02071305
火曜日に、中塚といっしょに「かぐや姫の物語」をみてきた。
そして、なんだかやられてしまった。輪郭線そのものがぶるぶると動くようなアニメーションは、すごく刺激的で、アニメーションが"アニメーション"であることを改めて思い知らされたというか、絵が動く事の本領をみせつけられた感じ。ただ、内容は、えげつないほどに悲しい、というかむなしい物語だった。かぐや姫のキャラクターが、いまの僕たちにも感情移入できるようにつくられていて、竹取物語の原作を読むだけではここまでずんとした重い気持ちにはならないだろうな、と思った。親は、ただただ子供がかわいくて、幸せにしてやりたくて、いろいろと世話をやくことが、子供にとっては窮屈で苦しいことだ、という、今の時代にも通じるような解釈を原作から読み出していて、その結果描かれるかぐや姫やそのまわりの人たちは、見ていて恥ずかしくなるくらい、僕たち自身のことを描かれているような気がした。生きることの歓びと、それにともなう苦悩。「私の人生はこんなはずではなかった」という気持ちが、どの登場人物からも読み取れる。かぐや姫にさえも。人間が生きていて、命があるがゆえに穢れがあるとされるいこの世界と、穢れのない"無"の月の世界からの唐突なお迎え。
『いざここを離れるとなると、あるいは死ぬとなると、とたんにすべての景色が愛おしくなり、今までのすべての苦悩が、実は歓びだったんじゃないか』と思ってしまう。僕たちはこんな風にしか、人生を肯定できない。この気持ちに心当たりのない人はいないんじゃないか。そのさなかにいるときは「私の場所はここではない。もっと良いところがあるはずだ」と思い、すべてが過ぎ去る"お迎え"が近いとわかってからじゃないと「ここは良いところだった。ここを離れたくない」と思うことができない。そして最後に唐突に訪れる"お迎え"の非情さとむなしさと、お迎えにくる連中の話の通じなさが生々しい。映画を見た後、「僕たちは生まれてきた時点で、現状に満足しつづけることはできない。なので、生は苦悩するためにある」と「それでも歓びは苦悩よりも深い」という二つのフレーズが思い浮かんだ。
たまたま読んでいたニーチェの「ツァラトゥストラ」に、この「かぐや姫の物語」の命題に対する応答があった。この映画のキャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」である。
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意志とはー自由と喜びをもたらす者のこと。友よ、君たちにはそう教えたはずだ!
~時間は逆流しない。そのことに意志は憤怒している。『そうだったこと』ーこれが、意志には転がすことのできない石の名前だ。
~『どんな行為も消すことはできません。罰を受けても、行為は帳消しにされません!<この世に生きている>という罰が永遠なのは、まさに、まさに、この世に生きていることが、永遠に行為と罪を繰り返すことでしかないからなのです!それを逃れる道はただひとつ。意志がなんとか自分を救うことです。<意志する>が<意志しない>になることです。ー』
だが兄弟よ、君たちは、狂気が歌うこの夢物語を知っているはずだ!
『意志は創造する者である』と教えたとき、俺は君たちをこの夢物語から連れ出してやった。
どんな『そうだった』も、断片であり、謎であり、ぞっとするような偶然なのだ。ーだが、創造する意志が、『いや、俺がそう望んだのだ!』と言うと、事態が変わる。
ー創造する意志が、『いや、俺はそう望むのだ!そう望むことにしよう!』と言うと、事態が変わる。~誰も意志に、後ろ向きに望むことを教えた者はいなかった!」
~
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いま映画館でやっているアニメが出した質問に対して、130年前に書かれた本がひとつ道筋を示しているかのよう。ここではニーチェは、たぶんショーペンハウアーの「意志の否定」を批判的に意識しながら書いているけれど。
そして映画をみたあと、ずいぶんと沈んでしまった。映画の翌日、起きてからアルバイトにいくまでの時間はかなり危なかった。こういうのはだいたい起きた直後が一番やばい。感覚をひらくために"気持ちをあえて落とす"ことはたびたびやるけれど、ちょっとそれがいきすぎるところだった。本を読む気にもならず音楽も聴く気にもなにか描く気にも言葉にして気持ちを鎮める気にもならず。さいわい短い時間で抜け出したけれど。
あのとき、ものすごい切実さをもって救いになってくれたのは「お前自身を笑うことを学べ」という「ツァラトゥストラ」の一文と、越後妻有で見たひとつの作品。ビールという作家の作品。赤と白の小さくて派手な小屋が山の中にあって、中にはいると、ずらっと並んだ冷凍庫の中に雪だるまが展示されている。そんな作品。そしておじいちゃんからのはがきの言葉。「常に豊かで余裕のある姿をとるように」。やっぱり、家族からの言葉は、何よりも重く響く。たぶん、良い言葉も悪い言葉も(それがラカン風に言う「充実した言葉」であれば)そうなんだろうなと思う。どんなに偉大な作家の言葉よりも、家族からの言葉は重く響く。家族からの「君は~なんだよ。」というタイプの言葉は。精神に直接刻まれる、というか、刻まれていたものが再び浮き彫りにされるかのよう。