサヒビールのビルがある。墨田区側の川のほとりからみたら、台東区側のビニールハウスの家が並んでいるようすがよく分かるだろうと思う。ここの景色は、川を挟んでお互いを相対化している。でも、高速道路を走っている車からは、まずこちらがわのビニールハウスは認識できないだろうと思う。彼らはものを運ぶのに夢中で、景色を見るにはあまりにも速く走りすぎているから。とまっている側からは、動いている人達がとてもよく見える。100kmで走っている4トントラックの対岸に、まちで拾ったアルミ缶を集めたビニール袋を管理しているおじさん達がいるのだ。でもどちらも、それぞれの事情を抱えて、たぶん精一杯生きているのだ。

昨年のおわりごろ、桜橋中学校という近所の学校の美術部の子たちと一緒に、ブロック塀に壁画を描くという機会があった。そこでは、スプレーによる「落書き」が中学校の印象を悪くしているとして、創立十周年記念の一行事として、ちょっとした縁で、僕(とあと女の子二人)と美術部の子たちが壁画を描くということになったのだ。僕達は中学校の塀に、北斎の浮世絵をペンキで大きく模写したりした。「落書き」が「壁画」になったというわけらしい。その塀は隅田川沿いのランニングコースに面していて、コースの反対側の壁にはスプレーで描かれた誰かのサインがたくさんある。そのスプレーの壁と、北斎の壁がランニングコースを挟んで向かい合っているという構図である。ここでも相対化がなされている。言ってしまえば、これはどちらも「落書き」だし、「壁画」だと思うのだ。スプレーでグラフィティを描いている人達は、彼らなりの切実さからそうしているし、中学校のほうも、地域のイメージアップという切実な目標があってそうしている。どちらかを「だめ」とか簡単に言えない。

僕は何かを「だめ」と決めつけるのがひどく苦手だ。自分のことを棚に上げて言ってみると、美大生はもっと自分の作品を、多くの色んな種類の人の目に耐えうるかどうか、歳月に耐え得るかどうかをもっと切実に考えて作品を作った方が良いんじゃないかと、卒業制作展後のゴミの山をみて思ったのだけれど、彼らはそもそもそれを望んでいないのだったら、「わたしがんばった!おいしいもの食べたいー」とか言うんだったら、それはそれで良いと思うし、僕もみんなと一緒においしいものを食べにいきたいと思うのだけど。それを批判できたら、それとおなじように世の中のいろんなアレをアレできたら、もっと楽なのかもしれないなあ。どこにも行き場がない怒りとかもやもやを、「おまえこのやろう!」という感じでぶっ放したいのだけど「でも、事情があるんだよなあ」とか思ったり「がんばったんだよ!」と言われると、「ああ、よかったなあ。おいしいもの食べにいこう」という感じになってしまうのだなあ。

Posted by satoshimurakami