04051919
これから僕は「移住を生活する」ということをはじめてみる。これは、それまでの僕自身の生活を俯瞰するための方法。
この閉じた生活の全ての元凶はあの「不動産」とか「家」とか呼ばれるものであると考えてみて、ここからなんとか、頭1つぶんだけでもいいから抜け出し、俯瞰するように眺めてみるための「いくつもの家のペン画」と、「ペン画から生まれたような家」を使って。
これまでの一年。今ふり返ると長いような短いような。不思議な一年だった。
去年の3月ごろ、このままやっていたら、なんだか自分は駄目になってしまうような気がする。と感じて、共同アトリエを出て、展示やプロジェクトのお誘いを断りさえもして、ビアガーデンのホールスタッフと清掃員のバイトをやりはじめた。そんで、多くのアルバイトは、基本的に人間性の否定でなりたってることがわかった。時給制っていう考え方が、その原因になっている。そこでは、それまでの自分のやってきたことなんか、人間性や、思想や信念なんか、全く無意味なものになってしまう。そこで求められるのは、その職場で、いかに他の人と同じように動くか。その職場が定めた"ダンス"を、いかに完璧に踊りこなすか、それだけが求められる。人と違うことをしたり考えたりすると、基本的に嫌われる。そんなものは、そこでは役に立たない。自分で自分に命令してなにかを制作したり、自分の通った足跡をみて、考えて、また次の制作に挑んでいくような作業は、そこでは、全く何の意味も成さない。自分にしか基準がないものは、他からみたら、何もやってないのと同じだという"錯覚"を覚え込まされる。これは錯覚なのだ。それがアルバイトの現場だった。でも、それまでの生活をほとんど無かったことのようにふるまって、バイトばっかりしていた。そこに自分をおいて、嫌な歴史、二度と戻りたくない日々を自分の精神に刻み込むために。感覚を開くために。深く潜るためには、その必要のない現場に身をおいている必要があった。労働によってのみ、僕たちは僕"たち"という個別性を獲得できる。
そして10月には香川に引っ越してきて、第2期のバイト生活をはじめた。自分でもなんでこんなことになっているのかわけがわからなくて、もう自分の境遇に笑うしかなかった。なんで自分は香川県の海鮮料理屋で働いているのか。なんでこんなところで「いらっしゃいませー」とか言ってるのか。なんなんだこれは。って思って、油断すると笑えてきちゃう。そんな日々。とにかくこの一年間ほとんどフリーターだった。
バイト生活をはじめた直後のころは、なんてうまく設計された世界なんだ、という感想から始まって、お金と食べ物は等価な"交換"のはずなのに、食べ物を提供する方がお金を払う方に対して敬語なのはなぜなのだ。という疑問につながっていった。エンデの本を読んでみた。そしてわかったのは、プラスの利子という考え方が、お金の力を必要以上に大きくしてしまっている、ということ。お金を動かさずに貯めておいた方が、増えていくという考え方。「貯金」という考え方。これはもろに、敷地境界を設定し、他と自分の資産を区別することによって競争をつくり成長してきたこの社会の成り立ちに関わっている。
縄文時代に定住が始まったのは、土器が発達したからという説があるらしくて、要するに、物を蓄えるようになってから、人は定住をはじめたという説。そこから稲作が始まって、それが分業に繋がって、お金の話に繋がっていくのだと思う。
なんとなく見えてきたのは、この生活が、それまで思っていた以上に、閉じたものであるということ。僕たちは閉じ込められている。僕たちは、自動販売機を夜通し動かすために、ハンバーガーをひとつ100円で買うために、仕事をしている。もっとわかりやすい例えがある。僕たちは、十キロ離れた仕事場に素早くたどり着くために仕事をしている。明日の仕事と生活のために今日の仕事と生活を営む。この、貯蓄と定住を前提とした生活によって営まれてきた文明。フーコーが「ダイアグラム」とか「装置」と呼んだもの。この閉じた生活。わかりやすい悪者なんて一人もいない。人に向かって指したはずのその指は、気づかないうちに自分自身に指されている。あなたは僕であり、僕はあなたであるという状態。原発事故を起こしたのは僕でもあり、原発反対を叫んでいるのは僕でもあり、原発推進をしているのも僕でもある、という状態。「お前たちは」という呼びかけは「私たちは」という呼びかけと同じだ。この輪。ここから抜け出すことはできないけれど、対象化することはできるかもしれない。抜け出すという志向性そのものに形を与えることはできる。可動部分が少ないロボットのようになりたくない。定められたダンスを踊ることが「楽しい」と思えてしまう体になりたくない。
原発の再稼働に反対だと、どうも主張しきれないのはなぜか。人に何かを薦めるときに、あるいは何かを批判する時に胸をかすめる「お前はどうなんだ」というあの感覚はどこからくるのか。それを暴くための方法。僕はいま25歳。もう四半世紀いきている。たぶん1世紀なんて、僕が思っている以上にあっという間に過ぎ去っていくのだろう。最近有島武郎の「小さき者へ」という短編を読んだ。ちょうど100年近く前に書かれたものだ。あっという間なのだ、100年なんて。量としての年月なんて。取るに足らないことなのだ。