2013年5月3日23時58分
2013年5月3日23時58分
今日はバイトだった。研修三日目。あらためて、僕はこういう接客業、特に、あるマニュアルに従って自分を変えながら(というかダマしながら)動かすタイプの仕事は向いてないのだなあと思う。僕はまだ24歳だから、「声が小さい」とか「もっと自信をもって接客して」みたいなアドバイスも、まあかわいい感じに見られるけれど、これが30とかになったら、もう惨め以外の何者でもない。
研修三日目にして、「おれはこんなところで何をやっているのだ。あっというまに死んでしまうぞ」という、かなりヤバい感じになってきてしまっている。まあ狙っていた通りなのだけれど。いざそれが目の前に襲いかかると、そんな「狙い通り」とかそんなこと考えていられない。ただ重い闇が体にのしかかってくるだけだ。
しかし、そう、働くというのは、お金を稼ぐというのは、こういう作業を経なければ成し遂げられないものなのかもしれない。バイトをしている時の僕は、何者でもないただの「村上慧」という記号の着いた男性である、それだけであって、これまでの僕のアーティストとしての活動歴だとかはもう全く、悲しいくらいに関係ないのだ。自分の何者でもなさ(+人よりも飲み込みの遅い、自信のない、陰気な人間ときてる)を、改めて再確認させられる。多くの人々は、こういう作業を通して、すこしずつ「この社会で生きていくとはどういうことか」を理解して、歳をとっていくのかもしれない。
最近、僕の両親が家の外壁にネットを張って、そこに黄色い薔薇を這わせて育てている。いまちょうど時期なので、薔薇は見事に咲き誇っていて、公園からみると結構すごい事になっている。今日は、僕が岩手から持って帰ってきた単管を使って、一日かけてネットをかけるための土台をつくっていた。高さ6m、幅4mくらいのおおきなものだ。お父さんは「お母さんがここに薔薇が欲しいっていうから」といってるけど、それは多分照れ隠しで、本当は作業が楽しくて(+他にやることもないので、という感覚で)やっているのだと思う。お父さんは、手先は器用だし大工も得意だけど、単管を扱った事はないので、帰ってきた僕に「ここはこういうところで苦労した」とか「ここはこれで大丈夫だと思うか」という話をしてくれる。そうやって父親と話が出来るのは嬉しい。こういうわかりやすい共通の話題がないと、なかなか話せるものではない。むかいのひろくんの家(湯本家)の駐車場にも、なんだかパイプで天井がつくられて、そこになんかの植物が這わせてある。休日、やることが、こういう事しかないのだろうなあと思う。それも、土地と家を持ってしまったが故の「暇つぶし」「退屈しのぎ」なのだろうなあ思う。僕は、こういう生き方はしたくないなあと思う、今の所は。
でもそうやって生きている人達のことを、誰が悪く言う資格があるだろう。だれが「つまらない日常、たいくつな人生」みたいにののしる事ができるだろうか。
弁証法的な思考は、個別の事情を取りこぼしてしまいがちだ。
悪く言うことができるだろうか。